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触れ合うと言葉より君のことを知れる気がした

 日曜の朝からバイトに出かける。
いつもより少ない人と快適な電車内だ。最寄駅に着き立ち上がり電車を降りると、目の前にカップルらしき男女が歩く。女は右手を手慣れた手つきで男の左腕にかける。男もまた慣れたようにバッグを左手から右手に持ち替えてその女の腕に合わせる。その隣には同い年くらいの男女が手は合わせずとも仲良く会話している。最近カップルをよく見てしまう。これは別に妬み嫉みとかじゃなくて。どうしてこの人はこの人を選んだのだろうと勝手に考えてしまう。好きになる理由って何なんだろうか。

 これは好きな人に限った話ではない。趣味においてもそう思う。好きな音楽とか本とか。あることを好きになる理由って一体なんなんだ。カップルを見ながらそんなことを考えてしまう。貴方たちは何故その人を選んだんですか?と問いかけたくなる。残念ながら自分にはそういう相手はいないので趣味に変換すると少しずつ理解する部分も見えてきた。これだという意識の承認と触れ合う時間にあるという事だ。

 好きになってから今でもずっと好きでいるバンドがいる。そのバンドのライブは今でも普通に行く。アニメと映画の主題歌をやってたのをたまたま聴いて、その後に自分の聴いてたラジオに数分のレギュラーコーナーを持ち始めて好きになった。アニメで初めてその曲を聴いてから、ラジオのコーナーが始まるまでわずか1ヶ月。けれどこのバンドが好きだという意識が芽生えるには十分すぎる時間だった。これが好きだと思うタイミングは人それぞれだけど、それを好きと承認することが何でもなかったもの、人が大切な趣味や大切な人へと変換されていくのだと思う。だから、アニメの主題歌やラジオを聴くようになって、ただの1アーティストでしかなかったあのバンドのことを好きと承認した結果、今一番好きなアーティストとして自分の中に残り続けている。

 SNSから見られる承認欲求もそれに関連しているのではないかと考えている。みんなから承認してもらいたい、受け入れてもらいたいという欲求はみんなに好きという承認が欲しいという気持ちの上にできている。これはいつか実験とかして検証してみたいなあ。仮説を考えておこう。

 そこから好きを持続させることが必要になってくる。自分なんかは特に飽き性だから、この触れ合う時間が少ないとすぐに飽きて気持ちがなくなってしまう。気持ちをそこに預けることができるのは、それを預けてもいいと思えるほどに理解しているからだと思う。趣味において考えるのであれば、定期的に触れ合う時間が生まれてくる。自分が好きな音楽を聴き、そのアーティストのライブに行く。好きなスポーツをやったり、観たりする。好きな人と会ってデートをする。そういった触れ合いが気持ちの中の好きという承認を確実なものにさせて持続させていく。電車で見た手を組むカップルもそれが二人の好きを承認し合うひとつの手段なのかも。二人にとってはとても大事なことなんてのは言い過ぎかもしれないけど。男女の絶対に別れる〜なんて言ってる喧嘩中のカップルとかも会って話したら結局仲直りするなんてこともざらなのだ。絶対に別れる〜なんて言ってる時点で別れるつもりなんて最初から無いのかもしれないけどね。

 Yahoo!知恵袋に「愛を育むことと愛を深めることは同じ意味なのでしょうか?」という質問を見たことがある。それに対してのベストアンサーには、
愛を育む→これから愛に成長していく過程、
愛を深める→すでに確固とした愛があり、それを深めていく
と記されてあった。まさにベストアンサーすぎる回答だ、完全に同意する。自分の考えに当てはめて記述するなら「愛を育むこと」が好きを承認する過程であり、「愛を深めること」は好きな対象と触れ合う時間に値するだろう。こういった順序を経て人は好きな理由を確立していく。自分は何かを好きになるきっかけをいつでも探している。この探究心が好きな気持ちにリンクしていく瞬間がたまらなく”好き”だからだ。これは女性に対してもそうなんだけどさ、なかなかうまくいかないぜ。


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