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スウィートビター・チョコレート

 心地よい関係であり続けるためには、変化というものにひどく敏感でなければならない。

 心地よい関係。例えば、恋仲の幼馴染だとか、相思相愛を気づかぬふりしている男女だとか、一途に片想いし続ける後輩と先輩だとか。
 そういう心地よい関係というものは、奇跡の具合で成り立っている。

 ひとたびどちらかが告白してしまえば、その関係はすぐに変化してしまうのだ。もしかしたら、いやもしかしなくとも、交際という関係にはいけるかもしれない。
 しかし、それは必ずしもプラスであるとは限らない。少なくとも僕は、交際することで逆に幸福度が下がるという状況を幾度となく見てきた。

 恋に落ちるのには十分すぎるほど可憐な幼馴染も、中学三年生のクリスマスに告白してきたあの女の子も、ことあるごとに僕をいじってきた優しい笑顔の先輩も。みんな「告白」という変化にはおしなべて積極的で、すぐに心地よい関係は終わりを告げた。

 付き合う前のあの高揚は、この心地よい関係は何しても変化しないはずだ、という絶対的な安心感のもとで成り立っているものであり、あくまでそれは適切な距離を保ち続けた上での幸福に過ぎないのだ。

 変化を望むことは、関係の終焉を望むことと同義であるということを、僕は身にしみて感じていた。

 バレンタインと聞いて、僕が真っ先に思い浮かべるのは、苦い思い出ばかりだった。
 キーンコーンカーンコーンというチャイムの音を合図に、教室はいつもどおりの喧騒に包まれる。
 不自然に静まり、おのおののグループにひっそりと分かれる男子生徒とは対照的に、友チョコを交換し合う女子生徒はひとしおその笑い声を大きくする。
 青春を代表する甘い期待が、教室内にはみっちりと詰まっていた。

 しかし、僕はこのイベントの残酷さを知っている。スウィートチョコレートのように甘く、それでいてビターチョコレートのように苦い、この青春格差を。

 一般に、男子としてスペックの高い──例えば優しさであったり、容姿であったり、能力であったり、何かに秀でている──そんな生徒のみが、甘いチョコレートを享受する。
 そして、そのほかの冴えない男子たちは、人並み程度には秘めた期待とともに、両手をからにして帰宅する。一方的で残酷な選別だった。

 これは、いわば中古本の買い取りのようなもので、中身がよい、見た目のよいものだけが価値を見出され、そうでないものは、価値なしとして人知れず切り捨てられるのだ。

 そんな半ば強制的に男子としての価値を査定されるこのイベントが、僕はたまらなく嫌いだった。
 それはもちろん僕よりもよい価値を見出された男子への嫉妬の念もあるのだろうが、それだけではない。

 僕は、こういう「変化」のきっかけとなるようなイベントが、嫌いだったのだ。

 初恋だった、僕の幼馴染。

 赤ちゃんのころから、僕たちは本物の兄妹のようにずっと一緒だったらしい。
 何をするにも必ず二人セットで行動し、幼稚園も、小学校も、家に帰ってからも、ずっと二人だけで過ごしてきた。

 ここまで時間をともにすると、もはや恋愛感情すら湧かなくなるんじゃないかと思うかもしれないが、少なくとも僕たちは違った。
 中学校に入って、身長も伸び始めた僕は、りんごが重力のままに木から落ちるように、当たり前にその幼馴染に恋をした。初恋だった。

 ただの幼馴染だった女の子を、徐々に異性として意識し始める感覚というのは、それまでの僕からは考えられないもので、初めは後ろめたさに苛まれ、僕は必死に本能に抗っていた。僕はひどく罪悪感を感じて、図らずも少し距離を置いてしまうこともあった。

 しかし、そんな感覚も、お互いの気持ちが同じだということに薄々気づき始めたあたりから、心地のよいものに変わっていった。
 なんとなく甘くて、むず痒くて、考えるだけで走り出したくなるような、そんな心地よい関係になる。

 僕たちは、遠足に出かけた。
 春は山にハイキングに出かけ、頂上の展望台で夜空を見上げた。

 夏は一緒に花火大会に行った。あの子が口をつけたラムネを、ドキドキしながら一口もらった。
 海にも行った。夏の照りつける太陽はあの子ととても相性が良くて、海の青に浮かぶ白い肌には、心を揺さぶられた。

 秋はとくに何もなかった。互いの家に押しかけては、一日中レコードを聴きながら好きな曲について語り合う、なんてことをした。

 冬は雪合戦をした。頬を赤らめながら白い息を吐くあの子は、抱きしめたくなるほどかわいらしくて、思わずいじわるもしてしまった。雪の冷たさも忘れるくらい、僕は無邪気なあの子に見惚れていた。

 中学三年生のバレンタインの日だった。
 手作りのチョコレートを持って校舎裏に僕を呼び出した幼馴染は、僕に告白をした。

 それは紛れもない「変化」だった。

 その日から、僕たちの心地よい関係は少しずつ変化し始める。交際こそしてみたものの、それは半年も続かなかった。
 ただの幼馴染時代に感じていた高揚は、甘いチョコレートとともに溶けてなくなってしまったのだ。

 結局、僕たちは違う高校へと進学し、心地よい関係は終わりを告げた。
 その日から、僕は勇気を出して「変化」を望むことが、大嫌いになったのだった。

 高校一年生の冬、去年のバレンタインのお話。

 その年、幼馴染との苦い思い出を割り切るためか、僕には好きな子ができた。
 きっかけというきっかけはなく、だからといって一目惚れというわけでもなく、毎日同じ校舎で見かけるだけの後輩の女の子に、僕は恋をした。

 もはや恋というべきかも分からなかった。幸せそうで純粋そうな顔をした女の子が、僕はただただ羨ましかっただけなのかもしれない。感情がどうであれ、僕は好きな子と呼べる相手が欲しかった。

 その後輩は、笑顔がよかった。
 無邪気に笑うそのさまには、まるで赤子のようなあどけなさがあり、僕はすぐに心を惹かれた。友達と話している間の、小柄な後輩の上目遣いは信じられないほどの破壊力を持ち合わせていて、僕の心はすぐに崩れてしまう。

 僕は、できれば話をしてみたかった。「変化」を望むことが関係の終焉を望むことと同義でないのならば、僕はその後輩と恋仲になってみたかった。
 それでも、僕がやっぱり「変化」を望めなかったのは、話しかける勇気が出なかったのは、幼馴染との苦い思い出が心に深く刻まれていたからだ。

 「変化」の選択には、少なからず変わる勇気というものが必要になる。そんな勇気を振り絞ってまで、束の間の幸福のために関係を終わらせてしまうのは、僕は嫌だった。
 外側だけが苦いチョコレートを、さらに苦くなるのを恐れて噛むのを躊躇うように、僕はこの苦いともいえる後輩との関係を、チョコレートのように舐め続けることにしたのだった。

 そして迎えたバレンタインの日。

 毎年のように懲りずにどこかざわつきを感じさせる教室内の男子たち。放課後、僕は眼前に見える数々の「変化」を尻目に、教室を立ち去ろうとしたときだった。

 教室の後ろの入り口に見えたのは、例の後輩だった。
 後輩はきょろきょろと教室内を少し見渡したのち、ついに僕と目が合う。初めてのコミュニケーションだった。

 そしてそのまま後輩は、入口で軽く礼をしてから教室の中へと入ってきた。
 すでに僕とのアイコンタクトは終わっていたが、机を避けながらも後輩は僕のほうへと近づいてくる。一歩、また一歩と。
 茶髪のショートカットがさらさらと揺れる。

 後輩は、僕の目の前で歩みを止めた。
 ゆっくりと顔を上げて僕と目を合わせた後輩は、僕よりも頭一つ分小さくて、そのまま持ち帰りたいくらいだった。

 ありきたりかもしれない。バレンタインの邂逅。
 どこからともなく流れてきた青春の香りが、僕の鼻をかすめた。

 そして、後輩は僕の目を見据えて言った。

「先輩、好きですか?」

 数秒間の間があった。すぐに後輩は言葉足らずだったことに気がついて、恥ずかしげに耳を赤く染めながら訂正する。

「チョコ、好きですか?」

 澄んだ声をしていた。単純に、僕はたまらなく嬉しかった。ようやく僕は後輩と話ができるのだ、報われるのだと思った。

 それと同時に、心の底にとある恐怖心も芽生えた。「変化」を選択した末路を思い出して、途端に声を出すことが間違っているような気がしてくる。喉に力が入らなくなる。

 それでも、僕は自分の過去と決別するため、そして僕と後輩の関係に区切りをつけるため、口の中の苦いチョコレートを、ついに噛むことにした。

「うん。大好きだよ」

 会話は成立した。
 はたから見ると、それが不完全であることは明らかだったと思う。だけど、僕はそんな会話でもできたことがただひたすら嬉しくて、愛おしくて、かつてないほど胸が高鳴っているのを感じた。

 後輩は僕の言葉を聞いて、また頬と耳を赤くしていた。その反応を見て自分が言葉足らずだったことに気がついた僕は、訂正しようと思ってやっぱりやめた。

 あながち、間違ってもないと思ったから。

 ややあって、僕にボール型のチョコレートを手渡した後輩は、そのまま僕に背中を向けて、教室の入り口へと走っていった。
 僕がその小さな背中を眺めていると、入り口に着いた後輩は改めて僕のほうを向き直し、口パクで「よろしく」とだけ言って、微笑みながら僕に向けて小さく手を振った。

 後輩の姿が見えなくなってから、僕は教室の端でうずくまって悶えたのだった。


 後輩から貰ったチョコレートは、とてつもなく苦かった。今まで食べたことがないほどそれは苦くて、食べられたもんじゃなかった。

 僕はそんな苦いチョコレートを飲み込むために、意を決して「変化」を望んだ。過去を乗り越えるために、噛んだのだ。
 チョコレートの中には驚くほど甘いコーティングを施されたアーモンドが入っていた。ただただ愛らしさを感じる仕掛けには、思わず笑みがこぼれてしまう。

 全て食べ終えたあと、僕は、噛んでよかった、そう心から思えたのだった。

 あれから、僕は後輩の姿を見かけることは全くなくなった。

 おそらく転校したのだろう。
 僕が「おそらく」というのは、つまり、僕自身もなぜ後輩が突如として姿を消したのかを知らないのだ。

 もしかしたら、僕と偶然会っていないだけかもしれない。もしかしたら、大きな怪我を負って病院に入院しているのかもしれない。もしかしたら、事件やら事故やらに巻き込まれてすでに亡くなっているのかもしれない。

 そんな数ある可能性の中から、僕が後輩の転校を選んだ理由は、ただ単にそれが一番、後輩が無事で元気に暮らせる世界線だったというだけだ。特に深い理由はない。

 僕は後輩とのこの結末も、「変化」の代償だと思うことにした。
 去年のバレンタイン、僕は初めて後輩とコミュニケーションを取った。そのせいで、後輩との適切な距離が、後輩との心地よい関係が、終わりを迎えたと思った。
 そう思い込まないと、僕はやりきれなかった。何かのせいにしたかった。僕が間違っていたんだと、確信を持っていたかった。

 僕は、依然として後輩に思いを寄せ続けた。

 今年も、バレンタインがやってくる。

 苦い思い出が二つもあるバレンタインだったが、僕は不思議とそのイベントが嫌いではなくなっていた。
 青春格差を助長する構造であることには未だ否定的な意見を持っているが、イベント自体は好きだった。

 「変化」のきっかけとなるイベント。
 それは必ずしも別れだけを連れてくるわけではないということを、僕はなんとなく漠然と理解し始めていた。

 放課後になったことを知らせるチャイムが鳴り、教室内は男子生徒の期待で埋め尽くされる。
 僕は同級生の女の子二人からまずチョコレートを貰い、そして廊下を歩いているときに、知り合いの先輩からもまたチョコレートを貰った。

 先輩から貰ったチョコレートは、ずっと甘ったるかった。
 よく、チョコレートというものはあの甘さが美味しいんだ、と言って無数に食べまくる人がいるが、僕にはそれは無理だと思った。一つ食べただけで、口の中から喉の奥まで不快なほどの甘さが残った。噛むまでもなく溶けていったそれは、俗に「生チョコレート」というらしい。

 同級生の女の子から貰ったチョコレートは、なんとなくもの足りなかった。
 もちろん美味しくないというわけでは全くない。しかし、とりわけ美味しいというわけでもなく、具体的にどこが足りないとは言えないものの、何か大事なものが入ってない味がした。
 二人分、二つ続けて食べてみたが、それでもまだ食べ続けられると思うくらいには、もの足りなかった。

 僕は校舎を出て、校門の手前に置かれた青い自動販売機で、カフェオレを買って飲んだ。
 ほどよい苦味が、甘い口の中をリセットする。
 そして眺めるともなく淡い雪が降るのを眺めながら、僕は校門から足を一歩踏み出した。

 そこに、いた。

 茶髪で、ショートカットの、小柄で愛嬌があり、笑顔が素敵で、上目遣いがたまらない、あの後輩が。

 一年ぶりの再会だった。一瞬、夢だとも思った。
 呆気に取られている僕に気づいた後輩は、僕のもとへと小走りで近づいてくる。
 そして、一年前と同じように僕の目を見据えて、

「お久しぶりです」

 微笑みながらそう言った。
 不思議と、僕はとても落ち着いていた。焦りも不安もない。二人の視線だけが、ただただ重なり合う。

 今度は僕から、一ついじわるを仕掛けよう。
 そう思った僕は、カフェオレを握る手に少し力を込めて、

「好きか?」

 優しく、そう尋ねる。なんとなく甘い雪の香りがして、これこそが青春の香りなのだと思った。
 弾ける笑顔で、後輩は言う。

「大好きですよ」

 僕も、同じ言葉を返す。

「僕も大好きだ」

 互いに気づかないふりをしている僕たちは、そんな状況がおかしくて愛おしくて、しばらく二人で笑い合った。

 しばらくして、後輩が僕に話しかける。

「先輩、チョコは好きですか?」

 安心感のある会話だった。相手がなんと答えるか、そして自分が何を話すか。全てが分かりきっていたはずなのに、この時間を終わらせたくなくて、僕はゆっくりと返事をする。

「もちろん。大好きだよ」

 赤いマフラーに包まれた後輩の顔が、徐々に赤に染まっていくのが見えて、また愛らしさを感じる。

 訊きたいこと、話したいこと、知りたいこと、見たいもの、したいこと、するべきこと、していくこと。
 その全てを今すぐにでも語り合いたくて、関係を進めたくて、想いが溢れそうで、僕はあまりにも幸福すぎると思った。

 もう心地よい関係は終わらせたくない。もう後悔はしたくない。きみだけは、失いたくない。

 ボール型のチョコレートを後輩から受け取った僕は、感情の向くままに、後輩を強く抱きしめた。
 降りしきる雪の冷たさも忘れてしまうくらい、後輩の体は温かかった。好きだ、と思った。

 後輩から貰ったチョコレートは、非常に心地のよい甘さだった。まるで僕の好みを知り尽くしているかのごとく、甘味と苦味の塩梅は完璧で、僕は噛むのがおしい、と思った。

 幼馴染と後輩から学んだ「変化」の本当の意味を頭の中で反芻しながら、僕はチョコレートを噛む。
 中には、深みのある苦いアーモンドが入っていた。
 その苦さ加減は甘いチョコレートと食べるにはちょうどいい具合で、そんな仕掛けを楽しみながら、僕はまた遠くにいる後輩に思いを馳せる。

 噛んでも噛まなくても、どちらにせよ美味しいってことか。やっぱり、敵わないなと思った。

 もしこのチョコレートに名前をつけるとするなら。
 親しみを込めて、僕は「スウィートビター・チョコレート」と、そう名付けたいと思う。

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