「生まれなければよかった」の誤解

「仰々しくてごめんなさい!でも仰々しいってどういう意味ですか?」

至極安全な結論に落ち着きます。どうか理性的に検討してください。

私は「消極的」な「反出生主義」(アンチナタリズム)を支持しています。(少なくとも今のところは、ですが。正しくないと結論すれば鞍替えするでしょう)

あーーーそこのあなたブラウザバックしないで〜〜〜!
確かに字面はエグいけど不快感持たないで!今から説明しますから。(専門家ではないので至らない部分や誤りがあるかも知れませんが大筋は分かっているつもりです) 
「よくある反論」とか最後の「まとめ」でその嫌悪感解消するかもですのでここまで来たら最後まで読んで欲しいです……が強制はしません……。この思想は見た目の仰々しさからあらぬ主張を勘違いで捏造されて叩かれがちです。そんな誤解で嫌われるのは腑に落ちないので……。
それに、あなたにこの考え方を強制することはありませんので、納得できなければスルーしていただいて、今まで通りに生活してください。「生」と「死」について再考いただいても結構です。また、子供を産むことの是非は関係なく、少なくとも、私たちは人を1人存在させてしまうという行為の責任の重さに無頓着であることを自覚し、考えていかなければならない、のではないでしょうか。

※この記事では「生前」という言葉を使うことがありますが、決して一般的に使われているように、「かつて故人の生きていたとき」ではありません。文字通り生まれる前を指しています。(きっとこの誤用はみな生まれる前に無関心だからであるのかも知れないですね、もう過ぎ去ったことなので)

反出生主義は優生思想とは似て非なるものです。(そもそも優生思想は人種などに関することなので「反出生主義は命の選別ではない」という方が正しい)
簡単に説明すると、優生思想はあくまでこちらの都合で考え、反出生主義は産まされる側の都合を考えるという感じでしょうか。

以下のようなステレオタイプによる決めつけはここで正すよう願います
反出生主義→人生が楽しくない、苦痛だからネガティブに考える。
出生主義 →人生が楽しい、上手くいっているからポジティブに考える。
(私は酸いも甘いも噛み分けてきたので、苦痛だった過去と楽しい今を背負っています)

私は親や子供にヘイトを持っているわけではありません。

※この思想はやや理想論チックであり(ただし論理的確証は強い)、流行ると人口が減るという性質をもっていることから、左翼が国力を下げるためにエセ反出生主義者を名乗っていることもあります。そいつらに騙されないように気をつけてください。

※私が初めてこの思想の存在を知り、深く探求するようになったのは、執筆時の1ヶ月前あたりからです。ただ、似たような考えの断片は幼少期からずっと持っていました。まあ初心者っちゃ初心者です。あんま期待しないでください。

※私は少しずつ思考を積み重ねていくタイプ(?)なので、記事の最後に色々追記していきます。ちょっと見ずらいけど許してください。

反出生主義って何?

簡単に言うと、「子供は生まないほうが道徳的に善いよね」という話。

英語ではアンチナタリズム(Anti-natalism)と言い、子供を作ることを推進するナタリズム(natalism)に反対する立場のことを意味します。

仏教の「欲求を捨てる」「解脱」「一切皆苦」思想に少しだけ似ています。

反出生主義とアンチナタリズムでは微妙な意味の違いによる言葉の使い分けがあります(アンチナタリズムの方がより道徳的、哲学的立場が強い)。本記事では反出生主義で統一します。

一体どんな理由でそんなトンデモにしか思えない思想が存在しているのかじっくり落ち着いて見ていきましょう。ちょくちょく私の思う立場も語ります。
信じるか信じないかはあなた次第です。

主な論拠

生まれることで人間や環境、他の生物たちに悪影響を与えるから

人間は戦争や犯罪で多くの人間を苦しめ、しかも他にも動物たちも巻き込んだ上、環境も破壊している。したがってこれ以上人を存続させるべきではない。これを主な根拠にしているのが厭世主義的反出生主義です。

単純明快ですが、正直私は、これはやや言いすぎではないかと思います。
統計的にはそうした悪は確実に少なくなっている(まあ微分係数が負なだけでまだまだ多いのかもしれませんが)ので、認知の歪みの可能性があります。

また、環境という無機物に人格を与えている場合はさらに問題です。地球のために〜という理由をつけるのはどういうことでしょうか。自分たちが困るからという理由(環境変化も一形態なのだから)なら理解できますが……。自分たちの行為によって自分たちが困っているのだから生殖をやめよう、って発想が飛びすぎてませんかね?普通に解決を目指すのが先では?

生まれることで苦しみを経験するから

まず、生まれる前と生まれた後を比較します。数値で考えると分かりやすいでしょう。(苦痛と幸福が同程度に発生すると仮定しています)(また、生前では幸福、苦痛があるかは不明なので無いとしています)

生前
→幸福でなくてもそれは感じられないので別に悪くはない:+0
→苦痛でないことは良い:+1 
合計幸福度は+1

生後
→幸福であることは良い:+1
→苦痛であることは悪い:-1
合計幸福度は0

したがって出生前のほうが確定的に少しではあるが幸福になるため、何が起こるか分からないまま同程度に幸せ不幸せが発生する出生後よりはましということです。ちなみにこのことを幸福と苦痛の非対称性と言います。これを主な根拠にしているのが博愛主義的反出生主義です。
私は博愛主義的反出生主義に近いですが、この論法はやや疑問に思います。(不勉強なだけかもしれませんが)
ただ、存在していない胎児目線では快も不快もないので確かに疑問ですが、今生きている私たちの道徳的視点から見ると、納得が行く気がします。
「相手が存在していなければ幸福を与えなくても問題ない」
(ただし、奪ってはならない。ここでは存在がないのでそもそも奪えない。)
「相手が存在していなければ苦痛を与えないのは良い」
「相手が存在していれば幸福を与えるのは良い」
「相手が存在していれば苦痛を与えるのは悪い」
そしてもう一つ、こう考えてみるとどうでしょうか。
「確かに、非存在者にとって存在しないのが良いと言うことはできないかもしれないが、存在者にとって存在することは存在しなかったシナリオより悪いということは出来るはずだ。」(べネターの著書より)
つまり、本人の判断に関係なくほぼ客観的に、存在しないことは存在することよりマシであるということです。自分が生まれて良くなかったから子供を産まないという主観の押しつけではないです。

それと、そもそも生きている上で、幸福が発生するのは欲望を満たしたときで、その前には不快な感情が発生せざるを得ないので、喜びは苦しみに常に相殺されると説くエフィリズムというのもあります。喜びを得るには代償として苦しみが必要なのに、苦しみには喜びが伴わない(ことが多い)、ということですね。
例:喉が渇いているとき、水を飲めば気持ちいいが飲めない間は苦しい。

不幸と幸福の質が考慮されていない気がするし、喜びに至るまでの苦痛が単純に幸福を打ち消すわけではない気もするので私はそこまで支持していません。

※そもそも生物は生存するようにプログラムされているので、幸福を求めるというよりは苦痛を避けているはずで、幸福はある種の「おまけ」であるから、存在しない間は幸福がなくてもさしたる問題ではないという考えもあります。

子供を作ることは自分勝手で自己中な行為だから

子作りの意欲というはどうあがいても親のエゴから発生し、すでに存在する人の勝手な都合で行われるものです。生まれてくる子供は生まれたいか、生まれたくないかというのを判断することは不可能です。「そろそろ子供が欲しい」というセリフに現れているように、親が子を自分たちの喜びのために作ったり、社会がその存続のために子供を作らせたりすることはある種、子供を道具として扱うことになります。他人を自分の私利私欲のために利用するというのはどう考えても道徳的に悪い行為です。

子供を勝手に産むというのはある意味賭け、ギャンブルで、幸せになれるかは分かりません。それにその影響をもろに受けるのは生まれることに同意をしていない子どもたちです。
きっと喜ぶだろうからと言って他人に生を押し付ける行為は、結果的に子供が恵まれていたとしても、同意されていない以上、良いものであるとは確信して言えません。私は主にこの理由から反出生主義を(部分的に)支持しています。

分かりやすくするためにたとえ話をしましょう。
Aさんはコナミの株を多く保有していて、話の流れでBさんにそのことを明かし、証明のために取引画面を見せました。
Aさんはトイレに行ってくるとその場を離れました。
Bさんはいきなり株価が急騰し、+1410672という数字が出ているのを確認したため、チャンスだと思い株を勝手に売却してしまいました。
結果的に約140万円を手にしましたが、実はAさんはコナミのゲームが好きで、株を買っていたのでした。
とかですね……

よくある反論

そう思うならなぜあなたは死なないのか? 
→もう生まされてしまったので後の祭りです。後悔はしますが、結局自分では引きずっても何も幸せにならないので、頑張って生きるしかないのです。
そして生から死へ飛ぶということもまたコストのかかる行為なので……しかもそれもまたギャンブルですから……。死後の世界はあまりにも未知すぎて危険だし、もし輪廻転生があったとしてまた0から生まれ直すのが良いんですかね……。本末転倒にも程があります。それに人生には意味がないので自殺にも意味はありませんから、そう考えれば好き勝手生きるかーとも思えます。(実存主義的)

過ちに過ちを重ねることはしません。ちなみに私は生きてて良かった(ごちうさという作品に出会えた、素晴らしい音楽や学問に出会えた)と思っていますが、これは私の話であって、少なくとも現在では、人類全体で見ると生まれる必要性は薄いです。許可が取れないということもありますしね。
(「生きてて良かった」は今までの生き方を含めた全肯定に感じます)

なら早く死んだらどうですか?
→前項とほぼ同様。ちなみにもしこれで私が死んだら、あなたは自殺教唆の罪にあたりますので気をつけたほうが良いですよ。
死ねと言われているのと同義なので普通にムカつきますわね……

人生では良いこともたくさんあるんじゃないか? 
→その通りです。しかし、産む時点で子に許可を取ったか、そしてギャンブルをさせていないかというのが問題になっているのであって、結果的に幸せな人生を歩んだとしても、その問題自体は残る。これはAさんの株の例で説明した通りです。
許可なく異世界転生させられ急に頑張って幸せを掴んでくれと言われても…
(もう遅いので欲しいなら努力するしかないのですが)

命を尊ばないというのか?
→逆です。むしろ、命が生きている人の意識だとするのであれば、人の権利(許可なく生まされない)を守ろうとしているのです。むやみに生ませないという点で逆に命を重く考えています。尊いのにも関わらずなぜ出生を否定するのかと言うと、命を大切に思うからこそ、むやみに生み出されて苦しむことが心苦しいと思うからです。
(したがって今生きている人がむやみに死んで個人の人格を失うことは、むやみに生殖されるのと同様に良くないので、正当性のない自殺は推奨していません)

違和感を感じる方は、命が重い、というより命の上の人格が重い、と考えてみるのはいかがでしょうか。
数字で、見知らぬ人が多く死んだと知るより、よく見知った人間が1人死んだと知るほうが悲しいように。
この場合の人格には権利(決定権、不幸を負わされない権利)が含まれます。

母親の、子を産む権利を侵しているのではないか? 
まあ確かにそれはありますが、権利より子供の苦しむリスクの方が重要という考え方が支配的なようです。
個人的にはどうしても生みたいならば一生懸命に幸せにしようとしていただきたい。経済的にも精神的にも能力的にも。なるべくギャンブルを有利にするために。そうでなければ子育てなんてもってのほかです。

子供を産む女性だけを否定する性差別なのではないか? 
→基本的に「出産」ではなく「生殖」を使っていますので男性側にも責任はもちろんあります。女性差別の意図はありません。

人類滅亡しろというのか?
→私は滅亡して欲しいとは思っていませんし、意図してません。ただもし、全人類が将来の子供の苦しみを取り除いていくために反出生主義を採用してしまうとなれば結果的に人類は衰退に向かうでしょう。

子供は判断基準を持っていないので、保護者が代わりに決定権を持ってもよいのではないか?
→例えば「理不尽な殺人を容認するなら自分も不当に殺されても良いというリスクを背負うことになる(=撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ)」というような考え方にもとづけば、良いと思います。ただやはり、保護者が再び生まされることはないので「産む」というのは非常にズルい行為ではあります。
もちろん、「生まない」という総意があったほうが結果的に苦痛は生まれないですが。
出生は法律で規制されるには至らないですが、やはり暴力的な行為であることに違いはないのです。

人間以外の動物にも同じことが適応されるなら、畜産も止める必要があるか?
→人によると思います。実際、ビーガンと反出生主義者は同値ではないです。(ただ、統計的に両方併発する人は多いかも知れないですが)
人間を特別視する(科学的に、または人間至上主義的に)か、人間を特別視しない(科学的に、または非人間中心主義的に)かで違いが出るという可能性があります。
私は中間的な立場を取ります。他の動物の苦痛も考慮する必要はあります(本当に苦痛を除くのが他の動物にとっても良いのかなども含めて)が、科学をもっていて自然を動かしてしまう人間はある程度自然の中心的に振る舞うことになりますし、人間と同じレベルで心がある動物は限られていますので。これは差別ではなく公平さを保つための区別です。
科学的に人間のほうが他の動物より痛みを感じやすいという証拠はまだないので、科学に依拠するならどちらとも言い切ることが出来ません。
動物に襲われるリスクを許容しているんだからいいだろ!という責任論を転用した反論もありますが、これは草食動物には襲われないし、そもそも閉じ込めてるので反論としては弱いでしょう
それと、反出生主義は今存在する人の欲はそこまで侵害しません。(強いて言うなら性欲ですが、完全避妊のうえでの性交か自慰をしていればそこまで問題ないでしょう)ただ将来の禍根を断つためにあります。しかし、完全菜食は三大欲求である食欲を大きく阻害します。その点で、ビーガンの押し付けは問題になりやすく、反出生主義の押し付け(「議論」ではなく、根拠の提示がない信条の押し付けの場合。あくまで議論であれば押し付ける押し付けないの話ではないので注意)は、相手が始めは不快な思いをするかもしれないということや強制中絶などを推進するような過激すぎる論を除けば問題になりにくいです。あと、ビーガンは精神的にも経済的にも余裕のある人しか実践できませんのでそこも気をつけないといけません。
また、今後生まれてくる家畜の苦痛は減らすように畜産産業の方々には訴えるが、今市場に出回っている肉はすでに家畜が殺されてしまった後なので、残さずに食べてあげようという考え方もあります。これでも十分に苦痛を減らしていくことが出来ます。不買運動の一種なので、肉を食べないというのは必ずしも必須とは言えないのです。(個人的にはそこまで支持せずですが)
つまり「ビーガンならば反出生主義者であり、反出生主義者ならばビーガンでなければならない」というわけではないです。(勘違いされがちですが)
ここらの話は動物倫理も絡んでくるのでもっと勉強が必要ですね。

生前の世界があるかも知れない。だから生前では必ずしも非存在と言えないのでは?
→その通りです。ですが、我々からは観測しようがない以上、仮定するしかないです。もし仮に生前の世界があったなら、あちらの世界での死がこちらの世界での生になっているんでしょうか……?
でしたらなおさら生まないほうが善いのでは……。
ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」ではないですが。

また、生前では苦痛は存在しないという前提が真偽不明だという考え方があります。つまり生前の世界が存在するなら生まないとしても結局向こうで苦痛が発生するから意味がないのではないかということです。この疑問には一旦苦痛の解釈を借りて確率的に答えを出してみることにします。私個人の意見ではないです。反論するとすればこうなるのかな、というわけです。仮に、生前の世界が存在するかどうかは同様に確からしく50%であるとします。存在する場合、ここでまた、現世の私達がその人を生む前に苦痛が存在したかどうかを同様に確からしく50%であるとします。以下私達が出生しないという条件付きの確率を考えます。
(1)生前の世界が存在し、かつ生前で幸福である場合は確率25%です。これは本人にとって「善」ということになります。
(2)生前の世界が存在し、かつ生前で苦痛だった場合は確率25%です。これは本人にとって「悪」ということになります。
(3)生前の世界が存在せず苦痛が発生しない場合(さすがに非存在が苦痛を感じるとは言い難いでしょう)は確率50%です。これは本人にとって「善」ということになります。
したがって総括すると確率的に善となる可能性の方が高い(25%<75%)から出生しない方が良いということです。

子供は親を選んで生まれてくるので何も問題はない。
→大有りですよ。まさか、あなたが子育てしている現状で子または他の人から何かしらの否定を受け、それを受け入れ改善しなければ子が苦しむまたは苦しむことになるというのに、本当かどうかもわからない妄想を使って自己正当化しようとしているわけじゃないでしょうね?

他人の苦痛を無意識に仮定してしまっているのではないか? 
→その通りです。ですが道徳的考え方ですので例外の人は想定していません。
それに、それを言うと自殺や他殺もまったく否定できなくなってしまいます。

すべての人に生きる価値がないわけではないのでは?
→今生きている人の価値は尊重しています。
まだ生まれてきていない人の価値を決めることは出来ません。
ちなみに出生させることで、勝手に子供の価値を決定しているということにもなりますので……。

苦痛を乗り越えて幸福を得ることそのものが良いのではないか? 
→確かにそうかも知れませんが他人に押し付けることではないでしょう。
それが苦痛を与えていい理由にはなりません。
あなたがどう感じようと自由です。
(ただしその有力な根拠を提示されれば議論に切り替わるので押し付けかどうかという話にはなりません。お気持ちだからこうなるだけであって)
ちなみに私もある程度はそう思います。
今を生きている人が逞しく艱難辛苦を乗り越える姿は尊敬に値します。
また、苦痛の耐性を獲得するためにわざと辛い目に合うという考え方も、生まれてしまったことありきで、本来そうする必要は出来れば無い方が良いはずです。

苦痛が多いことが絶対悪とは言えない。少なくとも私はそうだが?
→はい。それはあなたにとってですよね。そしてそれを理由に他人に苦痛を与えることは許されません。あくまで本人が選ぶことです。

苦痛と幸福の定義は人によるからこの議論は不適切ではないか?
→たとえ一般的な快不快の感覚からズレていたとしても、結局この議論は苦痛の内容には一切依存していないので、苦痛というラベルを人が避けている以上、問題ない論理展開のはずです。

科学、芸術などの人類の文明発展の産物が失われても良いのか? 
→確かにそれ自体は畏敬の対象です。でも人生の苦しみの副産物としてそれらが生まれたのならどうでしょうか?(戦後遺産的な)
これ以上は生み出さないという考えもあっていいんじゃないでしょうか。
まあ私は結構法則性とかに神秘を感じてしまうタイプなので自然科学が無くなってしまうというのは寂しいです。人類の全消滅は望んでいませんけど……苦しみと天秤にかけると諦めざるを得ないのでしょうか……?

人生が幸福か苦痛かは本人が選ぶことだから、そもそもの生きるチャンスすら与えないというのは勝手ではないか?
→生まれる権利というものですね。
ですがもし、ある人が望まない夜の営みの誘いを断っただけで「生まれる権利」が侵害されたことになるんですかね。流石にないと思います。きっとこれは断る権利の方が「生まれる権利」とやらより格段に大切だからではないでしょうか。
同様に、「生まれる権利」より「生まれるか生まれないかを選択する権利」の方が大切なのではないでしょうか。
また、人生をどうするかという選択は当たり前ですが生まれて(=生まれるという選択肢を強制されて)からしか出来ないです。
もし生まれた場合、それは勝手に生きるという選択肢を選ばされているので「生きるチャンスを与えられた」ということにはならず、ただ幸福か苦痛かを選択することしか出来ません。
逆にもし生まれなかった場合、許可のない選択の強制はありません。また、生まれたときよりは苦しむこともありません。
「生きるチャンス」と言いながら、生きることを強制してはならないのです。

では妊婦に中絶しろというのか? 
→まあもうすでに命が宿ってしまっているのですから、ある意味手遅れです。もし良心が痛むのであれば、産んで、絶対に生まれてきたことを後悔せさないという気概で一生懸命子育てしてください。
子供にギャンブルを強いてしまいそうだし、幸せにする子育てができそうにないと思えば、中絶した方が良いです。殺人を心配する必要はありません。
法律上では胎児は(殺人や傷害の客体としては)人にあたらないとありますので。
それならばそもそもなぜ避妊をしなかった、それに性行為をした?という話ですが。
(反出生主義ならば必ず中絶推進派であるという勘違いは多いです)

ではなぜあなたは尊みを感じ、「生きててよかった」と言うのか?それは反出生主義に矛盾しないのか?
→矛盾しません。私にとっては生きてて良かった、となるかも知れませんが、すべての人にとってそうとは限りませんし、「結果的に」偶然のおかげでそうなったというだけで、親に博打を強いられたというのは確かです。結果が良くても、その無責任な行為自体は非難されて良いでしょう。

まとめ

まあ正直自分が毒親もちじゃなければ、こんなある意味狂ってる思想にたどり着かなかったと思います。普通の人はこんなこと考えません。ある意味理性の無駄遣いです。ですが、あなたの想像以上に毒親や虐待は存在します。
良き親に恵まれた人たちにはとてつもなく気持ち悪いでしょう。自分と自分の親の行い、運命を否定することになるから。両親に感謝すらしている人ならなおさらです。しかもそういう人は社会の、「子供はみな親孝行すべき」という何の根拠もない常識を疑ったことがないですからねぇ(煽り口調でスミマセン)。
まあでも生殖がダメと言っているだけで恋愛や性行為、自慰は全然良いと思いますよ。まったく関係ないので。でも避妊してね。

結局、
もうすでに生まれてしまった人は幸せになってほしい」「これから生まれる子供は苦しまないようにしよう」「人は生まれる必要もなければ死ぬ必要もない」「無許可に、そして無根拠に生を受けたり死なされたりすることは悪である」「最終的に覚悟をもって産む、子供を幸せにすると決めた人はとことん応援する」というだけの話です。至って正常でしょ?
今生きている人の生殖以外の権利は否定していません。 
さらには、良い教育、環境、十分な経済的余裕があれば出生は規制されるほどではないという条件付きです。(逆に毒親のポテンシャルがあるやつは産むな、子育てに重い責任を持て、ということです)
安全な結論でしょう?
だから私は大分、「消極的な」反出生主義というわけで、個人的な見解には出生主義側の反論(※)も少し事前に受け入れた形になりました。

※具体例(他にもあります)
・そもそも悪は絶対に為してはいけないのか、許容される悪もあるのではないか。ならば環境などがしっかりしていて責任を持てるなら生んでもその行為は許される、または罪ではあるが罰せられはしないので可である。
→悪(子を勝手に産む)を悪(生きる人のいくつかの権利の否定)をもって断つ反出生主義か、そもそも悪(子を産む)の存在をある程度許容する出生主義かどちらを取るかという選択に落とし込んでいる。
・環境に害を与えるから滅ぼしたほうが良いというのはおかしい。無意識に地球や環境という無生物に情を与えているからである。本来地球がどうなろうが(人に危害が跳ね返ってこない限りは)別に問題ないはずだ。

反出生主義はある意味、なるべく苦しみを回避しようとしているだけの思想なんですね。ですがある意味お節介のように感じる方もいるのかも知れません。

出生主義というのもありましたが、これは種の存続や本能に訴えているところが大きい(調べてみてください)ので、論理的な部分は少なく、反出生主義の論破には不適です。(人間を対象にして議論している場合)
つまり、ある意味反出生主義は論理的にはなかなか難攻不落の思想ですので、おそらく出生主義によって根本から覆すというのは難しいはずです。

ところで安楽死もある程度支持します。 苦痛なく死ねれば、生にとどまるのが嫌だという正当な理由を持っている人が救われます。
自らによる死は肯定することはできませんし人格の喪失は基本的に悪いものですが、十分正当性のある理由(例えば苦痛を死後の世界で負うリスクや無に帰すリスクを許容する。ハードルはとても高いので消極的安楽死で十分かもしれません)があれば否定することもできません。少なくとも、生まれるときと違って本人が決めるんですから。

※ただし、現実的には困難も多いでしょう。本人の意志と言いながら、他者に迫られてしまった結果(いわゆるデスハラ)ということにもなりかねないですし、生死についてしっかり考えないままに決断を下してしまうということもあるかもしれません。みな揃って同じように考えられるわけではないうえに、なかなか自分と向き合わない人類にはまだ反出生主義と同様、安楽死法は少々早いのかも。

※(2020/10/21追記)安楽死は「生→死」の問題なので反出生主義とは直接的には関係がありません。「よくある反論」の「そう思うならなぜあなたは死なないのか? 」と同じ誤解をしないように。ここでは(自分で選択できるか否かという点で)対比をする目的で引き合いに出しています。

こんな長文をわざわざ読んでくださった方々、ありがとうございました。
気持ち悪くさせたらごめんなさい……でも論理的には以上ですべてです。
結果、理性的に(そして道徳的に)生きたいなら反出生主義側へ、命というロマンと責任を持って生みたいなら出生主義側へ傾くのが良いでしょう(個人的な感想です)。どちらにもつかないという選択肢もあります。
もしかしたら自分を否定されたような気分にさせてしまったかもしれませんので、改めて言います。
「あなたには生きて幸せになる権利があります。私は今、幸せです。できるだけ、あなたには優しくしたいです。」

「未来の子供たちにとっては生むのが必要とは限りません。」
あなた方が毒親でない限り、非難する気持ちはありません。

※誤字などを発見した場合、ツイッターアカウントまでお知らせください。

※追記(2020/7/10)

私は「生まれてくるであろう子供にとって出生は悪い」というよりは「許可を取れずに勝手に生を押し付けるという不道徳的行為を行うことが悪い」と主張しています。

私が人類絶滅をあまり望んでいないのは、今のままではあまりにも人口が減少すると、幸せな暮らしが実現しにくいからです。本末転倒になりかねないので……。ただ、十分に科学技術が発展すればそんなことも無くなるでしょうから、やるとしたらそれからでしょうか。

子を上手く育てられなかった親に対して「なぜまともに育てられないのに産んだんだ」などと言うつもりはありません。(少なくとも思想的にちゃんとした)反出生主義者は基本的に今生きている人を幸せにしたいので、親が上手に子育てできるように応援するでしょう。また、育てられない場合は施設に預けてもらうというのも手だと思います。下手に血縁や子供への固執愛を重視して親元にいても良くないので、どうせなら専門家に任せるのが良いでしょう。

現在、毒親に苦しんでいるという方には、認知療法、誤謬思考の修正、本を読んだりネットサーフィンをする、苦手や嫌いを避ける、得意や好きを突き詰める、探すなどの対策があります。(なおただの持論)

※追記(2020/9/19)

「チャイルドフリー」、つまり「個人的に子どもは持たない」という「ライフスタイル」がありますが、これは反出生主義とは似て非なるものです。
「規範命題」(理不尽な殺人は悪、幸福は善などの価値判断)と「ライフスタイル」(生活様式、個人的な考え方、主観的な正しさ)は異なるものです。
この記事では哲学、学問的な反出生主義の議論(の整理)に加え自分の見解を交えていますので、個人的なものである可能性は否めませんが、できる限り論理的に書いたつもりです。「反出生主義を信じるのは自由だが他人に押し付けるな」というのは避けていただきたい。(少なくともこの記事の大部分は)押し付ける付けないではなく正しいか正しくないかの話。
例えるなら、「(その根拠が否定されずに残り続けた後)私は理不尽な暴力は良くないと思う。でもあなたにそれは強制しない。」って言うのと同じです。これが完全にこの記事にも当てはまるわけではないですが、ちょっとおかしいでしょう。

※追記(2020/10/26)

「そもそも生死に善悪は存在しない」という考え方もあるようですが、ここではちゃぶ台返しになってしまい記事の目的と反するので取り上げていません。

※追記(2020/12/8)

「反出生主義者のような子の立場に立てる人こそが子を生むべきだ」という見た目優しげな主張が反出生側の内外ともに見られますが、これはただのマッチポンプでしかないです。
例えば、どうして人を殺したら同じだけ償えという題目があったとして、償うならば殺して良いことになるのか、いやならないでしょう。(反語)

この記事ではあたかも反出生主義は出生主義と対立するもの、として書いていますが、出生主義を「社会的観点から幸福を目指す思想」、反出生主義を「個人的観点から幸福を目指す思想」と固定するならば、(私個人の主張では主な論拠が意思の尊重にあるのであくまで一般的な話です)しばしば発生する、「個か全体か」という問題に帰着するでしょう。
その意味では、反出生主義と確かに対立する思想は「生命の哲学」(個から見て、生を肯定する)でしょうか。

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