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3月29日(水):居場所づくりにおける注意点

本日もこれまでの続きをもう少しばかり。

この10日間ほどは政府が進めようとしている学校や家庭以外の子どもにとっての「第三の居場所」づくりに向けたモデル事業に端を発して、コモンのことやコミュニティに触れています。

それに付随して先般からは書籍「孤独と居場所の社会学(阿比留久美著)」を引き合いに「居場所」について掘り下げ、①「主観/客観的承認」②「他者との関係性の有無」③「空間性の有無」という3つの観点から考えを広げてきました。

居場所についての観点が整理されたことで、意図した取り組みをするのであれば、どのような場が求められるのかという輪郭も浮かび上がってきた気がします。

そうしたなか、同書では居場所をつくる際の注意点にも言及をしていました。

ひとつは支援をするなかで生じる「支援者と被支援者の立場の固定化」です。

善意の活動はないよりもあったほうがいいという前置きをしつつも、それが支援としてなされる時には「人の尊厳を損なう危険性と紙一重」であり、善意の支援も「構造的に暴力性を持つものである」からこそ支援に際して被支援者の感情への配慮が欠かせない、という点です。

この点は書籍「コモンの再生」のなかで内田樹氏も同様な面を指摘しており、支援を受ける側が卑屈さを感じずにそれが受けられる制度でなければ意味がない旨の説明をしていました。

また別な側面として居場所づくりは以前にも取り上げたように不登校の子どもたちのためのフリースクールやフリースペースから生じたシェルターのような存在です。

それが政策課題のようにして学校などを含めた公的な活動に居場所作りが取り込まれることで、本来の形から変質したものになっていく懸念が挙げられています。

これはカウンターカルチャーがメインストリームに対する批判や抵抗性をもつ一方、批判対象を失うことで自らの存立基盤が薄れてしまうのと似たところがあるでしょうか。

言葉や形だけが独り歩きして手段が目的化することがないように、「誰のため」「何のため」の場であるのかを問い続けることが必要な気がします。

書籍「孤独と居場所の社会学」では「制度化される居場所が毀損するもの」と表現されているように、居場所づくりは必要ではあるものの、その進め方やそこに関与する人の配慮ある姿勢もまた同じぐらいに大事なことだと認識できた次第です。

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