(修正)カスパー・ハウザーになりたかった私

猛毒の書


我ながら最低にして最悪。
吐き出して過去に決別する意味合いもあるが、己の心の醜悪さをさらけ出して自分を許そうと思う、自虐的な試み。


実験と空想


人は自らの自尊心を満たすために子を作る
私はそうだと信じている
それ以外の目的がどこにあるというのか


カスパー・ハウザーと呼ばれた人がいた。
彼は(おそらくは)物心がついてから、あるいはつく前から一人だった。

カスパー・ハウザーはドイツで生まれ、16歳頃に保護されるまで牢獄に閉じ込められ、外部の情報と知識の一切を与えられずに育てられた。
彼は言葉を話せず、文字を知らず、他人との関わりを知らず、人生におけるあらゆる経験をしないまま16歳まで牢獄で生きた。

ある日、釈放なのか解放なのか外に出され、己の名前以外は何も解らない彼は、今度は研究対象として保護された。

そして保護されて僅か5年後に何者かに暗殺された。
言葉を覚え自らの極わずかな経験を語ろうとした矢先だったという。
誰が何の為にこのような事をしたのか未だに謎だと言われている。


普通の親はこんなことをしないと思うだろう。
普通の親が何なのか知らない私には解らない。

ただ一つ解るのは、カスパー・ハウザーは、彼を殺してまで口封じしなければならない人物による保護を受けていた子、つまりそれなりの地位か身分の人間が関わっていたという事だろうと思う。


私は彼に強い憧れを抱いている。


それは私が放置子だった事に起因している。
私は、自分がただ忘れ去られた子供ではなく、理由があって放置された子だったと思いたかったのだ。

疎まれた子では無い、何か特別な目的のもとに実験として放置され、自発的にどのように考え育つか観察されていたと思いたいのだ。

それが自分の空しい空想だと解っていながら。


彼は親を知らない、だから親の愛情を求めなかった。

私は目の前にいる親に愛情を求める事を禁じられた。

その歪みは私を酷く苦しめた。


両親の記憶が無い


昭和の好景気に沸く東京下町で、三人姉妹の末っ子として私は産まれた。
生後間もなくして母は外に働きに出るようになり、私は母に無視されるようになった。
私はあまり泣かない子で手がかからなかったと聞いている。
情報のソース元は私の姉と祖母だ。
実際、母との接点が殆どなかったため、私自身母の記憶があまりなく、他人からの説明が無ければ自分の置かれた状態が解らなかった事もある。

それに、自分の身の上を迂闊に他人に話すような子でもなかったし、何より自分が親に愛されていない子だと人に知られたくない、自分自身認めたくない気持ちが強かった。

それでも少しは母の記憶がある。
母から食べ物を渡された日の事を憶えている。
2歳の時だった。
硬くて大きな煎餅をまるまる一枚手渡された。
まだ歯が生え揃っていなかった為、ひたすら舐めていたが、とうとう食べる事は叶わなかった。唇がお醤油の塩分でかぶれて痒かった事は今でもはっきりと思い出せる。
母は私に煎餅を渡した後去って行ったので、多分気が向いただけだったのだろうと思う。

その頃から私は放置されていた。
そしてその自覚はあったが、放置されている事が不自然だとは思わなかった。
私の世界は、部屋とわずかな遊ぶための道具と祖母から与えられる食事で完結していたからだ。

幼い頃、私が遊べる子供用の玩具はとても少なかった。
一辺が15センチほどの正立方体の木箱に、折れて短くなったクレヨンが入っている物と、古い(姉のお古の)ミッフィーの絵本が数冊と、何故か大きな大人っぽい絵、いわゆる写実的な絵の本が一冊、私が自由にできるのはそれ位だった。

私は新聞のチラシの裏面にクレヨンで絵を描いたり、絵本を読んだりして毎日過ごしていた。幼稚園に入るまではそれ位しかやる事が無かった。
ミッフィーの絵本は色の数、線の本数、絵の奥行と動きが乏しい為、好きになれなかった。私は、人物や背景も細かく描き込まれた、写実的な絵と、下段に文字がびっしり書いてある大きな絵本の方を好んだ。

私はその本から多くを学んだ。

『神様が6日かけて世界を作り、7日目にお休みした』有名なその書き出しで始まる、壮大なストーリーの絵本。

カインとアベル、ソドムとゴモラ、バベルの塔などなど今思い出しても
「なぜこの本が?」
と思う。ユダヤ教徒の子供に与えているだろう絵本が家にあったのだ。


後にそれは偶然人からもらっただけの本で、絵が描いてあるから子供用だと思った母が子供の本と一緒に置いておいただけだと知るのだが、若い頃の私はその本を与えられた理由を求め、何年も悩み続けた。


結果として、その本との出会いが『私は実験・観察対象として放置された選ばれた子供である』と言う夢を見るきっかけとなってしまった。


まあ、とりあえずは平面的な絵よりも細かく書き込まれた絵が好きな子だったのだけは確かだ。



昭和の価値観と幼稚園カバン


たいくつな日常と、年に一度か二度ある家族との外出(後に知るが、これは一番上の姉への何かのご褒美だったらしい。最後の特別な外出は確か姉の高校合格のお祝いだった)以外、これと言って特別なイベントも無く無事成長した私は、幼稚園への入園試験を受けた。

簡単なテストと運動検査と視力・聴力検査などを受けた後、ご褒美にキャラメルをもらって帰るだけの作業だったが、普段と違う事が出来た事が嬉しくて凄く楽しかったのを記憶している。

入園前に、クラスが解ると長姉が私に言った。
「お前は馬鹿だから一番トイレに近い部屋の組になった。
私のように頭の良い子は、トイレから一番遠い部屋の組になる」と。
私は、『そうか、私は頭が悪い子だったのか。じゃあ頑張らなければ』と心に誓い、幼稚園の勉強を頑張ることにした。
しかし幼稚園では、ひらがな等すでに独学ながら勉強が終了した事ばかりの教育だったため、仕方なく一人で立体工作を作成して過ごした。
おままごとの道具がずっと欲しかったので、紙でコーヒーカップとソーサー等を手作りして遊ぶ為だ。
当時5歳だった私はまだ円周率を知らず、カップの底と周囲とのサイズ調整に苦しんだ。それら細かな一連の作業を、今でも楽しく思い出せる。
その時、一緒に遊んだ友人とは、その後永い付き合いになった。

勉強は得意だったが、食事に関しては問題が多くあった。
基本的に祖母の作る料理しか食べた事が無かったため、お肉を食べる習慣があまりなかったのだ。
ある日お昼に豚肉の料理が出た。
私はお肉の脂身が食べられなくて残したが、全部食べなくてはいけないと言われ、吐き気をこらえて泣きながら食べた。
それ以降、豚肉が苦手になった。
あの旧約聖書の絵本とは全く関係ないが、悔しい事に期せずして戒律を守る事になってしまった。


そんな幼稚園生活の中で、特に思い出深いのは、私が使っていた幼稚園のカバンだ。

私のは水色の四角い斜め掛けのカバンだった。
当時、女の子は皆赤いカバンで男の子は皆青いカバンを使っていた為、私のカバンは悪目立ちしたらしい。
思えば、幼い頃、私はいつも男の子に間違われていた。
別段気にした事は無かったが、私の服装はTシャツとズボン、それもシンプルな物ばかりで、フリルやリボンとは無縁の幼少期だった。


その理由の一端となる情報は、少し大きくなってから長姉が教えてくれた。
「家族は本当は男の子が欲しかった」
「生まれた時、最初男と間違われて父が大喜びした」
「直後に女だと解ると怒って帰ってしまった」

母はもっと残酷だった。
「子供を産みたくなかった。堕胎したかったが妊娠がバレてしまったためできなかった」
「(私を)産みたくなかったから妊娠中にお酒を飲んだりタバコを吸ったりしていた」
「その後また妊娠したが家族に知られる前に堕胎した」

なるほどと納得するにはきつい言葉だった。
それでもその言葉を拒絶する権利は私には無かった。

男の子でも女の子でもない水色のカバンを持たせたのは、母なりの家族への嫌味だったのか、今となっては解らない。


数年後、父に見せつけるようにして母は私の事が記された母子手帳を外で燃やした。


はっきりしているのは、私は望まれて生まれてきた子では無かったという事だけだ。



両親の良心とは


私は母と手をつないだ事も、頭を撫でられたことも、髪をとかしてもらった事も、お風呂に入って体や頭を洗ってもらった事も無い。
ないない尽くしに加えて、母に勝手に触れることすら嫌がられていた為、母に話しかける時は最低でも70センチ以上の距離を取って声をかける習慣が幼くしてあった。

生まれて初めて母のおっぱいを正面から見たのは、高校生の頃に風呂上がりの母を偶然見てしまった時だ。それも見ただけで理不尽に叱られ、以後母は私の前では一切着替える事はなかった。

誤解のないように付け加えるならば、母はお嬢様ではない。普通の人だ。
あえて特筆すべき点があるとするならば、彼女はかなりのナルシストであった。
自らの容姿に自信を持ち、己よりも魅力的かつ奔放な女性を嫌悪する、世にありがちな普通の女性だった。
私としては母の容姿に対しては何も書きたくはないし、思い出したくもない。

その配偶者である父は、とても頭の良い人で、お勉強の得意な人だったと聞いている。
私の記憶の中では目が合っただけで怒鳴り殴るだけのうるさい男でしかなかった。
親として何かをする事もなく、休日はゴルフか読書しかしない人だった。


私にとっての両親の情報はこれくらいで、他にもいくつかはあるが、それは両親が対外的なポーズとしての『親をやっています』の時の記憶であり、それすらも小学校を入学した時点で終わった。
それ以前も幼稚園の送り迎えは祖母にしてもらっていたし、母は常に私を避けていた為、私に向けられた母の笑顔は、写真でしか見た記憶が無いと言っても過言ではない。

唯一母が私の為だけに行動した日、小学校の入学式に一緒に行ったのがそうだが、それ以降、両親から親らしいことをしてもらった経験は一度も無い。
授業参観も、運動会も、およそ保護者が参加する全てのイベントに、私の親が参加した事は一度も無かった。
義務教育中の行事用のお弁当は用意されていたが、母の作ったおにぎりを食べた後に吐いた経験がトラウマになっている事以外はあまり記憶にない。

ある時、何故ここまで嫌われているのか知りたいと思い、家族に意見した事もあった。家族からは(両親と一番上の姉の意見だが)
「考えすぎだ」
「被害妄想だ」
と叱られ、私は間違った考えをしていると教えられた。
だから私は自分が間違った考え方をする歪んだ子だと自分で自分を卑下するようになった。


小学校に入学してからはテストは常に100点、もしくはそれに近い点数しか取らなかった。勉強は一度聞けばすぐに理解できるし、簡単すぎて退屈だった。自分でもかなり優秀な子だったと思う。
通知表の成績もAばかりで、それが当たり前で少し天狗になっていたと今では恥ずかしく思う。

だが両親は私の成績に興味を持ったことは一度も無かった。
何故か解らないが、2人とも一番上の姉にしか愛情をもって接する事をしない人だったからだ。

2人にとって必要なのは一番上の子だけなのだと、その時はまだ理解していなかった。


私には2人の姉がいる。
長女はとても人と付き合うのが上手く、友達が多い人だった。
次女はおそらく軽度自閉症を持っていたのだと今なら解るが、当時は解らなかった。癇癪持ちのうるさい子だと思っていた。

父は次姉を毎日のように怒鳴りつけ、殴り、玄関から外に放り投げ、泣き叫ぶ姉を罵り続けた。気持ちが収まらないのか、昂るままに私もついでに殴られていた。
だが長女だけは殴らなかった。溺愛していたと言っても良い程に扱いが別次元だった。

次姉も私も何も悪い事はしていない。むしろ殴られない様に息を殺して暮らしていたが、父は箸の置き方が悪いとか、ほんの少し水をこぼしたとか、そんな些細なチャンスを見逃さずに私たちを殴っていた。

そんな時、泣き叫ぶ私たちに、母と祖母は何故か
「お父さんに謝って」と言った。

何故謝らなければならないのか、理不尽な暴力にさらされている私たちを何故悪人にしたがるのか。その理由を説明すらできないくせに、ただ謝れと命令する2人も父の仲間だとしか思えなかった。

ある日、姉が殴られ始めた隙に私は逃げて隠れた。
私は恐怖から姉を見捨てて逃げた己を恥ずかしく思った。

だが、そのすぐ後ろで一番上の姉がクスクス笑っている事に気づいた。
あまりのショックでその時の記憶が飛んでしまい、数年後に思い出して一人で隠れて泣いた事が有る。

今もその事は誰にも言ってない。
後ろめたさと悲しさと悔しさと、色々な感情がないまぜになってしまい、何をどう口に出せば良いのか解らないのだ。

それに、言ってしまったら自分の過去の全てが今よりもっと歪んでしまうと解っているからだ。



ルッキズムによる逆転劇


だんだんと成長するにしたがって、両親の長姉への偏愛は重さを増していった。
私と次姉は僅かなお小遣いを渡される中で、学校で使用する文房具を購入するなど日々やりくり我慢して暮らしていたのに対し、長姉だけは当たり前のように望むままお金を渡されていた。
やがて姉は高額なブランド物の服や靴ばかり購入するようになり、長姉だけが桁違いに恵まれた生活をするようになった。

家族、親戚も長姉が一番優秀で一番かわいく頭が良いと褒めちぎるので、私もそうだと信じ切っていた。そして次姉と私は出来損ないとして扱われ、親戚からも馬鹿にされたり蔑ろにされる毎日だった。

長姉は自分の肌の色が白い事をとても気に入っていたのか、肌の色が他の子よりも黒かった私に、よく

「私は白人みたい。〇は黒人だね」
と言って喜んでいた。

肌の色で差別があると知らなかった私は、手足のすんなりと伸びた美しく踊る人たちと似ていると言われた事を密かに自慢に思っていた。


そんな無知にして純粋なる日々を過ごしていたある日、次姉が中学生になったと同時に私の価値観が逆転する事件が起きた。


周りが騒ぐようになった。
次姉はとても可愛らしい容姿をしていたからだ。
本人すら気づかずに生きてきたため、納得できない顔をしていたが、周囲があまりにも騒ぐため、だんだんと自覚していった。

いつの間にか次姉は美しい少女に成長していた。

それまではいつも下を向き泣いてばかりいた次姉。
髪を切り、前を向いた瞬間に、世界は一気に手のひらを返した。

大きく黒目がちな切れ長の二重の目は、テレビで見るようなアイドル達よりも可愛かった。
小さな鼻と、少女漫画のようなバランスの良い唇。
長くつややかな髪はゆるくウエーブのかかるクセがあり、きめ細やかな白い肌と相まって、次姉は、お人形のような美しい少女に育っていた。

家族も、親戚も、血縁全てがそれを否定しても、外の世界は世間の当たり前を私に教えてくれた。
一緒に歩けば誰もが振り返る。
外を歩けば芸能事務所からスカウトされる。
どれだけ家族が否定しても、ゆるぎない事実として彼女はその価値を知らしめた。

母と長姉は必死に貶めた。
それでもどうにもならなかった。
そんなある日、次姉は私に教えてくれた。

「長姉は嘘をついている」

何を言っているのか私には解らなかった。
私の方が深く洗脳を受けていた為、気付くまでに幾年もの月日を要した。

次姉は自分が父に殴られている時に長姉がそれを楽しんでいる事に気づいていたのかも知れない。その話はしたことがないが、次姉は
「恨みは一生忘れない」
と言っていたので、多分知っていたのだろう。

ある日、次姉に2学年上の彼氏ができた。
だが、わずかな期間で別れてしまった。
理由を尋ねると、
「別に好きじゃなかったから、付き合ってと言われたので付き合ったけど、好きになれなかったから振った」
と教えてくれた。
好きでも無いのに彼氏にした理由は、その人は長姉がずっと片思いしていた相手だったからだと教えてくれた。随分と派手な仕返しだと思ったが、今となってはそれ位やっても許されて然るべきと私も思う。

それを境に、徐々に長姉の次姉への気持ちは悪口となって私の耳に入ってくることが多くなった。

曰く、次姉はブスのクセに勘違いしている。次姉は頭が悪くて可哀そう。次姉は服装のセンスが悪くて可哀そう。等、遠回しな表現ではあったが、それらの悪意は私の潜在意識に明確に刷り込まれた。
私はそれを信じた。次姉は頭が悪くて服のセンスが悪くて不細工な可哀そうな人だと思い込んだ。

ふと気になり、私はどんな人間かと長姉に訊ねた際、長姉は私の事を
「十人並み以下」
と言った。
だから私自身も、私は十人並み以下の可哀そうな人間だと思った。

それでも、どれだけ貶められても、次姉は母の愛だけは諦める事を決してしなかった。だから家庭内では常に長姉の勝利だった。

だが、外では、私の知らない場所では大逆転劇による変化が起きていた。

長姉は周囲からいつも
「妹可愛いね」
「妹紹介して」
「なんで姉妹なのに全然似ていないの?」
と言われ続け、だんだんと心に歪みが生まれていたのだ。

それまで長姉は本当に自分が一番かわいいと信じていたのだと思う。
誰もがそう言って彼女を持ち上げて育てたからだ。
結果として、驚くほどプライドの高い人物に育ってしまった事に本人は気づくことなく、ただただ卑屈に歪んでしまった。

姉たちの関係がどんどん悪くなる中、それに気づくことなく母は相変わらず長姉を愛し続けた。
次姉は怒りと不満から、母に愛情の代わりにお金を求めるようになっていった。

そこまでしても、母はたった一人の娘しか愛さない哀れな人だった。


その頃から私は心身に不調をきたすようになった。


忘れられた私


私が中学三年生の時、参考書すら買ってもらえず、自分で問題集を手作りして受験勉強をしているさなか、長姉は母のお金でパリとロンドンへ旅行へ行った。
羨ましかったのは、ヴィヴィアンウエストウッドやシャネルなどの高価な服を買って帰ってきた事だ。
私には参考書すら買ってくれない母は、長姉には湯水のようにお金を使っていた。だが洗脳が完了している私はその不公平さに気づくことは無かった。


私が第一志望に選んだ高校は、英語教育に力を入れた私立の高校で、在学中にアメリカ留学が可能だった為、私はその高校へ行くことを強く望んだ。
だが、両親は
「そんなお金ない」
と私の希望を一蹴し、当たり前のように都立高校を受験する事が決まった。
長姉には英語の塾へ通わせ、送り迎えも母がしていたのだが、私には英語は必要ないと言われた。
そのいびつさに気づくことなく、私は希望の進学先を当然のように諦めた。

無事、都立高校への入学が決まり、一安心した私は、昔長姉が高校入学のお祝いをしてもらっていた事を思い出し、何かしてくれるかと期待をして待っていた。

だが母は私の事を忘れていた。

入学前、母は私に何も用意してくれなかった。
新しい文房具も、新しい靴下や靴や学生カバンや、

何よりも高校の制服すら用意する事を忘れていた。


私には母を責める権利は無く、怒る事も泣く事も許されない。


だから笑って平気な振りをしなければならなかった。


本当は悔しかった。
長姉は家の事何一つやった事がない。いつもだらしなくて、脱いだ下着をその辺に置いたまま、私に片付けさせていた。
夜私の部屋でタバコを吸って火を消し忘れて畳を焦がした事もあった。
それを言うと周りは笑って許す。私の事は罵るくせに。

家の階段のホコリを毎日掃除しているのは私。
洗濯も私。
晩御飯の支度をしているのも私。
ありがとうもごくろうさまも言われたこと無い。
私のお財布を長姉が盗んだ時も母は笑っていた。
お金は返ってこなかった。


いつも全てがそうだった。

気が付いた時には心が限界だった。


入学してすぐ私は不登校になった。



女である事、母である事


母が狂いだしたのはいつからだったか、元から狂っていたのか、私には解らない。
だが、母はとっくの昔に私を捨てていた。

私が不登校で苦しみ、精神科の病院へ行きたいと相談した時、母は
「勝手にいけば」
とだけ言って、幾ばくかの現金と、私の名前が記載された保険証を私の前に置いてから会社へ向かうべく駅へと去った。
私は玄関で呆然としたまま母を見送り、その後一人で病院へ行った。


あの日、病院の待合室で長いベンチに座り一人で何かひとり言をつぶやいていた記憶がある。


それ以外は、道を歩いていた記憶、隅田川にかかる橋の上から何度も飛び降りようとして出来なかった、情けない自分を悔やむ記憶しかない。
肝心の、精神科の医師と話した記憶がすっぽりと抜け落ちている。

今もその記憶は戻らない。

片頭痛持ちだった私は、記憶の欠如を頭痛のせいだと思い込んでそのまま忘れる事にした。

その後母から
「どこも悪くないのに仮病で病院へ行くのはお金の無駄遣いだ」
と言われ、私は精神科に行くことをやめた。


母は常に長姉の事を大切に思い、長姉を大切にするよう私に強要した。
母は長姉の学校の提出物を作る手伝いを喜んでやっていた。
決して「自分でやりなさい」とは言わなかった。
そして、私にも姉の宿題を手伝わせていた。
長姉はだらしなくて何をやらせても中途半端だったため、周囲のサポートが常に必要だった。
手伝う私に対し、
「お前は何をやらせても途中でやめる」
「長姉はしっかりしている、見習え」
と根気よく暗示をかけた。
徐々に私は自分の為に何かをする事をやめていった。

母が私をゴミのように扱うようになったのはいつからか。

私のおもちゃを
「もう、あんたいらないでしょ」
と言って奪い、不倫相手の子供に与えるようになったのはいつからか。
あの旧約聖書の絵本を
「あんたの為の本じゃないから」
と言って勝手に図書館に寄付したのはいつだったか。

晩御飯を作って待っている私を無視して不倫相手と楽しく過ごし、夜遅く帰って来るようになったのはいつからか。


いつの時からか
「何故私は生まれてきたのだろう」と、
ご飯を作りながらぼんやりと考えるようになっていた。



ある日、父が母と罵り合っていた。
そして偉そうに
「お父さんとお母さんは離婚する」
と宣言した。
父は母の不倫現場に乗り込んだそうだ。
それを得意気に話す父も、思わず目をそらすほどに醜悪な顔をしていた。

そして
どちらが悪いかと、両親のどちらの味方をするかと私たちに訪ねてきた。
どうでも良かった。どちらも私の味方だった事は一度も無かったからだ。

だから私は母の目を見て、ずっと言いたかった言葉を言った。


「お母さん。私の事好き?」


母は黙って目を伏せた。
どれくらい待ったのか、母は何も答えなかった。


やっぱり、ずっと嫌いだったんだと
やっと確認が取れた瞬間だった。


私が16歳の時だった。



引きこもり不登校から外に出ずっぱりになる


翌年、私は今までの高校を中退して定時制高校に入学し直した。
全部一人で手続きしたため、周りの大人たちも多少不信がっていたが、世の中には私と同じような人間がまま存在する為、詮索されること無く無事入学を果たした。

人生2回目の高校入学式で新入生代表として答辞を読み、夜の高校生活がスタートした。
アルバイトをしながら学校へ行き、家には帰って寝るだけの暮らしはとても楽だった。
家にいなくて済む、たったそれだけの理由で私は定時制高校を選んだ。
教師からは何度もその理由を聞かれたが、答える事はできなかった。

特に私を気にかけてくれた数学の教師は、
「あなたの入試テスト結果は満点だった。
勉強ができて、勉強が好きなのに、どうしてこの学校に入ってきたのか。
せめて大学へは行った方が良い」
と言ってくれた。

嬉しかった。

そんな風に私を見てくれた人、私に気づいてくれる人がこの世にいる事が嬉しかった。
肝心の質問に対する答えに関しては、私の親が大学の費用を出すわけがないとは言えず、曖昧に笑ってごまかした。


当時、母からは
「手に職を着けろ」
と常に言われていたので、なるべく早く家を出ろという意味だと理解していた。

だから、この高校生活を精一杯自分の為に生きようと思った。

最初の2年はたくさん友達と遊んだ。
ギャルとヤンキーの友人たちは、明るくて裏表がなくて、無暗に他人を攻撃しない、卑下しない人ばかりだった。
その経験があったから、今、私は生きている。
人を罵ったり馬鹿にするだけの人間と関わっていたら、きっと自分はもっと早くに壊れていただろうと思う。

そして残りの2年は、アルバイトと貯金を頑張った。
そのお金で専門学校へ行こうと思っていたからだ。

ある程度お金を貯めて、ギリギリの時期を狙って母に頭を下げた。
どうしても足りないと思ったからだ。
入学できてもその後の諸費用や昼食代などが足りないと気付いたのだ。

なのでお金を貸してくださいと頼んだ。

流石に母も私に対して少しくらいは罪悪感を持ってくれていたと思いたかった。
母は、不倫相手に私のおもちゃを与えた事や、長姉にばかり大金をつぎ込んだ事も、気付いていたのかも知れない。
入学金を出してくれた。
正直助かったと思った。

母が初めて私に大きなお金を使ってくれた。
もしかして私は母に嫌われていなかったのかも知れないと勘違いしかけた。
だが、当時付き合っていた彼氏に言われた言葉で正気に戻った。

「〇の家はおかしい」
「〇の親は狂っている」

最初、喧嘩を売られたのかと思った。
彼はかなり勇気を出して言ってくれたのだと今なら解る。
なぜなら、私の日々の昼食代は彼が出してくれていたからだ。

専門学校はお金がかかる。
毎日ボロボロのジーパンとTシャツで学校へ来る私はさぞかし貧乏人に見えたことだろう。
彼に何を言われても、それでも私は自分は普通の家の子だと信じていた。

セレブな暮らしの長姉とは真逆の貧乏暮らしをしている自分を客観的な視点から見る事など考えた事も無かった。

姉と自分を比べるなど絶対にしてはならないと、私は生きてる限り姉の下で這いつくばって生きる『出来損ないの妹』だから仕方ないと、そう信じていた。


だが、彼の発した衝撃的な言葉をきっかけに、私のその後の人生は大きく変化した。


洗脳のほころび


彼は言った。

「〇の姉ちゃん別に凄い人じゃない」

その言葉は私が生まれて初めて聞くあり得ないセリフだった。

「そんな筈はない」
と言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。

思い返すと長姉は勉強が苦手だったし、記憶力も悪かった。
だからいつも私が話した事を誰から聞いたか忘れて私に教えようとする迷惑な行動をしていた。
特に数学の成績が悪かった。
知ったかぶりばかりする人だった。
噂話が大好きで、無責任に話しを周囲に広げる人だった。
勉強のできない人だったのに両親は長姉の事だけ褒めていた。
「話が上手い、面白い」と。

姉は私をデブと言うが、私の方が姉よりもはるかに痩せていた。
次姉の様な美少女ではないが、私と次姉は比較的顔が似ていた。
私の方が顔立ちがはっきりしていたので、姉からはよく
「ごつい顔」と言われていた。
たまに南米や東南アジアの人と間違われることが有り、その度に
「貧乏人の顔」と言われていた。

しかし、なぜか長姉だけ全く違う顔をしていた。
長姉は自分の事を
「日本人離れした骨格だから」
とよく言っていたが、西洋人とは真逆の、のっぺりした平たい肉厚な顔の人だった。


少しずつ何かが崩れてゆく感覚がした。

冷静になって長姉を見た時、彼女は普通の顔をした普通の人だった。

むしろ印象の薄い、記憶に残りにくいタイプの人だった。

美人だと聞かされていたが、次姉と比べたら天と地ほどの差があった。

「でも面白いし、優しいよ」

と私は反論した。
すると彼は

「優しい姉ちゃんが妹の事ブスでデブとか言うか?」
「〇の親は、なんで姉ちゃんに大金使って〇の学費払わないんだ?」
「姉ちゃんには車買ってやって、〇には教習所通う金すら出さない」


「不公平だと解っていて、その事を親に言わないで自分だけ良い思いしてる奴が優しいか?」


その言葉が決定打となり、再び私は心を病んだ。


家を出たけど


専門学校卒業と同時に私は家を出る事にした。
だが母がそれを許してくれなかった。

結局、私は母の所有するマンションを『借りる』事になった。
私は毎月母に家賃を支払いながらそのマンションで生活していた。
時々勝手に鍵を使って部屋に入る事があったので、わざと彼氏の下着や避妊具を目につく場所に置いておいた。

それにより母の足が遠のく事を期待していたが、厚顔にも母は、私の彼氏からも家賃を取ろうと言うようになった。
だから私は
「じゃあここを出て2人で暮らす」
と言い、なんとかして家賃の値上げをさせないよう交渉する日々を送りながら働いた。

すると母は別の手段に出るようになった。

就職後、初めてのボーナスをもらった時、母は私に、

「長姉にお小遣いを渡せ」

と言ってきた。
2万円ほど渡した際、生まれて初めて母から褒められた。

このままでは奴隷になる。
一生搾取されると思い知った出来事だった。


その後、私はゼネコンの下請け会社に転職し、そこそこの収入を得るようになった。
同時期、長姉は働かずに実家に暮らし、母のお金で遊んでいた。

この頃から家族といかにして縁を切るか密かに考えるようになった。



母の死で解放される


母が癌になった。
私はまだ20代、長姉は30代になっていた。

母は私に
「仕事を辞めて毎日会いに来い」と命令してきた。


悲しいかな、いつもの癖で、情けなくも言われた通り、私は会社を辞めた。

だが母に会いに行く回数はすぐに減っていった。
最初は母も私を呼んでいたが、徐々に迷惑そうな態度をとるようになったからだ。
私も別に会いたくなかった。
会えば長姉と一緒にフグを食べただの、いつもの贅沢自慢が始まり、私はつまらない話を聞いて帰るだけだったので、だんだん足が遠のいて行ったのは仕方のない事だと思う。

特段思うところもなく、母はガンでこの世を去った。

死の間際、凄まじい形相で長姉へと手を伸ばし、必死につかもうとしているその母の手を長姉は取ろうとはせずに半歩後ろに引いていたのを私はしっかり見ていた。

誰にも言えないが、その瞬間私が思った事は
「ああ気持ち悪い」
だった。

葬式で私は泣いた。

己を哀れんで泣いた。

彼女は最後まで私を受け入れなかった。


あれは母親じゃない、あんなものから産まれてきたくなかったと
せめて一言謝ってから死ねと
悔しくて泣いた


当たり前だが、母は長姉にたくさん遺産を残した。
私は関係ないけどもらえる物だけもらった。
そして遺産相続で揉める位なら逃げた方が良いと判断してあっさりと終わりにした。


余談だが、その直後詐欺被害にあった。
相手は長姉の友人だったので、うっかり騙されてしまった。
下に洗脳とは恐ろしい物である。


長姉は常に
「私は親切で言っているのに、それが解らなくて可哀そう」
「あの人は性格が歪んでいるから、人の話を理解できない」
「本当に、小さい頃から出来が悪かったから、まともに考えられなくて私を恨んでしまう」
と、かなりの広範囲に渡り吹聴していたので、私からは手の打ちようが無かったし、正直どうでも良くなってきたので距離を取った。


ちなみに現在も騙された振りをしている。

そうしないと彼女の私を下に見たいという勝利への欲求がどんどん増すからだ。


プライドは折れない


母の死後、何度か関係をまともにすべく話をしたことが有る。

私たちは歪んだ育てられ方をした。
双方ともに被害者だ。
だから普通の感覚で人と接するように、家族と接して欲しい、と。

何度やっても暖簾に腕押し、馬の耳に念仏だった。

いつもそうだった。

何を言っても全て反論、否定しかしない。
面白い位に他人の意見を論破しようとする。
会話の主導権を握れないと不機嫌になり、自分の答えを受け入れてもらえないと解った途端にぶった切り別の話をし始める。

しかし話術は天才的に面白く、人を楽しませる能力だけは確かにあったので、多くの人はその場の流れに飲まれていた。

世の中、勘の鋭い人は稀にいて、長姉の事を毛嫌いする人がたまに現れた。
大抵の場合、その人物は長姉による印象操作で周囲から嫌われ、悪口でめった刺しにされるが、それでも嫌う事をやめない強固な意志を持つ人もいた。

彼らの『その場の空気と他人に飲まれない力』は、後に私の人生において偉大な教材となった。


解っていたが声は届かず、
「〇は昔からとろくて要領が悪かったから、解らなくて仕方ない」
と言われ、いつもその話題は始まる前に終了した。

幼いころからずっと『とろくて要領が悪い』と家族から言われ続けた私だが、私は学生時代からどのアルバイト先でも重宝された。
要領も良く、仕事も早い。何をやらせても臨機応変に対処できる。
と家の外では褒めちぎられて生きてきた。
現在の職場も、会社に望まれて籍を移した場所だ。

私は人間関係の構築力は絶望的だが、こと仕事に関しては、自分でも驚くほど確実な成績を出してきた。

唯一、全く動けなかったアルバイト先は、長姉と一緒にいたため、恐怖で委縮して体が反応しなかったとある職場だけだった。

それでも何度も何度もそれとなく話を振った。

その度に、
「〇は馬鹿で世間を知らないから解らない」
的な言葉をやんわりと返された。

長姉は自分の信じる自身の姿、その幻と永遠に共に生きる事を選んだのだと思った。

当時から実家の、姉が使う鏡は全て蓄積された汚れと曇りでぼんやりとしか映らなかった。


彼女にとってクリアな現実は不要なのだと私は悟った。

その後、家族と心の中で縁を切り、表面上は当たり障りのないように距離を取り、尚且つ物理的にも距離を取って、私は普通に暮らした。



母になり愛を知る


数年後、結婚して私は母になった。

産まれて初めて嬉しくて泣いた。

たくさん感謝して泣いた。

子どもは最高に厄介で、ストレスも酷くて、何度も手を放そうと思いながら育てた。

子どもと心中しようと思った事もある。

1人で死のうと考えた事もある。

だけどその度に思うのだ。


この子を産んで良かった。
この子の手を離さないで良かった。
この子がいる事が嬉しい。
この子が生きてるだけでありがたい。


初めて我が子と手をつないだ時、緊張しすぎて手に汗をダラダラかいた。
夢の様だった。

我が子が
「ママ抱っこ」
と私を呼ぶことがこんなに嬉しいとは知らなかった。

親の愛情を知らずに育った私が、親として子供に愛情を持てることが嬉しかった。

私の心はちゃんとあった。

たくさん本を読んで良かった。
たくさん悩んで良かった。
あの時橋から飛び降りないで良かった。

子どもは憎しみ以外の多くの感情を私にくれた。


やっと、やっと人間になれた気がした。



自分を許して初めて他人も許せると気付く


間違いだらけの人生を歩んできた私たちは、自分から幸せになろうと努力する事を学ばずに大人になった。


私の知る限り、長姉は人生で一度も恋愛を経験した事が無い。
誰かと深く信頼関係を築き、相手に自身の弱みを見せ、己の足りない部分を認める経験をした事が無い。

高すぎるプライドが邪魔していたのは明白で、同時にその事実から目を背けたのもプライドの高さ故だと私は知っている。

彼女はお金と愛情をたくさん貰っていたのに何故だろうとずっと思っていたが、自分が親になってやっと解った。


彼女もまた愛されてはいなかったのだ。


私の両親はお互いが自分一人だけを愛する自己愛の化身のような人たちで、他人に向ける愛情など最初から持ち合わせていなかったのだと思う。

長姉は誰かに自分のありのままを全て受け入れ、愛して欲しかったのかもと今更ながら思う。

心を閉ざし、本心を隠してそのまま死ぬまで過ごすのは辛くないのかと思う時もあるが、それを本人に伝えるのは余りにも残酷で、私には何もできない。

私にできる事は、いつか、長姉が誰かと出会えることを遠くから祈るだけだ。

つい最近、私は心療内科で心の浮き沈みで苦しんでいる事を相談した。
その際、
『自己肯定感が低すぎる』
と言われた。

それは仕方ないので許して欲しい。
自分を高める努力をしなかった自身の責任でもあるのだから。


きっと悪いのは『縁』と『運命』であって、私たちは全員普通にいびつなだけだった。


ついでに発達の検査も受けた。
結果、私は発達に凸凹は無く、
IQ141と教えてくれた。
正直驚いた。

だが思い返すと、次姉は恐ろしいほど優秀だった。
特殊なデータ収集癖を持つ人で、データを分析して情報の法則性を見出すのが得意な人だった。
同時に驚異的な読書家で、好きな本は全巻一字一句間違えずに全ての文字を暗記していた。
私も何でも勉強しだすと結果を出す子だったが、次姉には遠く及ばないと自覚している。


次姉は美貌と頭脳の両方を持つチートだったのだ。
今更ながらずるいと思う。
せいぜい投資でもすれば良いと思う。
間違いなく成功するだろう。

もしかしたら、お勉強のできる、頭の良さに絶対の自信を持っていた父が、次姉を執拗に殴ったのは、その頭脳に気づいて嫉妬していたからではと思う時がある。


ちなみに父が亡くなった際、次姉は全て無視した後、遺産だけもらった。
それで良いと思う。
彼女だけは父を許す必要は無いと思うし、父を許さない次姉を私は許したいと思うし、周りもそれを認めてしかるべきだと思っている。


もしも私が、次姉が、虐待を受けずに、親のサポートを受けながら自分の望む勉強を続けていたら、今の私達はどうなっていただろう。


考えても詮無い事だ。


私は私で幸せになる為に生きる。


私たちは全員バラバラだ。
近付けば過去の憎しみに囚われてしまう事が予測されるため、あえて距離を取って生きている。

たまに親戚が長姉に連絡を取ってくるが、私たちが会うことは無い。

その人たちが私と次姉に言った言葉の数々を、私たち二人は悲しい位はっきりと記憶し、それをすぐに取り出せるという、まったくもって不便な能力を有しているからだ。


正に笑えるほどに宝の持ち腐れをして生きてきたのだ。

唯一、使い所でとことん使ったのは、子どもが赤ん坊の頃に、日々の出来事や食事内容等の全てを記憶し、頭の中で整頓し、医者に質問された際に完璧に答える事ができた位だ。


そう、あの子の命を支え守る為に、私は頭を使う事ができたのだ。

だから

頭を使わなかった事を、
縮こまって卑屈に生きてきた自分を、
人を恨んで憎んで呪詛をはいていた自分を


私は許すことにした。


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