伝説の名選手 スポーツ黎明期の偉人たち
アイススケート五輪連覇の羽生結弦、メジャーリーグMVPの大谷翔平、ゴルフマスターズ制覇の松山英樹……、
近年の日本スポーツ界のレベル向上は著しく、
東京五輪・北京五輪でも獲得メダル数の最多記録を更新するなど、
たくさんの日本人の活躍が世界を沸かせています。
実は、日本がまだスポーツ黎明期であった
明治の終わりから昭和初期にかけての時代にも、
スゴい選手がたくさんいました。
孤高のスプリンター”人見 絹江”
陸上競技の100m・200m・走幅跳・三段跳で当時の世界記録を更新し、
オリンピックでは、初めて走った800mで世界新記録で銀メダルに輝いた伝説のスプリンター人見 絹枝。
これだけの選手であるにもかかわらず、彼女は、女性であるが故の差別や偏見と闘い続けました。
当時は「清楚で慎ましい」ことが女性らしさ(大和撫子)であるという強い固定概念に縛られていた時代で、
女性がスポーツをすることへの偏見は現代の私たちの想像を絶していました。
同時期に活躍した双子の寺尾姉妹(姉は50m、妹は100mの元日本記録保持者)は、わずか17歳で引退に追い込まれたほどで、人見は女性の地位向上のため、社会の偏見とも闘っていました。
新聞記者でもあった彼女は、雑誌の記事にこう記しています。
1928年「アムステルダム五輪」に日本女子選手として初出場。
女子はまだ種目が少なく100m一本に絞っていましたが、
予選は1位通過するも極度の緊張とプレッシャーから準決勝でまさかの敗退…(女性への偏見に加え、当時の日本は「勝たずして帰ってくるな!」という風潮でした)。
その悔しさから、これまで一度も走ったことのない800mへの出場をコーチに懇願します。
コーチは、様々なものを背負い、緊張でガチガチになっていた人見に
「もう日本のためとか、女性のためとか……」と慰留しますが、
「そんなんじゃない!勝ちたい!私は勝ちたいんです!100mに負けて分かったんです…。自分がこんなにも勝ちたがっていたということを…。」
彼女の強い思いに押され、出場を許可します。
そして、800mを一度も走ったことのない彼女に、コーチは秘策を与えます…。
「いいか人見君、700mのつもりで走れ!君はスプリンターだ。最後の100mは体が自動的にスパートする……必ず。」
もちろん、根拠のないムチャクチャな戦法でした。
800mのレースは翌日……、コーチとして、せめて彼女の気持ちを楽にするための嘘でした…。
ところが、翌日行われた800m予選を2分26秒2で見事通過。
その翌日、800m決勝……
最終コーナーで足をスパイクされるアクシデントに遭いながら、
ゴール前、コーチの言葉どおり奇跡の猛スパートを見せます…。
ドイツのラトケとのデットヒートの末、
2分17秒6の世界新記録で2位となり、
日本人女子初のメダル(銀メダル)を獲得しました。
しかし、このレースで命の全てを燃やし尽くしたかのように、
3年後、病に倒れ、わずか24歳の若さで急逝してしまいます……。
奇しくも、アムステルダム五輪で銀メダルに輝いた日と同じ、8月2日でした。
(参考資料:集英社「栄光なき天才たち」)
1992年「バルセロナ五輪」女子マラソンで、有森裕子が銀メダルを獲得し、人見以来64年ぶりに日本女子陸上界にメダルをもたらしましたが、ここにも数奇な運命がありました。
有森は人見と同じ岡山市出身で、祖母が人見の女学校の後輩だったため、
有森は祖母から人見の話をよく聞かされていて尊敬していたそうです。
しかも、有森が銀メダルを獲得した日は、人見と同じ8月2日(日本時間)でした。
帰国後、有森は人見の墓前に行き、メダルを見せてこう報告したといいます。
「人見さん、私もメダルを獲ることができました。あなたと同じ、銀メダルです。」
フジヤマのトビウオ”古橋 廣之進”
戦前の時代、世界から「日本人は、海神ネプチューンの子孫か!」と言われるほどの強さを見せ、「水泳王国」として君臨した日本。
その最後にして最高の輝きを放つ日本水泳界の巨人が、古橋 廣之進です。
彼が出した世界記録は33回!
規格外の圧倒的な強さで世界中を驚愕させ続けました。
彼が活躍した時代は、終戦直後で、食べるものすら満足に手に入らない苦難の時代。
焼け跡の灰の中から、必死に立ち上がろうと耐え続ける日本人に、大きな勇気を与えたのが古橋でした。
戦後間もない1948年(昭和23年)ロンドンオリンピック。
敗戦国の日本は、五輪参加が認められませんでした。
悔しさの中、日本水泳連盟はロンドン五輪の水泳決勝と同日に、日本選手権開催を決定します。
日本水連と古橋が見据えるのは、9,600㎞離れたロンドンオリンピックプール……。
決勝タイムに勝つことで、真の世界一は誰かを証明しようとする挑戦でした。
古橋が出したタイムは、400m自由形4分33秒4、1500m自由形18分37秒0。
ロンドン五輪金メダルのタイムはおろか、世界記録をも上回るタイムをたたき出します。
戦後初めて、日本中が沸き立った瞬間でした。
敗戦直後の苦しい時代、世界記録を連発し日本中に勇気と誇りを与え続けた古橋は、まさしく国民的スーパースターでした。
日本が国際水泳連盟から除名されているため世界記録としては公認されませんでしたが、
その後も世界記録を更新し続けた古橋の活躍もあり、
1949年(昭和24年)に日本の国際水泳連盟復帰が認められ、古橋や橋爪ら6選手が全米選手権に招待されました。
そこで、古橋は、400m自由形、800m自由形、1500m自由形で世界新記録を樹立し、世界中を驚愕させます。
アメリカの新聞では、彼の驚異的な強さを
「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)
と称賛しました。
戦後間もなかったこともあり、大会前は「ジャップ」という心無い言葉を浴びせられるシーンもありましたが、
大会後は一躍ヒーローとなり、ハリウッドスターのボブ・ホープらにもサインをねだられました。
しかし、栄光の光が眩しければ眩しいほど、その輝きは長くは続かない…。
1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピックに念願の出場を果たした古橋は、既に選手としてのピークを過ぎていました……。
400m自由形で決勝に進むも8位に終わります。
そのレース中、実況のNHK飯田アナウンサーは、
職業上失格ともいえる涙声で国民にこう訴えかけました。
たくさんの思いがこもった、感動の実況でした……。
中学時代の事故で左手の中指第一関節から先を切断するハンデを負いながらも泳ぎ続け、
驚異的な活躍で戦後混迷期の日本に勇気を与え続けた不世出の英雄古橋は、2009年(平成21年)世界水泳選手権開催中のローマで、80年の生涯を閉じました。
(参考資料:集英社「栄光なき天才たち」)
伝説の豪速球投手”沢村 栄治”
プロ野球で最も活躍した完投型先発投手に贈られ、
投手最高の栄誉ともいえる「沢村賞」は、
プロ野球黎明期の伝説の豪速球投手、
沢村栄治の栄誉と功績を称えて制定されたものです。
全盛期は、直球とドロップだけで打者を圧倒しました。
後に様々なTV番組での検証等で160㎞以上とされているストレートは、
卓越したスピードは言うまでもなく、
初速と終速の差が少ないため、打者の目の前でグッ、グッとホップするように見えることから、
俗に「二段ホップ」と呼ばれていました。
また、足を高く上げる投球フォームは、
マンガ「巨人の星」の星 飛雄馬のモデルとされています。
彼の伝説は、高校時代に始まりました。
1934年、プロ野球創設を目指す読売新聞社主催で日米野球が開催されることになり、
英雄ベイブ・ルースや鉄人ゲーリックを擁するメジャーリーグ選抜と対戦する日本選抜チームが編成されることになりました。
早稲田や法政など大学野球で活躍したメンバーの中で、
沢村はスタルヒン(後に史上初の300勝を達成)とともに
高校野球界からメンバーに選ばれました。
選抜チームで法政大学OBの捕手が、彼の噂の豪速球を試そうと
沢村に3球全力投球させてみた際、
低いと思ってミットを下に出すと、
投球がホップして肩口の上を抜けていってしまい、
全てパスボールしてしまったという逸話が残っています。
また、最初のレギュラー・バッティングでは、
後の名選手、水原や三原など大学野球のスター選手たちを
9者連続三振に仕留め度肝を抜きました。
そして、あの伝説の試合を迎えます。
11月20日、静岡県草薙球場で開催された
メジャーリーグ選抜VS日本選抜チームの第9戦に先発した沢村は、
6回まで2安打7三振の無失点に抑えます。
7回裏に鉄人ルー・ゲーリッグにソロ本塁打を浴び0対1で敗れますが、
メジャーリーグオールスターに対し、
8回で9三振を奪い、5安打1失点と好投しました。
16戦全敗だった日米野球で、日本がメジャーリーグ選抜相手に唯一善戦した試合でした。
この試合に随行していた記者が、
ベーブルースから三振を奪った高校生沢村のすごさをスクープとして書き送ったことから、
アメリカ中で沢村の名前は「スクールボーイ・サワムラ」として尊称されるようになったといいいます。
最終戦でも登板した沢村は、投球の癖(カーブを投げる際に口を歪める)が研究され、カーブをねらい打ちされKOされますが、
実は、ここにも沢村のすごさがあらわれています。
試合後、全米のエースのレフティ・ゴメスが語ったコメントです。
「沢村の球速変化のないカーブは、どんなに鋭く曲がってもメジャーの打者には打たれる。しかし、直球は、あのスピードで浮いてくる(ホップする)とちょっと打てない。だからベーブルースは、皆にカーブを狙わせた。」
メジャーリーグ第一次黄金期のオールスターを、
ここまで本気にさせた高校生の沢村。
その後、全日本チームを基礎とした職業野球チーム
「大日本東京野球倶楽部」(現在の読売ジャイアンツ)が結成され、
エースとして活躍します。
アメリカ遠征(110試合)では、
21勝8敗1分、313奪三振の戦績を残し、
国内巡業では、22勝1敗、158イニングで187三振を奪い、
打撃にも優れた彼は打率.301を残しました。
1936年には、プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成、
翌1937年にも2度目のノーヒットノーランを記録しています。
しかし、時代は、戦争へ……。
1938年、徴兵を受け出兵。
前線では連帯の宣伝材料として手榴弾投げ大会に頻繁に駆り出され、
重い手榴弾を多投させられたことから生命線である右肩を痛め、
左手にも貫通銃創を負います。
2度目の徴兵では九死に一生を得て帰還しますが、
肩と肘の故障でもはやオーバースローで投げることができず、
サイドスローに転向しますが、そこにかつての沢村はいませんでした。
そして、3度目の徴兵で、27の若さで戦死しました。
彼が、プロ野球選手として全力投球できた期間はわずか数年でしたが、
二段ホップの伝説の豪速球投手は、
「沢村賞」とともに永遠に語り継がれることでしょう。
100m元世界記録保持者”吉岡 隆徳”
「暁の超特急」の異名で知られた吉岡 隆徳。
彼は得意のロケットスタートで、日本人として唯一、
100m世界タイ記録を樹立しました。
1932年、吉岡は第10回ロサンゼルス五輪で100m走に出場し、
アジア人初の6位入賞を果たします(以降、日本人の五輪短距離種目での決勝進出者は1992年のバルセロナ400m走での高野進まで現れなかった)。
1935年、フィリピンとの対抗戦で10秒3の世界タイ記録を樹立し、
翌年のベルリン五輪では日本中からメダル獲得の大きな期待を寄せられて出場しましたが、
「勝たずして帰ってくるな!」という当時の風潮のプレッシャーから、
10秒8の平凡な記録で2次予選で敗退しました。
165㎝という体格の不利をカバーするため
鍛え抜いたスタート技術で身につけたロケットスタートで、
「60m走という種目があったなら無敵であった」と言われた吉岡。
彼の記録10秒3(手動計時)を日本人が超えたのは、
50年以上後の1988年(電動計時)です。
当時は手動計時とはいえ、逆に現在のような全天候型トラックや高機能スパイクもなかった時代であることを考えれば、
この記録の偉大さが分かります。
金栗 四三(日本マラソンの父)
2019年のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』の主人公、金栗 四三。
彼は、日本人初のオリンピック選手(マラソン)で、
国内選考レースでは世界記録を27分も縮める大記録を出した快速ランナーでした。
しかし、彼が出場した1912年「ストックホルム五輪」の当日は、
最高気温40°Cという記録的な暑さで、参加68名の半分が棄権し、
レース中に倒れ翌日死亡した選手まで発生するなど過酷な状況でした。
その上、金栗は「船とシベリア鉄道での移動に20日もかかった」「慣れない舗装路面で足袋が破れヒザを痛めた」「当日は迎えの車が来ず、競技場まで走った」「折り返しで給水できなかった」などの悪条件も重なり、
レース途中(26.7km地点)で日射病により意識を失い棄権となりました(目覚めたのは翌日朝)。
条件はみな一緒とはいえ、
もう少しいい環境で競技をさせてあげたかった……
そう思わずにはいられません。
おわりに
ここでご紹介した偉人たちの他にも、テニス界で大活躍し、グランドスラム全豪・全仏・全英でベスト4進出が5回、世界ランク3位の佐藤 次郎など、
スポーツ黎明期の日本には、世界トップレベルの選手が多数存在しました。
体格、練習環境…、様々な面で世界との差が今以上に大きかった時代、
彼らはまさに猪突猛進、一心不乱に過酷な練習を重ね、
世界にその名を轟かせました。
もしかすると、彼らの目標達成への「強い意志」と「精神力」が、
逆に世界を圧倒していたのかもしれません。
日本スポーツ界も盛り上がりを見せ、
様々なスポーツで世界レベルの活躍をする選手が増えていますが、
東京五輪・北京五輪での日本選手の大活躍を振り返ってみても、
羽生弓弦、平野歩夢…、
彼らには、伝説の偉人たちと同じ強い意志と精神力を感じます。
彼らの熱い戦いを見ていても、
最後に物をいうのは「精神力」であることを痛感します。
人を動かすのも、自分自身を動かすのも「心」であることを痛感させられます。
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