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【連載】この人生を生きるのに大切なこと 11

「私も連載を持ちたい!」という欲求のまま勝手に始めた月1連載。
HSP気質で、片頭痛、うつ、喘息を持病に持つ私が、生きるのに大切だと思うこと1つをテーマに、経験や考えを書いていきます。
毎月第1水曜日更新予定。


第11回 愛について


私の人生に必要で大切なことは愛。
この人生でやりたいことは自己表現。

そう気付いて書き始めたのがこのnoteです。

第8回でも書きましたが、「この人生を生きるのに大切なこと」なんて本当は連載にして書けるほど多くはありません。
それでも私は書くということや、連載するということをやってみたかったので、勝手に始めたわけですが。
数ヶ月前、漫画「進撃の巨人」の最終巻を読んで思いました。
私の連載には「構成」がなかったと。
進撃の巨人のラストはそれは見事なものでした。
第1話を描いたとき、もうすでに作者の諌山さんの頭にはラストの情景が浮かんでいて、その前提で初めから描いていたんだと感服しました。
その昔、漫画や小説を創作していたときにはしっかり考えていた構成をすっかり忘れて勢いで始めてしまったことが恥ずかしくなりました。
そして大切だと分かっているのに「愛」をテーマにした文章をまだ書いていなかったことも…

私は「愛について」を書いて、この連載を終わらせることにしました。
そして1冊の本を作るような気持ちできちんと構成を考えた連載を始めたいと思います。

愛について…これは一番必要で大切だからこそ書けなかったテーマです。
なぜなら愛には様々な形があるから。
家族愛、恋人同士の愛、人類全体への愛、推しへの愛、趣味など熱中するものへの愛…
愛情表現の方法も人それぞれで、積極的な方法もあれば、見守る方法、時には見ないフリをすることもあるでしょう。
でもその中でも共通点もあるように思います。
それは自分の時間やお金や体力など、自分の持っている資本を提供しているということです。

愛と時間

私は「会う時間は作るものだ」という持論を持っています。
ひとは等しく1日24時間の時を生きています。
その24時間のうち、睡眠、仕事、家事…としていくと、結局自由に使える時間は多くはありません。物事には優先順位をつけていく必要があります。
まだ付き合っていないけどいい感じの人、恋人、離れて暮らす家族、友人など、毎日の暮らしの中に入っていない人と会う時間を作るのは面倒な面があります。
まず出かけなければいけないし、出かけるなら身綺麗に整える必要があるし、手土産を準備することもある。
ただ会うだけではないのです。
それでもなぜ時間を作るのか?
それは会いたいから。
もしくは会わなくてはいけないから。
このどちらかです。

ひとの命は有限です。
その大切な命の時間を何に使うのか?
そんなこと考えて生きている人は少ないかもしれませんが、大切な命の時間を自分と会うために使ってもらえる…もしくは未来の時間を自分と一緒に過ごしたいと思ってくれている…
私はそこに愛を感じます。

愛とお金

まるで「愛をお金で買う」みたいなサブタイトルに見えますが、そういうことではありません。
時給労働している人ならなおさらですが、会社勤めしている人は一定の時間を会社のために使い、それでお給料を貰っています。
つまり得たお金は時間と労力をお金に換えたものと言えます。
自分の大切な命の時間から生み出されたお金を何に使うのか。
お金も有限のものです。優先順位をつける必要があります。

ただここで注意なのが、使った金額の大きさが愛の大きさではないということです。
もちろんそういう愛情表現の人もいるとは思いますが、お金の価値は人によって違います。
子供にとって1000円は大金ですが、大人にとってはすぐ使える金額です。
2億円は一般的なサラリーマンの生涯年収と言われていますが、会社経営者や株の運用をしている人には億のお金を日常的に動かしているという人もいます。
「あなたのお金を私のために使ってくれた」という事実が大事なのです。

愛と体力

なんかエロいサブタイトルになってしまいましたが…
あえてその流れでいってしまうと、よくセックスレスを取り上げた漫画などで誘われた側が『疲れてるから』と断るシーンがあります。
これをもしセリフそのままの意味でとるなら、「残り少ない体力をあなたとの営みに使えるほどの余裕はない」ということになります。
私も持病持ちで疲れやすいので、この気持ちは分かります。
ですが、もし「誘われたこと自体は嬉しいんだけど、今は難しい」ということなら、「寝て体力が回復した朝ならいい」とか「ゆっくりできる休日ならいい」とか代替案を示せるはずです。
体力がない中でも愛に応えるためにはどうしたらいいのか?
方法を考える、または一緒に考えるのが愛だと私は思います。

愛のやりとり

親子の場合でも、恋人同士の場合でも、一方が愛を与える側で、もう一方が受け取る側となるわけではないと思います。
常に与え与えられ、愛が循環していくのが理想的だと思います。

ただいつもそうとは限りません。
例えば先ほどの「愛とお金」の例。
ここにAさんとBさんがいます。ふたりは恋人同士です。
AさんはBさんの誕生日のプレゼントに10万円のバッグをあげました。
Aさんにとっては当然の支出でしたが、Bさんにとっては大きすぎる金額でした。気持ちは嬉しいけど、戸惑いもあり、次のAさんの誕生日に同じくらいの金額を出さなくてはいけないのかと思うと気が重くなりました。
それからもふたりの金銭感覚の違いは変わることがなく、結局別れてしまいました。
…ということもあるかもしれません。

愛はキャッチボールです。
相手が受け取りやすい形で投げるのも愛だと思います。

夫婦愛

以上が私が愛について感じ考えたことです。
冒頭の「私の人生に必要で大切なことは愛」に気付いたきっかけが夫だったため、内容が恋愛や夫婦愛に偏りがちですが、ひとの時間・お金・体力が有限であり、誰にどのくらい使うのか選ぶ必要があるのは変わらないと思います。

親と子の愛については、それが愛だったのか、私にはまだ分かりません。
両親が自分の時間とお金を私に使ってくれたのは事実ですが、夫のように「何の役に立てなくてもここにいていい」という感覚を持つことができませんでした。
生きていくのに必要な土台に穴が空いている状態で生きなければならない。
子供のころに作っておくべき土台を自分で作りながら生きなければならない。
ときおり「何の役にも立てない。私には何の価値もない」という固い信念のようなものが私を責める。
こんなに苦しんでいるのに。
私は愛されていたのか?
そんな私にとって、夫婦愛は愛の実験場です。
愛とは何なのか?
どうすることが愛なのか?
どういう状態が愛なのか?
そういうことを一つひとつ確かめて、大きな穴を埋めていく作業。

安心して「生きていていい」と思えるもの。
有限である時間・お金・体力を使う対象。
それが私にとっての愛だと、今は思っています。

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