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「かわいそう」という言葉

多くの言葉がアップデートされている過渡期だからこそ、「え、これも?」というような言葉までNGとされる昨今。

編集者として仕事をしているからか、余計に言葉尻をとらえて敏感になってしまう私だけれど、良しとされている言葉でも、躊躇や言い換えが必要ではと思うものがいくつかある。そのなかの一つが、「かわいそう」という言葉。

貧困や虐待に苦しむ子供たちのニュースを見たら、多くの人が口走ってしまう、「かわいそう」。私自身、自覚なく使っていると思う。

だけど、こうして文字に起こしてみると、なんて他人事な感想なんだろう。人が「かわいそう」と言う目的って、「その解決に向けて私が何かすることはできないけど、ちゃんと悲しみや同情は感じていますよ」という、自己アピールなんじゃないかと思う。

そんなアピールをする暇があるのなら、たとえば、1円でも多く募金をするとか、子育て中の人の心をケアをする活動をするとか、具体的な支援をしたほうが、その物事の解決に数ミリ(ほんとに微力だけど)でも近づくし、結果として、自己アピールになるのでは。

大きなニュースでなくとも、「かわいそう」は日常のあちこちに散らばっている。

「遅くまで保育園に残っていてかわいそう」
「食事がレトルトばかりでかわいそう」
「一人っ子でかわいそう」
「親が弟ばっかり見ていて、放っておかれる上の子がかわいそう」
「母乳じゃなくてかわいそう」

いやいや、言うなら何か支援してくれよ。
早い時間にお迎え代行してくれるのか? 遅くまで働かなくても良いように生活費を援助してくれるのか? 手作りおかずを毎晩届けてくれるのか? 二人目産んでくれるのか? 下の子のお世話してくれるのか? 母乳くれるのか?(もらっても困るけど!)

残念なことに、「かわいそう」を連呼する人ほど、自らは動かない印象だ。自分の生活は一切乱すことなく、傍目から見た感想だけを投げかけて、相手を傷つける。

善意で言ってあげてる風の人が多いのも、厄介なところ。傷ついた側が満身創痍で反論しても、「あら、良かれと思ったのに」とかなんとか言って被害者ぶるのだから、手に負えない。

「かわいそう」と口走ってしまう前に、今の自分に何ができるのかを考えてほしい。考えた結果、できることがないのであれば、何気ない言葉の凶器を、そっと胸にしまい込んで、「おつかれさま」「がんばってるね」というような優しい言葉に変換してほしい。

あと実際、他人が「かわいそう」と思うことが、本人達にとっては「かわいそう」じゃないことも多い。

現に私の息子は、保育園の最大延長時間である19時まで預けた日、「いつもは遊べない上の学年のお兄ちゃんと遊べた!」「パン食べた!」など、喜んで帰ってくる。

子供の人数だって、一人っ子なら一人っ子の良さが、兄弟姉妹がいればその良さが、それぞれあるだろう。

少しでも相手の立場に立って想像すれば、わかることだと思う。

デメリットだけ目ざとく見つけて指摘してくる想像力のない人が、それぞれの生き方について、あれやこれや口を出す権利はない。

かく言う私も、数日前に息子と散歩中、猛暑のせいで巣から落ち、そのまま地面で干からびてしまった小鳥のヒナを見て、瞬発的に「かわいそうだねぇ」と言ってしまった。そして何もせず通り過ぎた・・・・・・。

自分の経験をもとに考えてみると、もしかして「かわいそう」は、自分より下と認定している相手に使う言葉なのかもしれない。小動物を下の存在だと認定している自分の本心が垣間見えて、ヒヤリとする。

あのとき、なんと言い換えたら良かったのか。はたまた、相手が傷つかないことが確定している(この場合は、すでに亡くなっている小鳥のヒナ)ときには、「かわいそう」で合ってるのか。

言葉の使い方に正解はないと思うけれど、よくよく考えながら言葉を選んで使っていきたい。

言いたいことを飲み込むためではなく、伝えたい気持ちを正しく伝えるために。言葉には良くも悪くも、人の心を動かす力があるのだから。

励みになります。