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みんな「読み書きができる」と思っている


2023年4月24日(月)朝の6:00になりました。

言語が違えば、世界も違って見えるかも。

どうも、高倉大希です。




ときどき、怖いもの見たさで TikTok のコメント欄を覗くことがあります。

先日、とある投稿にこんなコメントが寄せられていました。


A「この動画、途中で終わってしまっていますよ!」

B「最後に『つづきは次の動画で』と言っていましたよ!」

A「あ、本当だ!失礼しました!」

C「ちゃんと観てからコメントしろよwww」


これぞ、TikTokです。

まずはAさんについてですが、おそらく最後の数秒を観ていなかったのでしょう。

途中でスクロールしてなんぼのメディアですから、観ていないことにはなんの問題もありません。


引っかかるのは、Cさんも述べているとおり「最後まで観ていないくせによくコメントしたな」という点です。

しかも、「相手が間違っている」という前提に立ったコメントです。

「つづきがあるはずなのに、途中で終わっているよ」と指摘しているのです。


仮に、最後まで観た上でコメントをしているのであれば、それはそれで問題です。

どれだけ軽い気持ちだったとはいえ、たった数十秒の情報の受け取りに抜け漏れが発生しているということになるからです。


まあ、今回に限っては、ちゃんと自分の非を認めて、教えてくれたBさんに謝罪しているので、多めにみてやりましょう。


言葉って本質的にものすごく目が粗いですよね。言葉によるコミュニケーションは、例えるなら150mLと1Lの目盛りしかない計量カップを使って繊細な料理を作るみたいな感覚があります。
山口周、糸井重里『「言葉にしない」ことの意味』より


これにて一件落着…だったはずなのに、Cさんが謎の追撃を仕掛けています。


C「ちゃんと観てからコメントしろよwww」


おそらくCさんは、このコメントがブーメランになっていることに気づいていません。

本来ならば、AさんとBさんのやりとりで、この問題は解決していたはずです。

言い換えるならば、AさんとBさんのやりとりをちゃんと読んでいたら、その先にはなんのコメントを送る必要もないはずなのです。


それにも関わらず、Cさんは「ちゃんと観てからコメントしろよwww」というコメントを、Aさんに向けて送信します。


「お前がな」と打ち込んで、送信せずにコメント欄を閉じました。

ここまでを見越したひとつの「ボケ」なのだとすれば、Cさんに拍手です。


「みんなが容易に(自分と)同じ気持ちを共有できるはずだ」と安易に考えてしまう日本人の多くは、自然に持つものである「気持ち」というものと、努力によって人工的に作るものである「ルール」というものとの区別がつかないため、まず「ルール」と「モラル」の混同という重大な事態に陥ります。
岡本薫(2001)『教育論議を「かみ合わせる」ための35のカギ』明治図書


「最近の若い子たちの国語力の低下が著しい」

「TikTokキッズたちは、動画の観過ぎでロクな日本語もつかえない」


もうひとつの恐ろしいポイントは、彼らのやりとりを見て、わたしたちがこう思っているところです。

おそらく多くの人たちは「自分はちゃんと読み書きができる」と思っています。


おもしろいことに、わたしたちが先ほどバカにしたTikTokキッズも、まったくおなじことを思っています。


自分はちゃんと読み書きができる。


わたしたちは「できている」という前提に立ったが最後、自分を疑うことをやめてしまいます。


わたしたちは、案外読めていませんし、思っている以上に書けません。


すべての話はそこからはじまります。






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