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泣ける
2023年4月29日(土)朝の6:00になりました。
全米が泣いた、感動のヒューマンドラマをお届けします。
どうも、高倉大希です。
泣ける小説、泣ける漫画、泣ける映画。
わりと平気で「泣ける」という表現が用いられます。
「泣ける」の「る」は、「可能」の意味をもつ助動詞です。
より丁寧に表現するならば、「泣くことができる」になります。
「泣くことができる」という表現には、多少なりとも「願望」が混ざっています。
言わば、「泣きたい」という願いが込められているというわけです。
基本的に人間は、好んで泣くことがありません。
人前で涙を流すと、なんだか恥ずかしい気持ちになります。
それでもなぜか、わたしたちは「泣ける」という表現をつかいます。
何かについて人よりも五倍気がついてしまった人は、たぶんやるべきことも、背負う荷物も、人の五倍になるんじゃないかと思うんです。
おそらく「泣ける」という表現を用いている張本人は、「感動できる」ということを伝えたいのだと思います。
「この作品は感動できる」という事実を、「泣ける」と表現しているわけです。
一方でわたしたちは、この「泣ける」という表現を見て、思わず惹かれてしまいます。
自分が涙を流す未来に、期待を寄せてしまうのです。
「孤独」ということを、どこまで自分の中に呑み込んで、つきつめていけるか。そしてその上でどこまで風通しよく生きていけるか。それを目指していこう、と。
前述のとおり、基本的に人間は、好んで泣くことがありません。
だからこそ、泣くときは、建前から感情が溢れ出た場面であることがほとんどです。
どうにもこうにも取り繕うことができなくて、涙を流してしまうのです。
もしかすると、恥ずかしいことなのかもしれませんが、一方で、わたしたちがそれを望んでいることも事実です。
心のどこかでは「泣きたい」と思っているのです。
ため息のわけを聞いてみても、自分のじゃないからわからない。
だから、せめて聞きたがる。わからないくせに聞きたがる。
泣けることは、もしかすると案外幸せなことなのかもしれません。
そして、そのわけを聞いてくれる人がいるということは、より幸せなことなのかもしれません。
さらに言うならば、そのわけをわざわざ聞かないでいてくれる人がいることは、もっと幸せなことなのかもしれません。
暦どおりのGWは東京にいることになりました。
せっかくなので、乾杯しましょう。乾杯できない方は、コーヒーを飲みましょう。
どなたもどうかご馳走してください。決してご遠慮はありません
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— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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