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「障害は才能」と言う言い方の危うさ

「甘えるな」「支援なんかしないぞ」「自分でなんとかしろよ」という強い意志というか、強烈な拒絶を、健常者から、あるいは、福祉のスタッフからすらも感じることがあります。

障害のある方は概ね感じたことがあるのでは。

かつてスーザン・ボイルという歌手が、

「私は障害を才能にしたい」

と語りました。あれだけの才能と美しい声を持っていながら、見た目について非難されたりして、一時期体調を崩していたそうです。

障害のある人は、見た目も少し変わっていることが多く、
ルッキズムはそのまま、障害者差別になります。

私の意見ですが、

障害は、障害です。
症状は、症状です。
支援が必要だからそう呼ぶのです。

それを才能と言ってしまうと、
「能力なんだから自分でなんとかしろよ」
という自己責任になってしまいます。
おそらく、健常者には都合がいい考え方なんでしょう。
障害ではなく才能なら、
支援は一切しなくて良いわけですから。
要するに、配慮や気遣いをめんどくさがる健常者が、障害者を突き放したいときに使われる言い回しなんです、これ。

「は?障害?才能だろ?自分でなんとかしろよ。俺に面倒なことさせるんじゃねえよ」

みたいな感じ。


障害者を差別する人は、私の実感だと、昭和生まれの古い世代の人が多いです。が、見た目に関しては若い人のほうが圧倒的に厳しい。
身障者が支援を受けるためにつけるマークが地元で配布されていますが、あれをバッグにつけるようになってから、小学生に通りすがりに悪口を言われたり、若い男に店で体当りされたりということが増えました。そういう直接攻撃を仕掛けてくるのは、たいてい若い人です。年配の人のやり方は『存在の無視』『幼児扱い』『横にいる支援者にしか話しかけない』など。
この『支援者にだけ話しかけて障害の当事者は無視』という差別は、実は昔、札幌市の広報で注意喚起されていました。なので、常識のある人ならわかっていることなのだろうと思います。

実は、私が今のスマホを買ったときにもあったんですよ。かなり大手の、やり手っぽい流暢な喋り方の社員でした。
スマホを契約するのは私なのですが、
同行したグループホームのスタッフに向かって、熱心に高い機種をプレゼン。私の方は一度でも見たかどうか怪しい。
スタッフは「そんな高いものは必要ない」ときちんと言ってくれましたが。

とにかく、当事者を見ない。
できれば関わりたくないという態度が見え見え。
あれ、一人で行ったらどんなことになってたんだろう?考えると怖い。


なぜ支援者にしか話しかけないか。
健常者としか接したくないからですよね。
障害者を視界に入れたくないんですね。
こういうことをする人は、圧倒的に上の世代に多いです。

世の中は、多様化とか共生とか言っていますが、実際には、障害者(特に精神と発達)が住む世界は未だに健常者の世界とは別です。
最近は障害者雇用の求人もやたらにA型やB型の作業所(給料は出ますが、自治体から補助金を受けている福祉施設です)ばかりで、一般の求人を探すのは本当に大変です。
経済的に困窮しやすく、家族もいなかったり見捨てられていたり(一番差別的なのは家族という場合も多い)賃貸などの契約でも差別があります。グループホームしか住むところがない人が増えています(私もですが)

話がそれているように見えますか?
全くそれてないんですよ。


障害を才能と言うことの何が危ないか。

必要な支援が受けられなくなるんです。
それも、絶対に必要な介助や医療や気遣いが。
まわりだけでなく、本人までもネグレクトし始める。

正しい言い方はこうだと思います。

「私には才能があるかもしれないが、
障害(病気)も抱えているので、
支援は必要です」

障害あるなしに関係なく、
助けが全くいらない人間なんていないと思う。

だいいち、才能があっても、
それで食っていけるとは限りませんしね。


私事ですが、
私は小学生の頃から、ノートに架空の話を書くのが好きでした。架空の人物の名簿を作り、親に、本物のクラス名簿と間違われたことがあります。
「なんか変な名前の子多いなと思ったわ」
あと、人前で突然歌い出すという奇癖がありました。歌は好きです。一時期カラオケにはまっていました。今は音に敏感になってしまったので行けませんが。
常に空想の世界にいるため、現実の世界の出来事に集中できません。当然、うっかりミスが多くなります。四六時中思いつきがあり、ノートに書いていたらきりがないくらいでした。よく言えば着想がある、悪く言えば、脳の機能障害です。今でもそれは変わっていません。

これらは、『障害』の『症状』でした。
本来ならば支援が必要でした。まわりとトラブルを起こさないための助けが。
しかし、当時、発達障害という言葉すらありませんでした。私はむしろ、才能のある子供だと思われていた節があります。それが問題だったんですけど、誰も気づかなかったんですね。

自分がおかしいことには中学生あたりで気づきます。とにかく生きているのが辛いので、自殺の本ばかり読んでいたりしました。社会人になってからもミスばかり。仕事を転々とし、一時はホームレスの一歩手前まで行きました。

大人になってだいぶ経ってから診断を受け、
ああ、あれもこれも全部障害の症状だったんだな。才能なんぞ存在していなかったなという真実に思い当たりました。
自分では、とっくの昔にわかっていたことでした。
昔、仲の悪い母に、
「いろいろ余計なことを思いつくのが苦しい」
と言ったら、
「そういう『才能』を持っていない人もいるんだから失礼だ」
と怒られてしまいました。どうも、妬まれていたらしいです。いろんな人から。
私には理解不能でしたが。


実際、当事者に必要なのは、
才能なんかではありません。
支援です。
支援が必要でした。

才能だの能力だの自活だのということが考えられるようになるのは、まず、支援を受けられて、然るべき医療につながり、生活を安定させてからです。

最初から、
「それは障害じゃない、才能だ。だから自分でなんとかしろ」
と言われたらどうなるか、

人生、だめにしますよ。
私の前半生のようにね。

だからそこは間違えないでほしい。
才能と、病気や障害の問題は、
別々に対応が必要なものです。

そこ、忘れないでほしい。

あと、特に昭和生まれのおじさんおばさん。
いいかげん、障害者が普通に同じ街に住んでいることを認めなさい、

いちいち差別や無視をするんじゃない。
いい歳の大人なんだからさ。



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