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言葉の体感も表す範囲も、人によってだいぶ違う

 言葉は体感するもの。
 これ、わかる人には一発で『ああ、あれね』とわかることだろうけど、わからない人には本当に通じない。
 見聞きしたことだけでなく、自分が発した言葉や、ネット上に書き込んだことは、単に頭の中ではなく、身体全体に残るものなのだ。だから、私はあまり過激なことを書きたくない(小説ではやむおえず書くこともあるけど、体調の変化に注意しながらやらなければいけない)し、過激なことがよく書いてある、一般の人が書き込んでいるようなSNSが見れない。
 ツイッターは特に駄目。
 きつい人が多すぎる。
 実はnoteもしんどい。けっこう怖い人がいる。

 例えば、私がどこかのSNSに何か意見を書いたとする。すると、その書いた内容が身体感覚になる。書いた内容がしばらく、頭だけでなく、体からも離れない。それから、行動にも影響してくる。ほんとはこうしたいけど、前にああ言っちゃったしな、みたいな。

 話すときもだ。
 私が人に向かって何か話したとする。たとえどんなにくだらない内容でも、話した口調、伴った感情、言葉の一つ一つが、私の体に残る。しばらく反芻される。
 自閉症の人が、よく同じ言葉を繰り返したりするけど、あれと同じことが体の中で起きているような感じだ。
 そして、それはやはり、その後の行動に影響する。こう言ったからこうすべきだよな、という縛りになる。自分で自分に呪いをかけるようなものだ。

 自分が発したことは、それが何であれ、
 幽霊のように、自分自身にとりつく。

 だから、私は、
 うかつに話さないことにしている。
 無口だと思われていると思う。
 でも、そうではない。

 音に敏感な人というのはよくいるけど、それと同じように、
『言葉に敏感』
『発声、表現に伴う身体感覚に敏感』
 という人もいる。私がそうだ。

 世の中では、表現するのが良いことだと思われている。実際、表現の場は必要だと思う。
 しかし、表現は、体に負担も与えうる。
 これがわかっている人、どれくらいいるだろう?
 負担に耐えられないから、表現が難しい人もいる。

 私は昔音楽をやっていたが、
 敏感な耳が自分の発声に耐えられなかった。
 だから今はたまに部屋で歌う程度。

 小説も、きついことをどうしても書かなきゃいけないときはしんどい。もろに体調に影響する。軽いトラウマみたいになる。実際に体験するのとはもちろん程度が大幅に違うけど、やはり影響はあるのだ。

 だから、私は暴力シーンのあるドラマや映画が見れない。実際にショックを受けてしまって体調が悪くなるからだ。

 たかが言葉、たかが映像と侮ってはいけない。時に現実に起きた事件以上に、それは人に衝撃を与える。

 昔見た戦争の映像が今も怖い。
 性犯罪のニュースが怖い(女はみんなそう)。
 ネット上の卑猥な広告が怖い。
(広告のせいでアプリを利用できない)
 むやみに暴言を吐くどこかの人が怖い。
 差別があることも怖い。
 戦争も怖い。

 自分が体験していなくても、この世で誰かがそんな体験をしているという事実が怖い。

 言葉に敏感な人は、他人の痛みにも敏感だ。
 同じ言葉にも、多数の意味を感じる。


 先日、会社の若い人がこんな話をしていた。

「バスに乗りたくないから車で行く。
 おばあちゃんがバスに乗るの遅えんだよ」

 彼は年寄りが「えっちらおっちら」と、ゆっくりした動作でバスに乗るのをコミカルに真似して笑ってから、

「足の遅えおばあちゃんが乗れば乗るほど、バスが遅れるんだよ。倍くらい時間かかるんじゃねえの?乗ってらんねえよ」

 この話の何に私がショックを受けたか、皆さん、おわかりになるだろうか。

①お年寄りはゆっくりしか動けないものだ、ということは知っているはずなのに、気遣いがまるで感じられないこと。

②動作を真似して笑ったり、馬鹿にしているのが見え見えであること。

③そんな、親切心のまるでない人が、普通に社会人をやっていること。


 若い=無神経なのかな、とも思った。
 若い頃はみんな元気で体に異常が出ないから、体を悪くした人の気持ちがわからない。だからちょっと年配の人が変な動作をすると、『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼んで笑いものにできるわけだ。『老い』は自分に関係ないと思っているから。だから、歳を取った他人に同情できない。
 
 しかし、40とか50になって体調を崩し、
『あっ、自分も老いるんだ』
 とわかると、そんな冗談は言えなくなる。
 病気を経験した人ほど、他人の体調に気を使えるようになってくる。
(残念だが、歳をとっても、元気すぎる人は無神経なままのように見える……)。
 体験してはじめてわかること、
 年老いてはじめてわかることは、たくさんある。

 話はそれるが、今『死にたい』と思っている方は、
『とりあえず90まで生きてみる』
 ことを目標にするのがいいのではないか。偉大なことなんて何もしなくていいから、とにかく90まで生きることを目標にする。ほとんどの人はそこまで行かずに死ぬし、うっかりそこまで生きられたら『90になってはじめてわかったこと』というのが必ず出てくるはずだ。
 長生きだけが目標なんて……と思うかもしれないけど、それは『人生を長く味わいたい』という前向きさでもあるのだ。少なくとも『死にたい』と思いながら生きるよりはよほど楽しい人生が送れるだろう。


 話を元に戻すと、
 私自身が『おばあちゃん』に近づいている年齢であるということと、体調が悪くて外出が自由にできないことがあること。これが、世の中の『おばあちゃん』に対する同情とか理解につながっていく。男だったら『おじいちゃん』に同情したかもしれない。
 そこに、
『おばあちゃんがバスに乗ると遅れるから嫌だ』
 という意地悪な発言が出たので、私は自分が悪口を言われたように感じた。

 たぶんその若手の社員には、悪気は全くなかったのだろう。ただ、仕事の用事で急いでるのに、おばあちゃんがバスに乗るのが遅くてなかなか出発しないという経験をして、苛ついた。その事実をそのまましゃべっちゃっただけなのだろう。ユーモラスに。

 この人は普段、話し方がすごく面白い人だ。
 だから時々暴走するのかもしれない。

 そう、今では理解している。

 若い人には、おばあちゃんを理解するのは難しいのかもしれない。若いがゆえに。



 言葉は、どこでどう人を傷つけるかわからない。
 敏感な人ほど、一つの言葉に多くの意味をもたせる傾向がある。沢山の人に同情でき、共感できるようになるが、些細なこと、あらゆることで傷つく可能性が増えるということでもある。

 たとえば、誰かが偶然見かけたホームレスの悪口を言ったとする。興味のない人はなんとも思わないかもしれない。しかし『弱者は救済されるべき』と考えている人や、実際にボランティア活動をしている人、あるいは、単に悪口が嫌いな人(私)が聞いたら、怒り出すか、不快感を表すだろう。

 前に、弟が小林幸子のことを、
『若者に媚びてるババア』
 と言ったことがある。ちょうど、ラスボスとか言われて動画でもてはやされていた頃。けっこう前だ。
 しかし、私は今でもそのことを怒っている。
 それはなぜかと言うと、

 弟の言い分は『事実を言っただけ』。

 私の言い分は、
『歳を取ってからも若者に支持されながら活動するのは、誰にでもできることじゃない。素晴らしいことだ。なのにそれを馬鹿にするのは、歳を取ってから活躍する全ての女性を侮辱することになる』
『全ての女性には当然私も含まれるので、お前は私を侮辱したことになる。私だっていずれ歳を取ってババアになるのだから』


 つまり、弟にとって『小林幸子』という単語は、一人の人間しか表していないのに対し、
 私にとっては『歳をとった女性すべて』『私自身』も含んだ『大きめの概念』だったのだ。
 つまり、私から見ると、弟の発言は、
『歳をとった全ての女性を侮辱した』
 ことになるのである。


 似たようなことは、女性についての話ではよく起こりがちだ。
 男性の方、気をつけて。 
 女性の前で、他の女性(特に外見や年齢について)の悪口をむやみに言わないことだ。
 みんな『いずれ私もババアになる』ことを気にしている。男性はなぜか、いつまでも若いつもりでいる人が多い印象を受ける。80になっても90になっても夜遊びができるつもりでいる。たぶん、社会的地位で他の欠点をカバーできる強い立場だからだろう。立場の弱い女性と違って、攻撃を受けること自体がそもそも少ないのだろう。

 でも、いつかは、
 年寄りに言っていた悪口が、
 自分に刺さる日が、来てしまう。

 親切になれる人というのは、いろんな言葉や立場が、
『自分に関係がある』
 と思える人なのだと思う。ただ、なんでも自分に関係があると思ってしまうと、この世の全てが苦痛になってしまうことがある。どこにでも悪口を言う人や差別的な人はいる。聞きたくないことが話題になることもある。いちいち傷ついていたら生きていけない。
 だから、大多数の人は鈍感なまま社会人になる。その方が対処しなければいけないことも減って楽だから。いちいち自分事としてとらえてしまう敏感な人、あるいは、人に同情できる優しい人は、いろいろなことがアンテナに引っかかる分、余分に苦しむことになる。つらいニュースが多いここ数年は特にしんどかった。

 でも、それでも、
 無神経で楽な人であるよりは、
 優しくて苦労する人でありたい。
 一番いいのは、優しい人が苦労しない世の中だけど、それはたぶん、しばらく実現しないだろう。


 
 私はツイッターが怖くて使えない。
 きつい言葉が溢れすぎてる。
 精神をやられてしまうので使うのをやめた。
 きつすぎる言い回し、暴言、差別的発言、その一つ一つが、読んだ人の、そして何よりも、書いた本人の身体感覚を蝕んでいる。
 なのに、そのことを自覚して気をつけている人が、あまりにも少ない。

 動画には少し興味があるが、自分でやるとなると、やはり精神や体にかかる負担が全体的に高そうで、今はやる気にならない。
 HIKAKINさんなど、いわゆるユーチューバーの方は、どれだけのエネルギーと負担をその身にまとっているのか、想像もできない。
 強い人達だなと思う。


 まとめると、

『言葉や表現は自分の体に影響する』
『人によっては自己表現は負担である』
『同じ言葉でも傷つく人とそうでない人がいる。言葉が表している範囲が人によって違う』

 ということ。



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