映画『ちひろさん』:食べること、癒やすこと

(以下には、作品の内容に関する記載が含まれます。鑑賞がまだの方はご注意下さい。)

私事ながら、先日、1週間程入院した。
これといった刺激もなく繰り返す日々。その中で唯一、確実にやってくる楽しみがあった。
3度のご飯だ。
8時、12時、18時。ほとんど決まった時間に運ばれてくるそれは、満腹にならない程度の量しかないし、味付けもなんだか素っ気ない感じがするし、内容に不満が無い訳ではなかった。
でも、嬉しかった。
次のメニューはなんだろう、もうすぐご飯の時間だと、毎回ワクワクしながら待ち、限られた量を大事にしようと、一口一口、丁寧に噛み締めて味わった。心からの「いただきます」と「ごちそうさま」を呟いた。
あの時間は、普段の生活の中ではともすれば惰性のようになってしまいがちな、「食べること」と改めて正面から向き合う時間だったように思う。
でも、皆さんは入院なんてしなくていい。
映画『ちひろさん』(23、今泉力哉監督)を見れば大丈夫だから。

風俗嬢の仕事を辞め、海辺の小さな街にあるお弁当屋さんで働くちひろ(有村架純)は、元・風俗嬢であることを隠そうとせずに、ひょうひょうと生き、誰に対しても分け隔てなく接する。そんなちひろの元に吸い寄せられるかのように集まる人々も、ちひろ自身も、それぞれに孤独を抱えているのだが、ちひろは、彼らと共にご飯を食べ、言葉をかけ、背中を押していく。それぞれが孤独と向き合い前に進んで行けるよう、時に優しく、時に強く。そしてちひろ自身もまた、この街での出会いを通して、自らの孤独と向き合い、少しずつ変わっていくのだった。
「どうしてお腹が減るのかな♪」と、ちひろが繰り返し口ずさむように、人はつらいことがあってもご飯を食べる。食べることは生きることだ。1人の時も、誰かと一緒の時も、まるでちひろの存在のように、食べることはその人の心を満たし、悲しみや孤独を優しく癒やしてくれる。そう、『ちひろさん』は教えてくれるのだ。

食べることと向き合うことは、食べることの原体験、もっと言えば子どもの頃の家族との記憶を呼び起こされることだと思う。作中でも、登場人物たちと家族との食事は、彼らの複雑な関係を象徴的に描き、彼らが抱える辛さをあぶり出している。
しかし、その辛さから救ってくれるのもまた、食事だ。
ちひろは多くを語らないし、時にその言葉はぶっきらぼうでもあるけれども、ちひろが生み出す、一緒にご飯を食べる時間は、どこまでも温かく、彼らの辛さを癒やしてくれる。
きっとそれは、言葉では伝わらない温かさだ。
このコラムでも、作中の食が持つ優しさや温もりを言葉で説明しようと苦心したのだが、そうすればする程遠ざかってしまうような気がして、これ以上は近付けない気になっている。敗北宣言ではあるけれども、とにかく見て、目で味わって欲しいと思う。そして、見終わったあなたはきっと、私と同じようにこう思うだろう。
ちひろさんとご飯食べたいなぁ!(出来れば缶ビール付きで。)

ところで、入院中の私は、栄養価には恵まれたメニューに感謝しながらも、やっぱり家で食べたいだとか、誰かと食べたいだとかいう不満を徐々に募らせていった。それは、私の原体験が豊かなものだった証拠でもある。そう言えば、食べることは生きることだと教えてくれたのも母だった。幼き頃の私のお腹と心を満たしてくれた母への感謝の念は尽きることがない。きっと、私が呟く「いただきます」と「ごちそうさま」は遠く離れた母にも向けられていた。そう気付かせてくれたのもまた、『ちひろさん』だった。

一方で、作中の登場人物のように、食事が辛さと結び付いている方もいることだろう。そんな方にとっても、『ちひろさん』は食べることが癒やしとなる希望が、確かにそばにあることを教えてくれるはずだ。
そう、あなたにとっての「ちひろさん」は、近所のお弁当屋さんにいるかもしれない。

山下 港(やました みなと) YAMASHITA Minato


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