初稿の連載小説「もっと遠くへ」1-3
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いくらか経ったと思う。
この店に来る前に購入した煙草の箱は、ライターを収納しても、まだ十分に余裕があった。
店内に流れるソウルミュージックはいつしかジャズに変わり、ブレンドコーヒーは、ジントニックやウイスキーに姿を変えていた。
店内の照明も赤や青といった原色で彩られ、一層、夜の水槽を演出して見せる。
僕はウイスキーをオンザロックで注文した。店主は驚いていたが運んでくるついでに
「今日は書かないんだね」
と言った。
原稿ならもう書き上げたことを伝え、何気なく外を見た。
窓に反射した自分の顔と目が合う。同時に店主が僕を見ていることに気が付いた。
「誰か待ってるの?」
窓に映る店主の虚像が僕の虚像に問いかけている。
グラスの真ん中を陣取っている丸く削られた氷がひと際輝いて見える。
氷を人差し指で半周回し、
「まあそんなとこです」
と呟いた。
僕は、誰かをここで待っているのかもしれない。自分のことのはずなのに、かもしれないというのは、僕自身、それが分からないからだ。
待っているとも言えるし、待っていないとも言える。ここへ誰かが来るという保証などない。もちろん約束なんてものはしていない。
けれど僕は、その誰かがこの店の扉を勢いよく開けて、ジャズミュージックが流れる店内で思い思いに過ごしている客たちの顔を一人、また一人と確認しながら窓際に座る僕の事を見つけて、「あっ」の文字を顔いっぱいに描きながら笑顔で近づいて来ることを想像している。
この店でお酒を注文したのは、実は今日が初めてだ。だからこそ店主の反応は自然なのだ。
笑われるかもしれないが、僕にとって、原稿用紙に一番似合うお酒は、と聞かれればウイスキーのオンザロックと真っ先に答える。理由なんてあるようでない。酒を少しばかり口に含み、唾液で濃度が薄まったのを確認して喉に流し込んだ。
水槽を泳ぐ魚たちは昼間の目的を持った行動とは異なり、ゆっくりと泳いでいる。
探しているものが何なのか自分でもわかっていない、そんな風に思える。
ウイスキーが僕の喉を通過したことを確認した店主が、
「良かったら読ませてくれないかな」
と言った。
あまりに自然に出た言葉に、いや、もしかすると、書き終わるこの瞬間をずっと待っていたのかもしれないが、ソウルミュージックを知らない僕の小説に興味などあるはずがない、と思った。
「こんなの読んでどうするんですか」
原稿に付着したシミを人差し指でなぞる。次に出る言葉が怖くてたまらない。店主の視線は僕の人差し指に向けられた。
「君がどんな人を待っているのか知りたくて」
店主は微笑ってこたえた。僕にはその笑みの意味を理解することが出来ない。少し、奇妙にさえ思え、同時に苛立ちを覚えた。これを読んでそんなものが分かるはずがない、そう思ったが、
「少し読みずらいかも知れないですけど」
原稿用紙の角を丁寧に揃え、店主に手渡した。店主は受け取るとまた笑って、
「大事に読ませてもらうね」
と言った。
店主の話では、どうやら僕がこの店に来るようになってから、毎日外を眺めているのを見て、誰かを待っているのではと考えていたらしい。
水槽を泳ぐ魚のこと、一日中同じ場所に居座るイソギンチャクのこと、角砂糖があまりに魅了的に見えて、失敗したこと。僕はそれらの話を店主にはしなかった。代わりに、それらを思い出し、少しだけ馬鹿らしくなって
「読み終わるまで待ってます」
と答えた。
カウンターに戻った店主に老人が何か言っているようだが、その声はジャズ音楽に中和されて僕の手前で消滅した。読み終わるのにまだまだ時間はかかりそうな気がする。でも慌てることは何もない。
自慢じゃないが、時間だけは持ち合わせている。おまけにウイスキーが苦手な僕には、これを飲み干すのにそれくらいの時間が必要だと思った。
***
続きは、8月21日(月)です。
お待ちください。
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