時間という薬
中学2年の夏頃、ちょうど体調に異変を感じ始めたくらいの時期に、日記を書き始めた。
最初は体調の異変を経過記録のような感じで書いていて、慣れてきたら自分の感情を好きなように、好きなだけ書いていた。
たまに、その頃の日記を読み返したりもするのだが、我ながらよく頑張っていたなぁ、と思う。夏頃は「身体が重い」などと書いていたのが、冬になると不登校になり、「早く死にたい、消えてしまいたい」のような言葉で埋め尽くされていた。
中学生の頃の、その日記を書いていた自分を思い出すと、抱きしめてあげたくなる。
学校という狭い世界がすべてに見えていたころの自分が本当に切なくて、申し訳ない気持ちになる。不登校になった自分を恥じ、どこまでも自分を取り繕うとしていた自分に、大丈夫だから、と声をかけてやりたい。
もし、一言だけ、中学生の私に声をかけられるのなら、何と言うだろうと考えた。
言いたいことは沢山ある。
むりしないで、とか、学校に通えなくても大丈夫だから、とか、休んでもいいんだよ、とか。。。
でも、どれもしっくりこなかった。
死ぬか生きるかの狭間で、必死に生きていた私にはどれも救いの言葉にはならないと思った。
何が辛かったのか。
何を求めていたのか。
何をしてほしかったのか。
そんなことを沢山沢山考えて、思い出して、見つけた言葉は、
「時間が薬という言葉は合っていたよ」だった。
あの頃の私は、自分の努力が足りないせいで不登校になったと思っていた。
そして、その状態がいつまでも続くと思っていた。
そのことにとても大きな不安と恐怖を抱いていた。
時間という薬があることに気づいていたら、少しは気が楽になっていたかもしれないと思った。
実際、中学を卒業してから色んな時間を過ごして、少しだけ自分に寛容になったように思う。苦しくて辛い時間の方が多かったけれど、私を強くしてくれたと思う。
私は強くなったけど、それを誇らしくは思えない。とても悲しいことだと思っている。強くならざるを得ない病気になってしまったから。
病気にならなければ、🫖さんとも出会えていなかったし、人の弱さを知ることもなかったけど、それでもやっぱり、病気になっていなかった自分でいたかった。勉強と部活に励む自分でいたかったと、今でも思う。
でもそういう葛藤も、きっと時間という薬が少しづつ溶かしていってくれるのだろうと今は思える。
少し前、友達と会う機会があった。
そのとき私は、通信制高校に通っていること、そして今は休学していることを、何の躊躇いもなく話せた。
やっぱり、「時間という薬」は存在すると思う。
通信制高校に通っていることは、通い始めて1年ほどは家族以外、誰にも話せなかった。
「時間という薬」を知った私は、以前より、少しだけ、強くなれたと思う。
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