己の承認欲求と向き合う -その5- 接待黒帯疑惑

1 とあるサークル系の団体に所属している茶帯の外国人(X)が、出稽古先の先生(A)に次のように言ったそうである。

 「俺が所属している道場のヘッドはいい奴だが、2段を貰う(=黒帯を出せるようになる)迄あと4年かかる。4年後の俺様は5〇歳でその頃にはジジイになって杖ついて歩いているだろう。そんな耄碌した状態で黒帯貰って何の意味がある。だから、俺はこっち(=出稽古先)に移籍するから、黒帯を出してくれ!」

 そこの道場では、試合結果(実力)と出席日数の2つを基準に帯を出しているそうなのだが、Xは当然の事ながら、出席日数要件が全く足りていないので、黒帯は出せない。
 A先生もXの扱いにはほとほと困って、彼が所属するサークルと同じ系列の団体の顔役の人(B)に電話で相談したところ、「ウチで黒帯を貰いたければ、全日本クラスのタイトルを獲られなければダメだ。アイツは手間勝手で我儘言っているだけだから、放っておけばいい」という回答だったらしい。
 A先生が「でも、Yさん・・・同じ系列の他の団体の責任者・・・は、紫帯から黒帯になっておられたじゃないですか?」と切り返すと、Bさんは「YさんはC先生・・・これまでに登場したサークル系の道場を束ねる総帥・・・を接待して帯を貰っただけで、あんなのは絶対に許されない事です!」と激昂したらしい。

 これまでも何度か帯昇格とそれに絡む承認欲求の問題については書いてきたが、同工異曲の誹りを覚悟の上で、この問題について私が考える事を述べてみたい。

2 今回「帯と承認欲求」をテーマに再度記事を書く気になったのは、ウチの先生から「次のブログを読んでどう思いますか?」と問われたからである。

 先生としては、私に「この記事に引用されているサウロ・ヒベイロとダナハーの帯昇格の基準の当否について400字以内で貴方の意見を述べなさい」という趣旨で質問されたのだろうが、私は一読してこの記事の内容とは全く関係ない感想を抱いた。

 上の記事をGoogle翻訳して頂ければ分かるように、日本語のブログの内容は、完全にBJJEEの記事をググる翻訳しただけである。
 また、BJJEEの元記事の中で言及されているサウロ・ヒベイロのコメントは、彼の『柔術大学』からのコピペに過ぎない。

 執筆にあたってBJJEEの記事を引用している私にそのような事を語る資格があるのか疑わしいが、これで原稿料が貰えるのであれば本当にいい商売だと思う。特に先生から紹介されたブログは、その作成者の知的怠惰に怒りすら覚える。

 話が横道にズレたので、元に戻そう。
 A先生が最終的にXをどうされたのかは分からないが、Xに黒帯を出すわけにはいかないだろう。もしXに黒帯を出せば、規定された出席日数要件を満たすべくきちんと道場に通い続けたA先生の道場の会員さん達との間に不公平が生じてしまうからである。さらに言うと、A先生の道場において正規の会員さんを差し置いてXを優遇しなければならない理由が全く見当たらないので、将来的にこの特例が「特例」ではなく「先例」として、後進に対して「A先生の道場では試合結果さえ出せば帯が貰える」という誤ったメッセージを与えるに違いない。
 
3 ウチの道場にかつて所属していた先達にも似たような人物がいた。彼は「全日本のタイトルを取るまで茶帯は要らない」と宣言して、紫帯で7年近く過ごしていた。7年近く過ごしていたと言っても、7年間柔術の稽古に打ち込んでいたわけではない。少なくとも、平素の稽古量は私の半分にも満たない。その稽古量でどうやって全日本のタイトルを取れるのだろう?と常々疑問に思っていたが、結局彼は出稽古先の道場の先生から茶帯を貰って(他にも色々と問題行動があったのだが)、最終的には破門されてしまった。

 私の場合、BJJ以外の武術経験は古流柔術しかないが、そこでは道場の師から弟子に直接帯や段位を授与するのが当たり前だった。古流柔術はBJJと違って「出稽古」という概念がないから、「出稽古先」で帯を貰うという発想すら存在しないと思うのだが、BJJの場合「出稽古」先で帯を貰う事例があると知った時にはかなり衝撃を受けた記憶がある。

 BJJの場合、20年前の日本には黒帯が存在しなかったから、ブラジルに行って現地の指導者から帯を授与されない限り、日本国内では黒帯を取得できなかったという歴史的事情もあるだろう。だが、今日では日本中に黒帯の先生が存在し、それを取得する事は非常に困難ではあるものの、不可能ではない。むしろ、20年前にブラジルに行って、現地で黒帯を貰うという事の方が今日本で黒帯を取得するよりハードルは高かったと思われる。
 
 では、20年前と比べると今日では帯の取得が遥かに容易になったにも関わらず、どうして出稽古先で帯を貰うという悪習がまだ残っているのだろうか?私はこれが不思議でならない。
 出稽古に来たビジターに帯を出す先生がどれくらい存在するのか分からないが、そういう特例を認めれば、その先生が経営する道場の会員さん達に不満が出るだろうし、出稽古元の先生のメンツを潰す結果になるという事くらい少し考えれば誰でも分かりそうなものである。

 Xや先に触れたかつての先達を見ていると、こうしたフットワークの軽い人々は「承認欲求」が異常に高い。高い「承認欲求」を満たすべく努力し、試合で結果を出せば誰も文句を言わないのだが、試合で結果が出るほど努力していない、あるいは、現在の競技柔術では上に行けば行くほ試合で結果を出すのが困難になっているので、試合で結果を出すために努力するより、裏口を使ってでも帯を貰うための努力をするのに費やした方が「スマート」に見えるのかもしれない。
 だが、彼らは「BJJの帯に世間一般の人は全く興味関心がない」という事実を見落としているか、さもなくば、そうした事実から故意に目を背けている。世間の9割の人々は格闘技経験者と聞くと、「カッコいい」とは思わず、良くて「変わった人」悪い場合は「乱暴者」と思っている。だから、彼らはBJJの帯の色の価値が「分からない」のではなく、「分かる気がない」。
 
 昔の記憶なのでいつ頃か思い出せないが、ドキュメンタリー番組で極真空手の黒帯の取得には「10人組手」をしなければならないと聞いた事がある(その番組では「100人組手」を達成された先生の奮闘が扱われていた)。
 私は打撃については全くの門外漢だが、「10人組手」を「10本スパー」に置換して考えると、それが本当に大変な事だと想像は出来る。
 ただ、それでも極真空手の黒帯を取得するのが難業であると認識は出来ても、極真空手の黒帯の真の価値は私には分からない。極真空手を稽古されている方々にとって、BJJの帯の価値が分からないのと同じである。
 世間一般の人々のように帯の価値を「分かる気がない」場合と違って、同じく武術に携わる者同士であっても、空手とBJJのようにジャンルが異なれば、お互いにその帯の価値が「分からない」のである。

 まして、極真空手と異なり、BJJの場合帯の基準が各道場・サークル毎にバラバラである。冒頭のやり取りに登場したCさんがY先生を「接待して」黒帯を貰った、というのはおそらく事実に反するであろうが、Y先生の帯を出す基準が明確でない事がXをめぐる問題やBさんが激昂する原因になっていると言えるだろう。

4 サウロ・ヒベイロやジョン・ダナハーの帯昇格に関する基準がどうあれ、BJJを稽古する人々は「帯の色に拘るのは止めた方がいい」。帯の色は一種のライセンスとして機能するから、職業人として柔術に関わる人にとっては別論だが、BJJのライト層や中間層の人々にとっては、まず「BJJの帯の価値を世間は認めていない」という事をきちんと認識した方がいい。
 偶にしか会えない親族や旧友と比べると、BJJに打ち込んでいる人ほど道場に来る他の人々との関係が密になるが、道場は世間と同じではない。「BJJ村の常識は世間の非常識」という事はPEDを取るまでもなく、多々存在する。
 そうした世間のBJJに対する冷ややかな目をきちんと認識していればXのように黒帯取得に異常なまでに拘って、周りに迷惑を掛ける事もなくなるだろう。
 
 Xやかつての先達を見ていて思うのは、「彼らは黒帯になったら、その承認欲求をBJJの中でどうやって満たしていくつもりなのだろうか?」という疑問である。
 彼らは柔術が好きなのではなく、他人に認められる事が好きなだけである。だが、狭いBJJ村の中で認められて何になろう。
 それよりは、BJJに全く興味関心のない世間一般の人々とも普通にコミュニケートし、人生を明るく楽しく過ごした方が精神衛生上もよほど健全だと思うのだが。

 自分が真剣に取り組んでいるものの価値を誰しも高く評価したがる。私もそうである。だが、その評価が世間一般にも受け入れるかどうかはまた別問題である。自分の物差しも究極的には自分の好み(選考)が反映されており、他者の物差しにもまた彼の選考が反映されている。だから、自分と好みが一致する集団の中の物差しは、集団外の人々には通用しない。それは要するに「ラーメンが好きか?カレーが好きか?」という問いと同じであって、「ラーメンとカレーのどちらが優れているか?」という問いではない。この点を混同する人々が出稽古先で黒帯を貰うという愚挙に出るのだろう。

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