武道と武術とスポーツ

1 私はタツラー(武道家の内田樹先生の熱狂的なファンの事をそう呼ぶらしい)という程ではないが、内田先生の著作はなるべく目を通すようにしている。
 内田先生は20代で始められた合気道(居合その他)の稽古を40年以上に渡って続けておられるが、内田先生の言葉には長年の稽古を通して培われた身体的実感がこもっていて、いつも「なるほど!」と唸らされる。
 話は私が古流柔術の稽古をしていた頃に遡るが、昔道場の先輩にあたる人物から「武道は何のためにあるとお前は思うか?」と聞かれ、「さあ、よく分かりません」と答えると、「武道は敵を倒すためではなく、人を守るためにある」と言っていた。
 その人物は、「人を守るため」の技術を使って、私も含めて道場の生徒達の手首や肘を傷めつけ、「言う事とやる事が全く違うなあ・・・」と感じたものである。
 だから、昇段審査の論文で、そもそも「武道」という言葉における「道」とは、儒教の中で最高の(徳の)概念である「仁」に至るための方法という意味に過ぎない。つまり、英語に訳せばHow toであって、「道」それ自体には特別な意味はない空概念である。「武道」とは、「武を習得するための方法」という意味に解するべきあって、私はあえて「武道」ではなく、「武術」という言葉を使いたい、と書いた。
 今考えると若気の至りの感が否めないが、「武道」という言葉が持つあいまいさ、そして、武道をやっている者がめいめいこれに好き勝手な意味を付与して、自分の行為を正当化するような風潮に警鐘を鳴らしたつもりであった。

2 さて、話は内田先生に戻る。内田先生は『武道論 これからの心身の構え』(河出書房新社)の中で、「武道というのは畢竟するに一生をかけて生きる知恵と力を涵養することである。この努力に終わりはない。「もう必要なだけの生きる知恵と力を手に入れたので、修業はおしまいです」ということはあり得ない」(同書p105)と述べておられる。
 これに対して「スポーツ」としての格闘技は、決められた時間・場所において予め定められたルールに従い、両者がその優劣を競うモノである。
 少なくとも、一生かけて「スポーツ」としての格闘技をする事は不可能である。
 なぜなら、試合では決められた時間の中で、リミッターを振り切って、その肉体的パフォーマンスを最大化させる事が求められるからである。肉体的パフォーマンスは加齢によって衰えるし、リミッターを振り切ればケガもする。人間誰しも40過ぎれば、怪我の治りは遅くなるし、いずれは「スポーツ」としての格闘技からは引退せざるを得ない。
 BJJは、公式試合が「スポーツ」としての側面を持ってるが、武道としての側面が語られることは日本ではあまりないように思う。
 では、内田先生の「武道」の定義に照らして、BJJは武道と言えるのだろうか?
 この点で、ヒクソン・グレイシーが「JIUJITSUは弱い者のためにある」と語り、彼の弟子であるヘンリー・エイキンスが「貴方の教則の中でまず最初に何を買えばいいですか?」と聞かれて、「迷うことなくセルフディフェンスに関する教則だ」と答えているのが一つの解を示していると思う(注1)。

3 「セルフディフェンス」「護身術」のために柔術に取り組む、というのは柔術をスポーツではなく、武術として捉える事に繋がると思うが、「セルフディフェンス」とか「護身術」と言うと、必ずと言っていいほど「じゃあお前は柔術をやれば銃を持った相手に勝てるのか?」とか、「護身の型をやって何の意味がある。試合で全く使えないじゃないか?」と言った反論が来るそうである。
 「護身術」として柔術をやって銃に勝てるようになる訳では勿論ない。また、セルフディフェンスの型そのものが試合やスパーでそのまま使えないという指摘も間違ってはいない。
 だが、それで「護身術」として柔術を武術的に稽古する事に意味や価値がないかというと私は全くそうは思わない。
 まず、「セルフディフェンス」の型を稽古するのは、それを通して合理的な身体の使い方を探究する事にある。取りと受けが予め決められた型を繰り返す中で、技に深みが出てくるのである。BJJのテクニックを覚えるために練習するのが(外)側の話だとすれば、護身術の型を稽古するのは中身の話になる。
 実際、グレイシーのセルフディフェンスの型とかつて私がやっていた古流柔術の型に(形の上では)共通した内容が多いことに驚いたのも事実である。合理的な身体の使い方というモノは洋の東西、武術のジャンルを問わないという事だろう。    
 次に、スパーリングも発想を変えれば、それがセルフディフェンスないし護身術としての側面を持っているという事が分かると思う。
 自分より強い相手とスパーすれば嫌でも守らざるを得ない。かつての私がそうであったようにスパー自体がセルフディフェンスそのものだという人も少なからずいると思う。スパーで負けて、己の弱さや限界を自覚できれば、自分の強さを恃みにしていたずらにトラブルに巻き込まれることもなくなるだろう。だが、それ以上にどんなポジションであれ、そのポジションの中で危ない状況とそうでない状況の区別が付くようになる事が重要だと思う。マウントやバックを取られていても、強い姿勢を取って、フレームディフェンスが効いていれば安全な時もあるし、マウントやバックを取っても、ポジションキープが出来なければ、自分が安全な場所にいるとは言えない。
 そういう意味では、スパーリングを通して一種の危機感知センサーを磨くことが武術的な柔術にとっては最も大事だろう。
 「スポーツ」としてのBJJは、打撃がないし、マットの上で行われるという意味で、路上のストリートファイトとは全く異なる。打撃を想定してスパーするというのは現実的ではないが、BJJのスパーリング自体がストリートファイトとは異なるという想像力を欠いてはならない。
 『武道論』に収録されている「武道家は天下無敵をめざす」(同書p34)を機会があれば一読して頂きたいが、真の護身術は100戦して100勝する事ではない。そもそも「危ない場所には行かない」「危ない人は距離を置く」といった行動を取ることで、そもそも「敵と合対峙する状況そのものを生じさせない」ようにすることが護身の理想である。
 「武術の稽古を通じて開発される能力のうちでもっとも有用なものは間違いなく「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」能力・・・である」(内田樹『武道的思考』筑摩選書p108)。
 「柔術を武術的に稽古する」という言葉で私が言いたかったことも期せずして内田先生の仰っている事とほぼ同じような事である。だから、私にとっては、柔術は古流であれBJJであれ、どちらも「練習」ではなく、「稽古」するモノなのである。

注1)https://www.hiddenjiujitsu.com/ultimateselfdefense

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