Z世代

1 コロナ禍を挟んで、町の喧嘩自慢のオジサン達がウチの道場から姿を消し、それに代わって、Z世代の若者達が道場に来るようになった。

 中学生以降一度も素手での殴り合いの喧嘩をした事のない私から見ると、喧嘩自慢のオジサン達は「柔術が好き」なのではなく、「自分が好き」なだけで、少しでも周りに自分をカッコよく見せようという「見栄坊」達ばかりだったように思う(今私と同年配以上で道場に残っているのは、「柔術が好き」で稽古に取り組んでいる人ばかりである)。
 Z世代の若者達には、喧嘩自慢のオジサン達のような「見栄坊」はいないが、それでも世代としての特徴のような心的傾向があるように感じられる。「コスパ」とか「タイパ」と言った言葉が定着して久しいが、彼らの特徴をひと言で表すと、「とにかくすぐ正解を欲しがる」という点が挙げられよう。
「コスパ」「タイパ」という発想と根っ子で繋がっているように感じるのだが、彼らにあるテクニックを教えると、彼らは次に道場で会った時に口を揃えて「(教えられたテクニックが)スパーリングで使えなかった」と言って、「どうすればいいのか?」と聞いてくる。

2 例えば、最近入会したある子に「ハーフガード」からの基本的なテクニックとして、「(クローズドガードへの)エルボーエスケープ」「ハーフバタフライからのフックスイープ」(注1)「バックドア(バックテイク)」(注2)を教えた。

注1・2)


 すると、翌週彼は「スパーでフックスイープを掛けようとしたら、相手が持ち上がりません・・・何が悪いのでしょう?」と聞いてきた。

 「フックスイープ」は、ウチの道場のベーシックドリルに入っているのだが、彼はMMAクラスと掛け持ちしているので、柔術クラスの練習にはあまり顔を出していない。「ハーフバタフライ」だけでなく、「フックスイープ」が成功するためには、①フックした足で相手を持ち上げるのではなく、フックした足と反対側に真横に倒れて、自重(の体重移動)を用いて相手を崩し、②(フックした足と)反対の足で地面を蹴って、その地面を蹴る力で崩した相手を押し込まなくてはならない(注3)。

注3)以前も紹介したが、「フックスイープ」の理合の解説として、このジョン・ダナハーの動画より優れたモノはないと思う。


 ウチのベーシックドリルでは、「重心移動による崩し」を理解するために「フックスイープ」を取り入れているので、スイープを成功させるためには②(フックした足と)反対の足で地面を蹴る力を使う必要がある事は、各人がドリルをしながら自分で気付かなくてはならない。
 だから、彼にはフックスイープを成功させるには、上述した①②が必要である事を説明した上で、「まずは、ベーシックドリルを繰り返して、重心移動による崩しを身体で覚えよう」と伝えておいた。

 そのまた翌週には、「三角締めに相手を捕えて、相手がゴチャゴチャしてきた時にどうやって極めたらいいんですか?」という質問を受けて、こちらも頭が痛くなってきた。
 もし、相手を下から「4の字ロック」に捉えることが出来たとして、そこで暴れる相手を仕留めるテクニックを教えてくれ、というのであれば次のよう回答も可能ではある。


 「4の字ロック」から、三角締めだけでなく、相手の動きに合わせて「キムラ」「インバーテッドアームロック(腕固め)」「アームバー」「リストロック」等々他のサブミッションを組み合わせて狙ってはどうか?と。
 しかし、柔術・MMAを始めて日の浅い子に、それらのサブミッションを教えたところで、いたずらに彼を混乱させてしまうだけだろう。だから、私は「相手が暴れるなら、まずは両手で相手の頭を抱えて、動きを止めたら?」とアドバイスしておいた(そういう点も含めて、最も参考になるがジョン・ダナハーの「表三角」である)。


3 彼の話は少し極端かもしれないが、ロクにドリルないし打ち込みをしないで、テクニックがスパーリングでもすぐ相手に通用する。あるいは、詰まっても必ず誰かが答えを知っているはずだ、という発想はどこから出てくるのだろうか? 

 私の場合、実際に「ゆとり教育」を受けたわけではないから、「ゆとり教育」の実態がどのようなモノだったかは知りようがないが、Z世代に特徴的なのは「自分の頭で考える」というトレーニングをやっていないという点だろう。何か問題にぶちあたった時に、自分の頭で考えず、すぐネットに答えを求める習慣がそうさせてしまったのかもしれないが、少なくとも「問い」に対して自分の頭で考えて「解を出す」という思考プロセスを踏む訓練をしているようには見えない。
 自分の頭で考えたからと言って、常に正解が出るわけではないし(むしろ、人は往々にして間違う)、自分の頭で考えるには、その判断の基礎となる一定の知識ないし情報を自分の頭に記憶していなければならない(「ゆとり教育」が否定しようとした暗記型の作業は自分の頭で考える上では不可欠である)。

 古流柔術の稽古は「型稽古」がメインになるが、「型」を演じるだけであれば、そう難しい話ではない。演じられた「型」を見て、「フェイクだ!」という声が絶えないのも当然だと思う。
 だが、本来「型」は演じるものではない。「型」を繰り返し「稽古」し、トライアル&エラーを繰り返しながら、その理合は自分で発見しなければならない。
 師範がアドバイスをくれる事はあるが、それはあくまでも「型」を「稽古」している本人が理合に気付くためのきっかけと成り得るに過ぎない。「型稽古」は、繰り返しの鍛錬の中で、自分の頭で理合を発見・自得していくプロセスだという事が分からなければ、いつまで経っても技量は上達しない。そうした「型稽古」の繰り返し作業に意味が見出せず、退屈としか感じられない人には、古流合気道系の武術は向いていない。
 「一技30回」とか「千日の稽古を以って鍛とし、万日の稽古を以って練とする」という言葉があるが、やみくもに稽古の回数を増やせばいいという意味では勿論ない。「型」を反復して稽古するその度毎に、「型」が失敗した時には「何が悪かったのか?」、あるいは、「型」が成功した時に「何が良かったのか?」を問い続ける姿勢こそが、「型」ないし「技」の理合に到達する道であり、そのプロセスを繰り返していれば、結果的に千ないし万の「型」を稽古する回数をこなすことになる、というだけの話である。

4 「型」とその「実践」という視点で見た場合、BJJのテクニックのドリルが「型稽古」に、スパーリングが「実践」に相当するだろう。
 古流・合気道系の場合、「型」を実践するための「乱取り」ないし「スパーリング」を欠いているという点において、格闘武術としては大きな欠陥を有している。これに対して、BJJはこの両者を兼ね備えている点で武術としての完成度を高める上で大きなアドバンテージを持っているはずである(勿論、こうしたアドバンテージを持っている武術はBJJ以外にも多数ある)。
 「型」と「実践」は不即不離である。「実践」であるところの「スパーリング」だけをいくらやっても強くはなれない。「スパーリング」だけで強くなれる人がいるとしたら、その人は生物として強いのであって、彼には技術は要らない。おそらく彼は何の武術をやっても強くなるだろう。
 そうではなく、「弱者が強者と相対して、身を守る(決して、弱者が強者に勝つ、のではない)」事が柔術の目的であるとすれば、身体的な弱者は「型」稽古としてのテクニックのドリルを反復するだけでも十分効果がある。
 柔術に限った話ではないが、人生に行き詰った時に、とりあえずネットや他人に答えを求めるのは止めた方がいい。人生の岐路における決断だけを取ってみれば、後で「失敗した」と思わざるを得ないことがあったとしても、その決断は「自分の頭で考えて」なすべきである。そうでなければ、結果に対する自己責任を負えずにいつまでも他人を責めるだけの人間になってしまいかねない。
 柔術の迷いは柔術でしか解消できない、あれこれ悩むくらいなら道場に行って稽古した方がいい。ドリルを繰り返していれば、ある日突然答えが見つかり、迷いが晴れる日も来るはずである。

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