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「季節の中で」と「季節の外で」HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.1

■ 松山千春「季節の中で」 作詞:作曲:松山千春 編曲:清須邦義 発売:1978年8月21日
■ アナーキー「季節の外で」 作詞:作曲:アナーキー 発売:1980年2月21日


教室のトレンドセッターが連れてきた「松山千春」

世の中にトレンドセッターがいるように、小学校の教室にも同じような存在がいる。新しい情報や文物を誰よりも早く教室に持ち込み、流行を作り出す。僕の学年(丙午で人数が少なく、小学校は一クラスのみで総勢29人だった)では、Kがそういった存在だった。Kが教室で流行らせたものは多々ある。例えば、鉛筆。ある日、彼が持ち込んだuniの鉛筆は瞬く間に教室を席巻し、最終的にはほとんどの生徒がuniを使うようになった。

高学年になると、その影響は文房具にとどまらず音楽にも及んだ。数年後に気づくのだが、実際のところKは、五つほど上の兄から色んな情報を仕入れていたのだ。しかし、当時の僕は、Kが自身のアンテナを駆使し様々な情報を得ているものと思い込み、彼を半ば尊敬もしていた。

そんなKが、小学6年のある日、突然推し始めたのが松山千春だった。「サザンもいいけど、今はダンゼン、チハルやって」とKは言った。初めて聞く名前だった。「誰やそれ?」とたずねると、Kは大げさに驚いたように「知らんの?今、グリコのチョコレートのコマーシャルで流れとるヤツ」と言うと、『めぇーーぐぅーーるぅーー』と声を張り上げ素っ頓狂な調子で歌い始めた。

Kの熱唱に感じるものは少なかったが、数日後、テレビから流れる本物の「めぇーーぐぅーーるぅーー」に接した時、僕は一瞬のうちに魅了された。曲はもちろん、その声にである。とてつもない高音。なのに、太く艶がある。特に「あーーなーーたぁーはぁ」の「は」を叫ぶように歌う部分がたまらなかった。何か歌い手のほとばしるような情熱が、こちらの胸にグサリと突き刺ささってくるような気がした。今風に言えばエモかったのだ。超絶に。

以上は、当時の感覚を、今の僕の言葉で再構成したものだ。その時はただただ茫然と「なんだかわからないけど、なんていい声なんだろう!」と思っていたはずだ。

「季節の中で」編は1分8秒頃より。

僕の松山千春イヤーズ’79~’81

中学に入ると、僕の松山千春熱はさらに上昇していった。僕の中学生活は、79年から82年。その間に出たシングルは『窓』『夜明け』『恋』『人生の空から』『長い夜』などなど。ヒット曲連発の、まさに彼の全盛期と言ってよい時期と重なる。

しかし、松山千春のファンと言いつつ、いつも彼の音楽に触れていたわけでなかった。まず、彼はテレビに出ない。「ザ・ベストテン」には『季節の中で』が一位を獲得した時に一度だけ出ているらしいが、当時の僕はゴールデン洋画劇場のある土曜日以外は9時に寝ていて、中学に入学し周りがベストテンの話題に花を咲かせるまで、番組を一度も観たことがなかった。

テレビで歌が聴けないとなると、あとは、レコードかラジオである。当時の我が家にはラジカセはあったが、ステレオはなかった。というか、あるにはあったが、父親が若い頃に購入した家具調の年代物で、しかも故障したまま放置されていた。レコードを買った所で聴くことができない。

加えて、この頃(80年前後)はまだレンタル・レコード店も存在していない。地元(石川県松任市)でその種の店が登場するのは、記憶では82年初頭である。結局、ラジオでエアチェックするか、レコードを持っている友達がカセットに落としたものを借りるかである。それを何とか借りることができても、家にはダビングする機器がない。ないない尽くしである。数日間の期限付きで何とか借りたカセットを、僕はこれ以上ない集中力で何度も聴いた。

そうした中で、一番の情報源は雑誌だった。当時、アイドル的な人気も高かった彼は、「明星」などのアイドル雑誌にも頻繁に登場していた。ライブ・レポートやインタビュー記事などにくまなく目を通して、彼のポリシーなどに少しずつ触れていった。

また、別冊の「YOUNG SONG(通称ヤンソン)」には、歌詞やコード進行が掲載されていた。父親のさびた弦のギターを抱え、僕は少しずつコードを覚えて、松山千春になりきる至福の時間を味わった。

主に雑誌記事を通じて得た情報から、彼独自の活動方針、例えばテレビに出ないことや、居住地を東京に移すことを拒み地元の北海道に住み続けていることなど、権威に媚びず我が道を突き進む姿を知り、自我が芽生え始めた中学生としては、大いに憧れを持った。

そうした彼の活動は、これまた後の言葉を使えば、それまでの歌手やグループとは一線を画す「オルタナティブ」なものに映った。そう、80年前後の松山千春はオルタナでエモい存在であったのだ(少なくとも僕の中では)。
 
さて、松山千春の楽曲で、当時一番気に入っていたのはデビューアルバムに収録されていた『大空と大地の中で』。「生きることが辛いとか 苦しいだとか言う前に 野に育つ花ならば 力の限り生きてやれ」という部分は、何度となく口ずさんだ。すると、ゆったりとしたメロディーに乗って、行ったことのない北海道の雄大な景色が脳内に再生される。その景色の中を松山千春の声が、中学生なりに抱いていた将来へのぼんやりとした不安を溶かすように、どこまでも響き渡っていった。
 

1981年6月11日の「長い夜」

そんな日々の頂点は、81年の夏前にやってきた。『長い夜』が大ヒットし、「ザ・ベストテン」で再び1位を獲得。そして、ついに同番組に、松山千春が約三年ぶりに生出演するというのだ。

それは6月11日(というのはネットで調べました)、お隣り富山県のコンサート会場からの中継で、歌唱シーンは当日のコンサートのアンコールを収録したものということだったが、そんなことはどうでもよかった。「動く松山千春」を見ること自体が、僕にとってほぼほぼ初体験に近いのだ。

当時、家にはビデオデッキすらなかった。とにかく目に焼き付けるしかない。僕はテレビを画面を挑むように見据えた。

始まった。

千春コールに乗って、細身の体に白いシャツとズボンを纏った彼が舞台袖から飛び出してくる。舞台上にはおびただしい数の紙テープが散乱している、と思う間もなく、彼に向ってテープがびゅんびゅん飛んでいくではないか。女子たちのすさまじい歓声が響く。生ライブ自体未体験の僕にとって、会場のとてつもない熱量にまず圧倒され、そして、痺れた。

彼は片足でぴょんぴょん弾むように歌っている。「ノリの良い曲だと、こんな風に踊りながら歌う人なのか!」と、また感動である。サビでは、その後、数々のモノマネ芸人たちのネタとなる、体をくねらせての「なっがぁ~~~~い」が炸裂する。会場のボルテージがさらに上がる。上下白の衣装の彼は照明の光を反射して、まるで全身が発光しているようにみえた。

この時の約5分間の印象を一言で表すなら「狂乱」である。飛び交う紙テープ、熱狂的な歓声、手拍子、そして、それら観客のエネルギーを受け止め、さらに増幅させて投げ返す松山千春のパフォーマンス。14歳の目には、すべてが常軌を逸してみえた。そして、刺激的だった。

番組が終わった後も、興奮は収まらなかった。翌日の級友たちとの会話が、この話題でもちきりだったのは言うまでもない。


『季節の中で』から『季節の外で』

時は流れ、夏休みが終わり、新学期が始まった頃、件のKが「おまえ、最近、何聴いとるん?」と話しかけてきた。「松山千春」と答えて「お前も好きやったやろ?」と言いかけると、その答えを待ってましたとばかりに「古いなお前。まーだ松山千春なんて聴いとるんか」と言い、そしてにやりと笑うと「今はこれやって」と言いながら筆箱を指さした。

そこには銀色のステッカーが貼ってあり、漢字が何文字か並んでいた。「亜無亜危異、、、何それ?念仏?」と言うと、「アホか。アナーキーって読むんや、これは」と得意げにKは言った。「銀蠅の『仏恥義理』みたいなもんか?」と僕が言うと、「あんなんとは全然違うわ。アナーキーは“パンク”やからな」とKは厳かに言った。

雑誌などでパンクという言葉は目にしていた。クラッシュやジャムというバンドの名前も。しかし、それがどんな音楽なのかについては、まったく知識がなかった。今ならば、気になるアーティストなりをその場で検索して、音源を聴くことは容易い。しかし、81年当時は、例え「アナーキーとは?パンクとは?」と疑問に思った所で、すぐに確かめる術はほとんどない。

しかし、そのアナーキーの音を耳にする機会は、割合すぐに訪れた。

それはクラス対抗の合唱大会の発表曲を決める場でのことだった。発表曲は大体は教科書に載っている曲が選ばれるものの、基本的に生徒が自由に決めてよく、提案された曲をその場で聴けるようにラジカセも持ち込まれていた。

授業で習った「あの素晴らしい愛をもう一度」などが候補に挙がるなか、Kが手を上げると「季節の外で」と言った。司会役の女子が首をひねりながら、黒板に「季節の中で」と書いた。「違うって。中じゃなくて外!アナーキーの」と言いながら、カセットをセットしにKは前へと出てきた。女子が再生ボタンを押す。と、いきなり大音量でロック・ミュージックが鳴り出した。

石川県松任市の中学校の教室で、アナーキーが鳴り響いた瞬間である。

アップテンポのイントロに続き、ボーカルが歌い出すのを聴いた時、衝撃を受けた。それは、当時の僕の耳には、ただのがなり声にしか聴こえなかった。「年若い兄ちゃんが、ただただ怒鳴り散らしている」それがその時の僕の印象だ。

クラスの生徒たちは、一瞬のうちに、これがKの悪ふざけであることを理解した。一応はワンコーラスが流されたが、司会の女子の「Kくん、ふざけるのはやめてください!」の声とともに、あえなく停止ボタンが押された。Kは悪びれる様子もなく笑っている。

ワンコーラスしか聴けなかったし、歌詞も切れ切れにしかわからなかった。けれど、この歌が松山千春を揶揄するものらしいことははっきりとわかった。それにしても、と思った。何から何まで松山千春とは真逆ではないか。心地よいメロディー、のびやかな美しい声、人々を勇気づけるメッセージ。今、耳にした音楽からは、そんなもののかけらも感じられなかった。

だけど、、、と思う。心地よさはなくともザラザラした生々しさが、美声ではなくとも声にはやみくもなエネルギーが、人々を勇気づけるメッセージはなくともむき出しの本音があった。松山千春や今まで聴いてきた歌手たちからは感じることがなかった何かが、そこには確かにあった。

1981年はニューミュージック勢最後の黄金期?

振り返ると、81、82年あたりを境に、邦楽の勢力図的なものが大きく変化したように思う。当時の十代の興味は、70年代に登場したニューミュージック勢から、80年以降にデビューまたはブレイクした、さらにフレッシュな一群のアーティスト達に移りつつあり、それまでヒットを連発していた松山千春、アリス(81年活動停止)、さだまさしらも、固定的な人気は維持しつつも、時代の先頭からは、ゆっくりと退いていく。

象徴的なニューカマーは、デビュー自体は70年代初頭だが、70年後半から一転してロックバンド編成となり、80年以降に中高校生を中心として爆発的に人気を伸ばしていたRCサクセションではないだろうか。

件の教室のトレンドセッター、Kがアナーキーと並んで推していたのも、やはりRCサクセションだった。教室には、その影響だろうか、清志郎のアクションを真似ながら「愛し合ってるか~い」とおどける生徒たちが増えていた。彼らの多くはつい最近まで松山千春の愛聴者だったはずなのに、とクラス内の急激な時代の変化についていけない僕などは思っていた。

そんな僕も、81年を最後に、松山千春をはじめとするニューミュージック勢の音楽をめっきり聴かなくなる。僕にとっての来るべき82年は「ナイアガラ・トライアングルVol.2」「サムディ」などのアルバムと、様々な洋楽に彩られることとなる。

僕にとっての80年代が、ようやく始まろうとしていた。

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