見出し画像

自分のために書けばいいんだけど

承認要求大盛りで。

ここ最近お気持ち表明と自分の中で毎日振り返りのようなものを書いていてそれが溜まってきた。

溜め続けるのもいいが、結局自己の中でその気持ちが完結してしまうので、noteを使ってそれを記事にしてみた。

改めてプレビューなんかみてみるともう滑稽でしょうがないものだった。けれども考えてみるとこれは自分自身の気持ちを書き散らかしたもので、誰かに共感してほしいとかそういうものじゃない。
(みて共感してくれたら嬉しいけれど)
だからnoteとか人の目が触れる場所に気持ちを述べるのであれば文章はわかりやすい伝わりやすいように書くべき、そうであれ。

いやでもこれは単なる自分の気持ちであって他人にわかりやすくなるように削ってしまったものはもはや「自分」を通り越して「他人」になってしまわないか?それ媚を売ってないか?自分を偽っていないか?どうしようにもできないこの気持ち。

SNSが存在している以上、共感を表す「いいね」や「高評価」、「お気に入り」から逃れられないのである。

だって、ここに投稿してるってそういうことでしょう?

#をつけて誰かに見てもらおうと必死だね。

そうだよ。
誰かが見てくれれば、それがモチベになる。

実際に書いていて、描いていて何も反応が無ければそれは壁打ちだと無惨な気持ちになるし、つまらなくなってくる。誰かが見てくれれば、反応してくれれば、僕は注目されているんだと、死ぬほど喜べるし嬉しいものだ。

「僕と同じ気持ち!僕は一人じゃなかったんだ。」

SNSは希薄で薄情だと思う。日々大量の投稿が飛び交い、瞬く間に声がかき消されていく。まるでお昼時の渋谷のスクランブル交差点だ。あれが日夜問わず常に有る。恐ろしい。

だからこそ反応を貰えると他人の温かみを余計に感じてしまうし、承認要求を生み、育ててしまうものなのだなと考える。

「承認要求」と「自分」バランス良く織り交ぜながら書いていきたいと思うが、そう思うと、焦りが出てくる。

毎回どちらかに偏ってしまっていて、これはもはや自分と呼べるのか?誰かに見てもらえるようにかけてるのか?なまじ伝え方を勉強した分、この相剋が凄まじく、目的と手段を間違えているような気にもなる。

本当は何も飾らず、自己表現していたい。
そうであるようにしていきたいのにね。


読むともっと楽しめる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?