なぜnoteに毎日書くのか。
日記でよくない?
実際そうだ。自分の気持ちを書き残すならメモアプリで空いた時間にサッと書いて終わりでよい。形あるものに残したいならば毎晩紙のノート、手帳に「生きた証」を記していけばいい。
実例だってある、過去の人が紙に書き残したからこそ、今に「生きた証」が残っているし、それのおかげで今日まで自分たちが生きるために必要な研究が進んでいく、娯楽が発展していくのである。
残すなら映像、肉声でよい?
確かにいいとは思う。けれど、昨今のリテラシーだのコンプラだの僕はそれを気にするのが正直めんどくさい。(創作などを行う上では必須のことなのだが。)
自分のお気持ち表明にそんな心配事増やしてたまるかと思うので、(もちろん気にしなければいけないことは気にしている。)僕は文字で日々のお気持ちを表明し続けている。
そもそも僕は日記をノートに書いていた、今も時々、一日の終わりにノートに日記を書いている。
始まりは単純なもので、浪人の頃。
古文というものを改めて考えたときに、日記が未来人の問題になるってスゲーって思ったので、きっと僕の日記も千年後には古文問題に入るという根拠のない自信があったので、日記を書き始めた。
一年間書いて、半年書かなくて、また半年書いていたり。そんな不安定な日記への書き込みが増えていった。
しかしなぜ半年も期間が空いたりするのだろう。
それは日記を記すことを夜寝る前に行っていたからだ。
一日の終わりに良い振り返りとなっていたし、浪人の頃はそれでよかった。しかし、大学生活が始まって生活のリズムが変わって日記というものから離れたりしてしまった。時間を固定して書いていた、それが敗因だろう。書いていない日が出てくると無性に寂しくなる。そしてやめてしまった。
今、就職活動を行なっている(もう終わりかけ)中で、「自分」を考えることが増えた。そこから些細なことでもスマホにメモを取るようになった。他にもアイデアが欲しかったので直感的に思ったことはメモを取るようになった。
メモは電車の中で、車の中で、授業中に、面接待合時間の合間にと数秒開けば10文字ほど書くことができるので常に自分の考えを保存できる。
ではなぜ日記で止まらせないのだろうか。
それは誰かが自分を見てくれているということにある。
日記であるのならば自分のお気持ち表明は自分の中で完結してしまう。そうなると積み重なったページを見て自己満足に浸るだけになってしまう。
そうして満足感故にやめてしまうのではないかと考えた。
なのでnoteというものに登録して記事として自分のお気持ち表明を行い、その行動を誰かに監視してもらう。自分の記事を見てくれた人は僕の考えに触れることができるし、自分はそれをインプレッションで確認し、誰かに見られていると知覚し記事を書き続ける。win-win?なのである。
そこで「共感」を受けたならばもうそれはそれで飛び上がるほど嬉しい。(承認欲求の化け物なので。)
しかし、記事を見に来てもらうのに、もしやめてしまっていて、最後の記事が一年も前だと悲しい。少なくとも自分はそうだ。
常に書き続け、常に更新し続ける自分に会ってもらう。そうでありたい。
過去の自分と矛盾してしまうかもしれない……
その時はその時で、考えよう。
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