見出し画像

三角を三方良しで丸め込む これぞ正しく神の業なり

※短編小説です。
 縦読みが好きな方はこちら→クリック

神 業

 北関東A県とB県の県境にこの神社はあった。人家も疎らなうっそうとした森の中にある。都心から公共交通機関を使うと、JRと私鉄を乗り継ぎ、1時間に1本というバスに揺られて、合計所要時間約2時間半でようやく辿り着く。新幹線『のぞみ』でなら、東京から大阪まで行けてしまう。
 そんな辺鄙なところにありながら、この神社にはひっきりなしに参拝客が訪れる。なぜなら、ここは全国的に有名な縁切り縁結びの神社であったからだ。特に縁切りが得意と言われ、ここで切れぬ縁は、どこの神社仏閣でも切れぬと噂されるほどであった。
 今日もまた、真剣な固い決意を秘めた眼差しの男が一人、神社の鳥居を見上げていた。逡巡するように目が僅かに泳ぐ。一瞬、視線を鳥居から逸らして己の足元を見る。が、すぐに意を決したかのように面を上げ、鳥居の内へと足を踏み出した。
 
 男が鳥居を見上げていたとき、鳥居の内側では、二人の女が一人はビームを発しそうなぐらい目をひんむき、もう一人は口を噛みしめんばかりに固く結び、必死の形相で絵馬に願いを綴っていた。
 目をひんむき絵馬に向かっていたOL風の女は、荒い息でマジックペンを握りしめ、ギリギリと音がしそうな筆圧で字を書いていく。
《高木さんと奥さんの縁を切って下さい》
 口を固く結んで絵馬に挑んでいた中流マダム風の女は、髪の毛が被さるぐらいに絵馬に近づき、若干震える手で一字一字、願いを書き綴る。
《夫と不倫相手の縁が切れますように》
 
 書きながらOL風は思う。
(本当は奥さんに)
 中流マダム風は思う。
(本当は不倫相手が)
 死んでくれてもいいんだけれど……と。だが、それは願えない。願ってはならない。
 
 この神社での祈願には、絶対守るべき決まりがあった。絵馬に願いを記入する記帳台は、祈願者が多いため横に長く3メートルほどあるが――それでも休日などには行列ができることもある――その台の前にその『掟』が大書されている。
 ――決して他人の不幸や不運を祈願してはならない。
 もし、それを無視して他人の不幸不運を願えば、それは祈願者自身に呪い返しのように跳ね返ってくると言われている。
 ネットには、その証とばかりに、まことしやかな書き込みが散見される。
《嫌いな姑と縁を切りたいが、姑の財産は欲しいって嫁が、『姑がこの世と縁が切れますように』と祈願したら、確かに姑は死んだが、その後の墓参りで滑って転んで墓石に頭ぶつけて、自分もこの世と縁が切れたって話ある》
《死んだやつからどうやって話聞いたんだ。イタコかw》
《事情を知る親族からだよ》
《姑がこの世と縁が切れて、姑の財産と自分が縁を結べますようにって願えば良かったんじゃない》
《それこそ、他人の不幸不運を前提とした我欲ばかりの幸せを願っているわけだから、ルール違反だよね》
 とか。
《上司が左遷されて、この部署と縁切りしろと願ったら、自分も左遷された》
《金持ちマウントしてくる友人が金と縁が切れろと願ったら、友人の親が事業失敗して貧乏になった。そしたら、今度は「金がないから」とやたらとたかってくるようになった》
《美人を鼻にかける知人女のイケメン彼氏を奪いたくて、女がイケメンと縁切りして、復縁防止のために不細工と縁づいて嫁に行け、そしてイケメン彼氏と自分の縁が結ばれるようにと念入りに願ったところ、知人女は不細工だが資産家の男のところに玉の輿、自分は上手いことイケメンと付き合うことになった。が、この男が浮気するわ、ギャンブル好きだわ、挙句、怠け者で無職になって、自分のところに転がり込んでヒモ生活しだすわで、とんでもねぇクズ男だった》
 とか。
 真偽のほどは不明だが、胸の悪くなるようなエピソードがわんさか出てくる。
 
 そして、OL風の女は絵馬に付け加える。
《別れた奥さんが幸せになれますように》
 中流マダム風の女も書き加える。
《相手の方に新しい良縁がありますように》
 完璧だ。書き終えた二人は、いからせた肩を少しばかり緩める。
 これまたネットの噂では、祈願の絵馬には、例え憎しみしかなくても、縁切り相手の幸福を体裁だけで良いから書いておくと願いが通りやすいとされている。

 二人の女は同時に顔を上げ、絵馬掛所へ向かってじゃりっと玉砂利の道に一歩踏み出した。そこに、記帳台めがけて、白黒の人間大の巨大なボウリングボールのようなものが二人の女の間に転がって来て、二人はピンのように吹っ飛ばされた。OL風は、よろめいて転びそうになったものの何とか踏みとどまったが、マダム風はバランスを崩して玉砂利の海にダイブした。
「あっ」
 手に持っていたバックが飛び、パンプスの片方が脱げる。だが、彼女は絵馬だけは決して離さなかった。
 飛んだバックは、OL風の女のちょうど足元に落ちた。OL風はバックを拾い上げ、
「だ、大丈夫ですか」
 悲惨な状況のマダム風を助け起こした。
「ありがとうございます」
「ひどいですね」
 OL風は、記帳台に張り付いている日傘を差した小太りの人物の背中をちらりと見て言う。二人を吹っ飛ばしたボウリングボールは、ゴスロリファッションの少女……ではなく、中年と思しき女だった。

 絵馬掛所は、祈願者の絵馬ですし詰め状態だった。本日は月曜日。二人とも、平日だから参拝者が少ないかと踏んで、OL風は有給を取得し、マダム風は出勤した亭主の留守の合間にと、今日を選んだのだが、昨日の日曜日に参拝者が詰めかけたのか、思わぬ所が混雑していた。
「あ、このあたり空いてますよ」
 ちょうど2つほど引っ掛けられそうな空間を見つけたマダム風がOL風に声をかける。
「わぁ、ほんとだ。ありがとうございます」
 ニッコリと微笑み合う二人。
(いい人だな)
 同時に二人とも心の中で呟く。
 二人がいざ絵馬を掛けんというところで、突然、白黒の丸い物体がまたしても二人の間に割り込んできた。その物体が持つ日傘の先がOL風の顔面を襲った。
「危ない」
 マダム風が日傘を引っ張って、OL風の危機を救う。白黒の物体――件の中年ゴスロリがキッとマダム風を睨んだが、そこに
「あなたね、日傘危ないから」
 気が付いた掃除中の神職の声が刺さる。
 ゴスロリは「ふん」と日傘を振って、両脇の二人の女から少しばかり離したが、今度は、後を歩いていた女子大生風を串刺しにしそうになった。
「閉じてください」
 先ほどよりキツい口調で神職が命じた。
 渋々といった態でゴスロリが日傘を閉じている隙に、二人の女は素早く絵馬を掛けた。そして、微笑んで顔を見合わせると、すぐさまその場を離れる。背後からゴスロリの舌打ちが聞こえてきたが、知ったことではない。

 笑みの残った顔を二人の女が正面に向けて、さて帰ろうかとしたところで、二人の足が同時に止まった。
「っ!」
 二人同時に息を呑む。
「あなた……」
「高木さん……」
 重なった呟きに、女たちは、はっとして顔を見合わせる。
「君たち……どうしてここに」
 女たちの目の前には一人の男が呆然と立っていた。鳥居を見上げ逡巡していた男である。
 二人の女と一人の男は、石像のようにその場に固まる。口だけが無意識にパクパクと動くが、何らの音を発することすらできない。
(ここに来たってことは、どちらかと別れたいってことなの)
 二人の女の脳内に同じ考えが浮かぶ。
(一体、どっちと……)
 マダム風の顔に脂汗が滲み、OL風の背中を冷や汗が流れた。

 
 夫の不倫を知ったのは、偶然だった。予想外だった。
 ここのところ、夫の表情が微妙に暗い。何かあったかとそれとなく尋ねると、固い表情で「ちょっと疲れてるかな」と目を合わせずに答える。
 最近、帰りが遅くなったし、出張も増えた。
「忙しいの?」
 と問えば、目を泳がせて「ちょっとね」とだけ答える。
 怪しい。隠れて借金でもしたのだろうか。ギャンブルか。そういうことには手を出しそうにない性格だが、投資に失敗して、それをパチンコや競馬で取り返そうと外出しているとか。
 そう言えば、休日もジムに行くと言って出掛けて、なかなか帰って来ない。疲れているならジムを休めばと言うと
「だって、痩せないと」
 苦笑いする。そもそも私が太って結婚指輪も入らなくなった夫に、メタボ、メタボ。痩せろ、痩せろと言い続けたからジム通いを始めたのだった。強くは言えない。
(まさか)
 実は、仕事で何かやらかして会社を首になって、密かに再就職活動しているとか。収入が途絶えたのが家族にバレないように、パチンコでせっせと日銭を稼いで誤魔化しているなんて話をどこかで読んだ気がする。昔のワイドショー番組で見たのだったろうか。
 心配になり、何か手がかりがないかと、夫の入浴中にスマホを盗み見た。
 そして、不倫を見つけた。
 ショックだった。血の気が引くとか、心臓が止まりそうになるとか、目の前が真っ暗になるとかいうのは、こういうことかと知った。手が震えてスマホを取り落としそうになった。
 怒りなのか、悲しいのか、惨めなのか。判別がつかない感情の嵐に揉まれながらも、自分で自分をなだめて、メッセージアプリに延々と羅列されている不倫相手と夫との遣り取りを追う。
 そして、わかったことは、相手は会社の同僚か部下らしいということ。そして、文面から夫の方の受け答えが受け身的であること。
(あの人、流されてるんだわ)
 不倫相手の方が積極的で、夫はそうでもなさそうだ。きっと、夫をそれとなく狙っていた女に仕事の相談でもされているうちに、なし崩し的に寝技に持って行かれたのか。
(優しさにつけ込まれたのか。あの人、優柔不断なところもあるからねぇ)
 ここは、騒ぎ立てるより、静かに女との関係を断たせることを考えた方が良いと妻は判断した。
 とは言うものの、一体どうしたらいいのか。
「あっ」
 先日、買物途中に入ったカフェの隣席に座っていたギャル風の二人連れから聞こえてきた話を思い出した。
 腰浅マイクロミニなショートパンツのギャルが貧乏揺すりしながら、なかなか切れなかった元カレとの縁を有名な縁切り神社で切ったというのだ。
「着拒したら、駅で待ち伏せされてさぁ、参った」
「それ、もうストーカーじゃね?」
 向いの席で小さな手鏡を手に前髪をやたらと気にながらツレのギャルが応えた。
「あー、縁切りてぇって、ネットでだらだら適当に検索してたら」
 縁切り神社のことが引っ掛かってきたのだという。
「そしたら、びっくり。ぶっつり切れた。ヤツ、いろいろやらかしてたじゃん。それで、遠洋漁業の船に乗せられて、今、インドだかアフリカだかの海の上らしい。無事、帰れるでしょうか~」
「わらw。ざまみろじゃね?」
 その男、彼女らの口ぶりから現代版蟹工船のような状況にあるらしい。悲惨。でもまあ、自業自得とでも言いたくなるような男だったんだろう。
「ギンガホウコウってやつぅ」
 ギャルたちがゲラゲラと笑う。それ、因果応報な。

 そう。それだ。縁切り神社だ。品行方正には見えないギャルにご利益があるなら、正しく妻である自分にご利益がないはずがない。
 冷静に考えれば、神頼みなんて胡散臭すぎるけれど、でも、もしかしてもしかしたら――。

 
 まさか既婚者だったなんて、思いもしなかった。指輪もしていなかったし、奥さんの話なんて会社でも、これっぽっちもしていなかった。
 彼のことは、部署が隣だったから、顔は以前から知っていた。「おはようございます」「お疲れ様です」程度の挨拶を交わすぐらいの、浅いどころか薄い関係だった。
 前カレと別れてから自堕落になってきた生活をあらためようと入ったジムで、彼とばったり出くわした。あちらも入会したばかりで
「最近、太っちゃって」
 そう言って恥ずかしそうに彼は頭を掻いた。トレーニングのあと、自販機で飲み物を買っていると、彼もやって来た。近くのベンチに座ってしばらく世間話をした。ちょっと楽しかった。
 それから、偶然にもジムで顔を合わせることが多くなって、交わす言葉も話す質も量も増えていって、話をする場所も自販機の前からジム近くのカフェになり、居酒屋になり、ほどなく彼女の行きつけのバーになった。彼は優しかった。彼女を理解してくれた。
「君は感情が豊かなんだね」
 と彼は、彼女の性格をポジティブに評してくれた。前カレは、この感情のメリハリのある性格を情緒不安定と言い放ち、「もう、付き合ってられない」と去って行ったから、彼女の自尊心はひどく傷ついていた。彼の言葉は、それを癒やしてくれた。
 指輪をしているかどうかは、早い時期に確認した。だから、バーに立ち寄った帰り道に、「今度、家飲みしませんか」と言いながら、通り掛かったラブホの前で立ち止まってみた。
「カレシできた。結婚してもいいかなって思ってる」
 親しい友人には、そう告げた。ちょっと太めだけれど気になるほどではないし、会社での真面目な仕事ぶりも目にしているし、彼とは堅実な家庭を築けそうに思った。
 と、こ、ろ、が。
 支店勤務の彼と同期の女性社員がたまた近くで打ち合わせがあったからと、顔を見せた。彼の指を見て
「あれ? 指輪……」
 言った後に、彼女はしまったという顔をしたが、
「離婚してないよ。太っちゃって、結婚指輪が入らなくなって」
 偶然、耳に入った会話に、キーボードを叩く指が止まった。キーンと耳鳴りがした。手脚が冷えていく。なのに背中を嫌な汗が流れる。
「君は、良い奥さんになりそうだね」
 わたしの手料理を食べて、そう言ったじゃない。
「君は本当に楽しくて、飽きない人だね」
 悲しいドラマを見て涙ぐみ、ひいきのサッカーチームの試合に絶叫し、おいしい料理やお酒に大喜びするわたしを感情が豊かで良いことだと認めてくれたじゃない。
 ショーウィンドウのウェディングドレスを眺めるわたしに「君に似合いそうだね。見てみたい」と囁いたじゃない。それって、遠回しのプロポーズかと思うじゃない。少なくとも、結婚を意識してるって思うじゃない。
 それが、既婚者? 妻帯者? 
「ああ、びっくりした。じゃあ、夫婦仲はバッチリ?」
 茶化して言う同期女性に、彼は「まあ……」と困ったような苦笑いをした。
「!」
 あれ? もしかして、上手くいってないのかな。そうよね。わたしがいるもんね。でも、何でわたしに黙っていたの? きっと、わたしと付合い始める前から上手くいってなかったんだ。離婚したいのに奥さんが渋っていて、困ってるんだ。
 どうしたらいいだろう。奥さんさえ別れてくれれば……。
 悩み疲れていたある日、憂さ晴らしにスイーツのやけ食いでもしようかとデパ地下をうろついていて、フロアの一角にある占いコーナーが目についた。ふらふらと誘われるように入った。
 タロットカードをめくって並べ、占い師が言った。
「……縁切り神社に行くことね。そうすれば、奥さんが離婚に応じてくれるわ」
 きれいだが、抽象的すぎるカードのどこをどう見てそういう判断が出てきたのかわからない。適当なことを言ってるだけかも知れない。が、占い師が教えてくれた縁切り神社をネットで検索してみると、効果あったと言う記事や書き込みがわんさか出てくる。 
 神頼みなんて、せいぜい気休めにしかならないだろうけど、万が一にでもご利益ってものがあるのなら――。

 そうして、決死の思いで訪れた縁切り神社でのまさかの巡り会い。

 無言。無音。微動だもしない三人。メドゥーサにでも出会ったようだ。
 三竦(すく)みが発生してから約30秒後、マダム風の金縛りがまずは解けた。瞬きを一つ二つして、震える声でようやく夫に問い質す。
「あなた、仕事は?」
 今朝も夫は、愛用のカバンを提げて出勤したはずだ。
「……」
 男は目を泳がせる。
「休んだの?」
 妻の再びの問いに
「……辞めた」
 己の足元に目を落とし、ぼそりと言った。
「ええっ! いつ?」
 横からOL風がすっとんきょうな声を上げた。
「半月前に辞表を提出した。君は、部署が違うから知りにくかったろう」
 つい一月前、OL風は、男とは仕事の関わりのない、フロアも違う部署に異動になっていたから、男の動向がわかりにくかったのだ。
 妻が男に尋ねる。
「それって、もしかして彼女と別れるためなの?」
 不倫相手と別れて欲しくはあったが、会社まで辞めるとは。妻は、何とも複雑な表情だ。
 一方の不倫相手のOL風は、青ざめている。血の気がすっかり顔から引いている。
「ど、どうして……先週もゴハンして飲みに行ったよね? 明日から出張だからって、すぐ帰っちゃったけど、その出張って、引き継ぎの挨拶だったってこと……」
「そうだ」
 低い声で肯定する男。
「会社を辞めてまで、私と別れたかったの? 結局、遊びだったの? 欺してたの? 私を捨てて、奥さんを選ぶのね」
 不倫相手の目がみるみる潤んでいく。
「いや、違う」
 相変わらず、足元を見つめたまま、だが、きっぱりと男が否定した。
「えっ」
 今度は、妻が衝撃を受ける。
「じゃあ……私と離婚して、彼女と再婚するってこと?」
「いや、それも違う」
 女二人が揃って息を呑んだ。
「ま、まさか第三の女が……」
 妻が声を震わせる。
「うそ。ねぇ、それ、ホントなの?」
 男がうなだれた首を激しく振る。
「違う、違う、違う!」
「それって、このままの状態をずっとキープしたいってこと? 奥さんとは離婚せず、私ともこのままの関係を続けていきたいわけ?」
「じゃあ、何で縁切り神社に来たのよ」
 妻がずばり核心を突いてきた。
「お、俺は……全部やり直したいんだ」
 男が顔を上げた。妻に向かって
「お前とは離婚する」
 不倫相手に向かって
「君とも別れる」
 そして、二人を代わる代わる見て
「第三の女なんていない」
「「じゃあ、何で!」」
 女たちが絶叫した。
「俺は……俺は……出家するんだ!」
 絶叫で開いた口をそのままに、女二人は動きも思考も停止した。
「い、いや、いや、いや、出家するからって離婚しなくても……お坊さん、ほとんど結婚してるし。普通に結婚してるし」
 少しばかりOL風より年嵩のマダム風が年の功ばかりに、先に呪縛を解いた。OL風がそれにカクカクとぎこちなく頷く。そして
「離婚したって、再婚しても問題ないし」
 ぼそりと付け加える。
「仏教の坊主になるんじゃない」
 男が今度はブンブンと手を振って否定する。
「え。じゃあ、神道? あ。あれは出家って言わないか」
 OL風が首を傾げ、マダム風が「ああ」と相槌を打った。
「俺は、カトリックの修道者になって、司祭になるんだ」
「はっ? それでなぜ離婚よ。結婚してんじゃない神父さんだって」
 声を裏返して、妻が苛立ちをぶつける。不倫相手は、とりあえずカクカクと頷く。
「それはプロテスタントの話だ。カトリックは、結婚が許されていない」
「え、マジ?」
 離れたところから叫びが聞こえた。その方向へ一斉に三人の首が向く。年齢不詳の日傘ゴスロリが慌てて口を押えた。
「もう、嫌になったんだ。流されるように結婚して、合わないと思いながら離婚することもできず、やっぱり流れで不倫することになって、いけないと思いながら別れることもできず」
 確かに夫は、この彼は、優柔不断なところがあると女二人は思った。
(でも、付き合おうって言ってきたのも、プロポーズしてきたのもはそっちだし)
(でも、ラブホの前で立ち止まったら、入ろうかって言ってきたのはそっちだし)
 その言い草は一方的すぎやしないかと、女二人は心中で呆れる。
「別れを切り出そうにも、ほんの少しにおわせただけで――」
 男は大きなため息を吐いた。
「無言で、射殺されそうな視線を寄越して圧してくるし」
 それは自分かと妻がドキリとする。
「泣くし、キレるし、愚痴りまくるし」
 不倫相手が今度はドキリとする。
「そうなると、相手のご機嫌をつい取ってしまう。嫌なのに、相手の機嫌を伺って、何も言い出せなくなる。俺の意思は、やんわりと示すこともできない」
 女たちの目が男から逸らされる。確かに不機嫌で、涙で、男を上手く――煮え切らない男の行動を、自分から離れていく男の心を、なだめて自分の側に良いように誘導して収めてきた気はする。認めたくはないが。
「そんな自分に嫌気がさしたんだ。女なんてもう懲り懲りだ。生身の人間なんて懲り懲りだ。この先の人生を神に仕えて過ごすんだ!」
 男は一気に捲し立てた。女たちは、気圧されて、もう何も言えない。
 一気に思いの丈をぶちまけて、すっきりした表情となった男は、最後に
「それから、プロテスタントは神父じゃなくて、牧師だ」
 そう訂正した。黙り込んだ三人の間に、妙に爽やかにさわさわと風が流れた。
 
 三つ巴の修羅場の、想定外の展開に気圧され、騒動を注意することすら忘れて、ただ呆然と見聞きしていた掃除中の神職の口がようように動いた。
「カトリックって……それで神社に祈願かよ……」
 その真底の呟きに、日傘ゴスロリとその他境内にいた参拝者全員が唱和するように首肯した。

 
 衝撃の縁切り神社三竦み事件から1年近くが経った。
 金曜日の夜、一風呂浴びてさっぱりしたところに、電話の着信があった。スマホの表示を見て相手を確認すると、すぐに応答する。
「どうですか。お仕事」
「おかげさまで、正社員になれそう」
 元夫、高木の元不倫相手からだった。高木の元妻が現在、契約社員として働いているイベント会社は、元不倫相手が勧めてくれた人材紹介会社を通じて見つかったものだ。契約満了の時期が近づいた先日、来期から正社員にならないかと打診されたのだ。
「そっちはどう?」
「順調です。仕事もプライベートも」
 ふふふ……と意味ありげに彼女は笑って
「今度の日曜日、両親の顔合わせです」
 元不倫相手は、元妻から彼女の趣味に合うイベントや婚活パーティの情報を提供してもらっていた。そこで、条件も相性もばっちり一致する男性と出会ったのだ。
「興味あった日本酒イベントに来ていた人と、婚活パーティーでまた会うなんてね」
「良かった。幸せになってね」
 元妻が心から祝福すると、元不倫相手が
「結婚式の二次会には、来て下さいね。彼の周りは、なかなか良物件な独身男性多いんで」
「絶対、行くわ。そうそう、風の便りで、あの人も願いどおりに神様にお仕えする日々を平穏に送ってるらしいわ。最初はホント、ただただパニックだったけど、何だかんだで三方丸く収まったわよね」
 元妻の苦笑に、元不倫相手も苦笑を返す。
「もう、『三方良し!』の近江商人かっての、神様なのに」
「いやいや、あんな想定外、正しく神業ってやつでしょ」

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?