見出し画像

短編小説「雪片」下

本作は小説制作の練習として、藤沢周平さんの作品「冬の日」を模作したもの下巻です。
江戸の町を舞台とした恋愛小説です。下も上と同じく6000文字近くですので10分程で読めると思います。

上のリンクは以下へ

降ってほしい時に、降ってくれるならば
人はそれを雪とは言わない。


余村はそれから半月近くも、衣澄のいる店に行けなかった。

商売の不安が的中したのだ。


 三島屋は約束どおり、品物を入れてくれていたのだが、依頼品の二割ほどが入ったあたりで、金を請求してきた。

「あのう、そろそろ前払い金を頂戴していただかないと、手前もいろいろとございまして………」

 店まで来て藤吉という馴染みの手代がそう言った。まだ若いがしっかりとした男である。

「何の話だ、藤吉さん。前払い金はとうに払ってあるよ」

「払った?誰に?」

「誰にって、番頭の小峠さんにだよ」

藤吉は、えっと言い顔色を変えた。


「それ、いつの話でございますか?」

「五日前だ。場所は小梅屋さんのところで。番頭さん、そこに用事があったんだろ?」

「………」

「領収書も書いてもらっているよ、見せようか」

「はい、おねがいします」

余村が前払い金の領収書を見せると、藤吉はどんどん顔をしかめていく。


「余村さんすみませんが、わたしと三島屋まで来てもらえませんか」

「そりゃかまわないけど、何があったんだ」

「小峠さんが………」

「小峠さんが、どうかしたのか?」

「今、行方知れずなのです」

藤吉は口を袖でおおうようにし、小声でそう言った。


どうやら、三島屋の番頭である小峠は、どう魔がさしたのかは分からないが、店の金を使い込んで、姿をくらましたらしい。そのとばっちりが、余村にまで及んでしまったようだ。


 たしかに小峠の行動に怪しい点は、いくつかあった。用心深く動かなかった、余村も行けなかったのかもしれない。



「暮れの商いまでに間に合うよう、注文の品は届けます。ただ、やはり金額の半分はいただかないと、こちらも商売が成り立ちません」

自分らの責任もございますからね、と三島屋の主人はそういってくれた。支払いの時期は、年が明けてからでもかまわないとのことだ。

余村は、とりあえず手持ちの二両を払い、そこでいったん三島屋とは手を打った。相変わらず世の中は甘くなかった。



そのような騒動があり、衣澄の居酒屋をたずねるのに、時間がかかってしまった。

その日は雪は降っていないものの、やはり冷え冷えとしていた。行ってみると、衣澄の姿はなく、知らない女性が酒を運んでいた。


酔客が帰り、店が静かになるまで時間がかかった。

「ちょっと、聞きたいんですが」

ようやく調理場にいる、声がつぶれたおかみに話しかける。

「この前いた、あの声のきれいな姐さんはいないんですか?」

「きれいな声?」

「落ち着いた静かな声の………」

「衣澄のことかい」

声がつぶれたおかみは、はっきりと衣澄と言った。やはり衣澄なのだ。余村は、胸が躍るのを自分でもはっきり感じた。


「衣澄さんと言うのですね」

「そうだけど、今日はお休みさ。ここのところ、ずっと休んでいるんだ」

「ずっと?風邪でもこじらせているのでしょうか」

「いや」

おかみは、そう言うとじろじろと見つめてきて、若い女に調理場をたのむと、余村の近くに来た。


「わたしは、むかし衣澄さんの家に奉公していたものです。但馬屋さんには母ともどもお世話になった身分でございます」

「そうかい」

おかみは、ふぅとため息を吐くと言葉をつづける。

「男だよ………」

余村は視線をあわせず、手にしている盃を台に戻した。

「衣澄も男運のわるい女なのかね。今は、このへんのやくざ者と一緒にいるんだけど、そいつが時どき衣澄を殴るんだよ」


(殴る?)

余村の胸が、むかつきをおこしているように気分が悪くなっていく。

「………殴るんですか?」

「稼ぎがわるいとか因縁をふっかけているらしいんだけど、つまりそいつは衣澄に身体を売らせたいわけ。うちは普通の居酒屋だからね。それで、殴られるらしいんだけど、そのあと必ず休むんだ」

「………」


「本人は黙っているけどさ、店に来ると顔があざになってたりする。だからすぐにわかるんだよ」

「なんでそんな男と一緒にいるんです?」

「あたしもさ、別れろと言っているんだけど………」

おかみは、またため息を吐く。


「あの子ももう、諦めちゃったんじゃないかな。男がはなさないのかもしれないけど」

おかみはそう言い、目を細めると視線をあわせた。それはわずかな時間だったが、その視線は、余村の気持ちを確かに揺らした。





 居酒屋のおかみに聞いて、たどり着いた衣澄のちいさな家は、三十三間堂裏にあった。


「来てくれなくて、よかったのに………」

静かな声が、今日は少し濁っている。

俺が見たところ、おかみの読みとは違い、衣澄は本当に風邪をひいているようだ。顔色が良くなく、時どき咳をしている。殴られたような跡はなく、とりあえず安心した。

「来てくれなくていいって、どうしてだい?」

「どうしてって」

衣澄は天井を見上げながら言った。


「私も、すっかり変わってしまいましたから。知ってる人に会いたくないんです」

「俺だって、変わったぜ。この間、そう思って俺を見てたんじゃないのか」

聡明そうな目つきは相変わらずだが、その奥にある力は弱く感じられる。小さな唇は乾燥でひび割れ、頬骨が突き出てみえる。

(これじゃあ、俺がたずねてきても嬉しくはないか)


「余村さんは、玉屋さんで出世したって聞きましたよ」

「玉屋か、懐かしいな。あそこもつぶれちゃったよ」

「そうなのですか」

「旦那が、高利の金を借りていたんだ。最後は金貸しにむしり取られちまった」


玉屋の旦那は何軒もの金貸しから借りていて、取り立ての男たちが店に来ては、乱暴にふるまった。

ある日俺は、そいつらが店のお嬢さんに嫌がらせをしてきたため、素手で全員を半殺しの目にあわせてやった。おかげで長い間牢に入れられたのだ。

 とりあえず、このことは言わずに話をつづけた。


「そうか衣澄も、大変だったね。俺も苦労したんだぜ。玉屋さんがああなってからは、古着屋の行商をやってきたんだ、十年以上もな」

「………」

「それが、ようやく自分の店を持てるようになったんだ。小さい店だが、いま品物を入れている所さ」

「やっぱり、そうだったんですね」

衣澄は、うつむいたまま小さな唇をほころばせるように笑った。


「余村さんだと、すぐにわかりましたよ。あの日、どこか幸せそうだったから。だから、声をかけられなかったんです」

「幸せ?そんなものかな。まだまだ、先の見通しは厳しいぜ」

俺は、笑いながら店の話をして、場所などを教え、一度あそびにこいと伝えた。それから、すこし表情をきつくした。


「変なのと一緒にいるらしいじゃないか」

「………」

「ゆうべ、おかみに聞いたんだ。余計なお節介かもしれないが、衣澄………。あんた身体がつづかないぜ」

「………」

「それとも、なんだ?そいつに惚れているのか?」

衣澄は顔をしかめて、首を振った。

「よしてください。あんなのは女にたかるダニにすぎません」

「そんなら、悪いことにならないうちに、ここから逃げ出すんだ。なんでも相談にのるぜ」

俺は低い声で話をつづける。


「ありがと」

衣澄は、そういったものの、うつむいた顔には、卑下するような笑いがあった。

「でもね、余村さん。余村さんは何も知らないんです」

俺を刺すような眼でチラリとながめると、ふうっと小さな唇をとがらせた。

「あたしはいっぺん売られて、それで、余村さんもしらない世界にいた女なんですよ」

「………」


「但馬屋の衣澄だった過去は、もう忘れてしまいました」

衣澄は吐き捨てるようにそういうと、何かに感づいたような気配をみせた。

「だから、もうかまわないでください。余村さんのご迷惑になりますから」

俺は、一瞬で体の中を走る血の温度が熱くなっていくのを感じた。

「かまわないでって、そういう訳には」

「あっ」


衣澄が声をあげた後、一人の男がぬらりと玄関にあらわれた。まだ三十前といった若い男だ。ひげも剃らずに伸ばし放題、だらしなく上着をはおった恰好は、まさにやくざ者だ。

「おい衣澄、誰と会ってんだ」

やくざ者はそういって衣澄を睨みつける。


 余村は急に背筋を丸くし、わざとらしく愛想のある声を出した。

「あ、いえ。姉さんが、こちらで客を取っているって聞いたもんで………、あのう」

ふっ、とやくざ者の態度がゆるんだ。

「金の用意をして、また遊びに来ますね。お邪魔いたしやした」

俺は男の脇から、そそくさと外に逃げ出した。


 玄関を出てから少し歩き、家の角に隠れて耳をすます。路地には人通りもなく、しんとした軒先に冬の冷たい空気がたまっている。相変わらず、空はくもっており射し込んでくる光も弱弱しい。

 やがて、家の中から男の怒鳴り声と、衣澄のくすんだような泣き声が聞こえて来た。おかみの言っていたことは間違いなさそうだ。
 俺は頭に血がのぼらぬよう、心の中で数を一から十までゆっくりとかずえ、深呼吸をいくつかくりかえす。しかし、こらえきれず、あしが勝手に走り出した。


玄関をあけると、茶の間に土足であがりこんだ。衣澄が馬乗りでやくざ者から殴られている。男の襟をつかんで、彼女から引きはがした。

「何だ、てめは」

男が、のろのろと立ち上がってくるのが見える。

俺の足元から狂気のような怒りが湧き上がってくる。足をはらって、再び倒し、何度もなぐりつけた。俺は必死に手加減を加えようと努力した。

体中の血が燃えたぎっている、なにより衣澄をひどい目にあわせた、こいつを許せなかった。


「おめえがこのへんのやくざ者でも、連雀町、竹岡道場の余村信龍って名前は聞いたことがあるだろう?」

「ああっ、よ、余村しんりゅう………、あの事件の、うっ、うわあ」

 かつて玉屋に奉公していた時、借金の取り立てにきた腕利きのならず者達を、たったひとりで半殺しの目にあわせた事件。いまでも、この世界では伝説になっていた。

男は真っ青になり、震え出す。


「衣澄さまは、かつて俺の仕えた店の一人娘だ」

胸倉をつかんで男を立ち上がらせると、もう一撃、手加減した拳を顔にぶち込んだ。

「お嬢さまに触れてみろ、ただじゃおかねえ」

男は腰を抜かしたのか、壁に寄りかかりガタガタとおびえている。


「二度と、衣澄さまに近づくんじゃねえ。今日は殺さないでおいてやる。俺の気が変わらぬうちに出ていきやがれ」
怒りにまかせて柱をなぐりつけると、ゴググッと音を立てて家全体が揺れた。

動けないでいる男の腰を、ポンと軽くたたく。足腰に力が入るようになったのか、男は立ち上がり、全力で逃げ出していった。


 部屋を見渡す。衣澄はどこかに逃げたのだろうか、姿がみえない。

(ああ、やっちまったな)

 かつて玉屋で自分が起こした事件を思い出す。たとえ、相手がどんな悪人だろうと、力で叩きのめすのは、最低な気分だ。

ゆっくりと玄関から路地に出て上を見上げると、やはり外は灰色の空だ。子供のころから思っていたんだが、冬の空は、低く、重たい。

 

(俺の過去も、衣澄にバレちまったかな)

何より、心に重くのしかかるのは、衣澄の前で俺の暴力的な性分を見せてしまったことだ。

(せっかく、また会えたのに………)

遠い昔、鼻血を出して倒れている俺におびえていた衣澄の顔を、鮮明に思いだしてしまった。


 重なりそうで、重ならない。距離が、遠い。俺と彼女の縁は、結局そういうものだったのだ。

意識して足早に路地を歩き、衣澄のすむ場所から遠ざかった。





「ごめんください」

衣澄が、俺の店先にひょっこりと姿をあらわしたのは、大みそかまであと数日の日だった。

仕入れもある程度おわって、数日前から店をあけていた。古着を店のなかに吊り、外に並べる品を選んでいる時だった。俺は慌てて、衣澄の静かな声のしたほうへ駆け寄った。

 地味な恰好をした衣澄が立っていた。そのような恰好でも、衣澄の容姿は声と同様に、整った静かな佇まいをもっている。


「や、やあ。どういう風の吹き回しかな」

 俺は、嬉しさと動揺をさとられぬ様に、必死に照れ笑いをしてみせた。

「衣澄………。あんたとは、もう会えないかと思っていたよ」

「どうして?ですか」

「ちょっと、恰好わるい姿、見せちまったから。あん時は、頭に血がのぼって」

クスリと衣澄が笑った。今日は薄く化粧をしていて、元々の整った美しさを際立たせていた。今の彼女の持つ、はかない雰囲気もひとつの色気をつくりだしており、俺はそわそわしてしまう。


「寒いから、中に入れよ。お茶くらい出せるから」

日もかなり傾いてきており、また薄暗い雲が低く重なっている。一段と力のある冷気も、風にまざりつつある。遠くの山には、もう雪が積みはじめていた。


衣澄は首をよこに振って、しばらく黙っていた。

「いらっしゃるんでしょう?」

「いるって、誰が?」

「おかみさんか、だれか………」

「ああ、そんなのはいないよ。俺はひとり者だから」


「あら」

そういうと衣澄は片手で口元をおおった。そして、彼女の体が軽やかに弾んだように見えた。

「いや、その前に」

俺は、店のそとに出している古着を店にしまう事にした。今の時期は、あっという間に、夜になる。

 衣澄も手伝い、そとの品物を取り込むと、二人で茶の間に座った。


「ご商売は、いかがですか?」

自分でお茶をいれながら、衣澄が聞いてくる。ひとり者の俺の家は、がらんとして寒々しい。

「まだまだだね。行商時代のお得意さまが、ぼちぼち来る感じだ」

「でも、お天気がよければ、少しづつお客様もつくんじゃないかしら」

「そう願いたい。足を棒にして行商で歩き回るのは、もうごめんだ」

「辛かったんですね」

「あんたほどじゃないさ」


「………」

「すまね、余計なこと言っちまったな」


「ね、余村さん。親戚の家のかえりの道中。あの時も、ならず者から私を助けてくれたの、おぼえてますか?」

「ああ、あれも今くらいの時期だっけ。俺は、鼻血を見て泣いている、あんたの顔が忘れられないんだ」

「私もまだ、子供でしたから」

衣澄の顔を見る。今もどこか、あの時の不安そうな彼女の面影がある。


「余村さん、今回も、昔とまったく同じことを言うんですから」

「同じこと?」

「ええ、“お嬢さま”に触れてみろ、ただじゃおかねえ、って」

「そうだっけ」


はっとした。それから、申し訳なく思った。俺は、衣澄が会いに来てくれたことで、舞い上がっていたのだ。

「すまないな、お嬢さまとかって。つらい過去を思い出させちまった」

「その言葉、つらいですよ………」

あからさまではないものの、衣澄の顔に影が見えた。やるせない表情がよみとれてしまう。俺は昔から、このような状況が苦手なんだ。


「あっ、あれは照れ隠しでさ。お嬢様だから守るってのは、照れ隠しだ」

「………」

「俺の好いた女に手を出すな、ってさ。本当は、言いたかったんだ」

必死になり取り繕う。俺は、何を意味不明な事を言っているのか。


衣澄は、水を足してくると急須をもって台所にいった。そして、いつまで経っても戻ってこない。

 どうしたものかと、おそるおそる台所をのぞくと、衣澄はうずくまり両手で顔をおおって泣いていた。

「ああっ、衣澄」

 慌てて俺は彼女のよこに座って肩を抱き、思いきって声をかけた。


「嫌なら、ことわってくれてかまわないんだが、その、嫌でなかったら、この店を手伝ってくれると助かるんだ」

 ああ、俺は何を言っているんだ。さらに混乱してきた。

「………」

「できればずっと、衣澄がよければ、一生手伝ってほしいんだ。ひとりじゃ、心細いからな」

「………」


ごうっと外で風の強く吹く音がきこえた。俺は心をきめて立ち上がった。

「………ちがう、心細いんじゃない。ただ、俺は一生あんたを守りたいんだよ」


 衣澄も立ち上がって、力強く涙を拭いた。薄化粧がはがれていたが、俺が見たなかでは一番いい表情をしていた。手を伸ばし、衣澄を抱き寄せる。



俺は何かを感じると、衣澄を抱いたまま走るように外に出た。

「やはり、降り出したか」

 あの日と同じように、空からは無数の白い、雪が広がるように舞い降りてきている。

 天から、遠い日の記憶を戻すかのように、ふたりに降る大小の雪片。

 俺に触れる衣澄の体が、心地よくあたたかいものになってゆく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?