見出し画像

短編小説「雪片」上

本作は小説制作の練習として、藤沢周平さんの作品「冬の日」を模作したものです。
江戸の町を舞台とした恋愛小説です。上は6000文字近くですので10分程で読めると思います。



人は忘れてゆくのではない。

記憶というものを、体から切り離し、天へ返してゆくのだ。
温もりを持った二人のつながりをも、同じように。


師走もなかば、しんと冷たい江戸の町には、今日も天より無数の雪片が舞い降りていた。

余村がその居酒屋に入ったのは、提灯に書かれた酒の文字に目をひかれたからだ。冷えきった家に帰りつくには、独り者には、やや時間が早かった。

襖戸を開け中に入ると、思ったより広くはなく、先客もいなかった。ふたつの木のテーブル席とカウンターがあった。テーブル席は空いていたがカウンターに座った。

店内は暖炉によって、ほどよく暖められた空気があった。料理と酒から立ち上る湯気が、冷えた心を落ち着かせてくれる。

「お酒ですか?」
カウンターの端から女性店員の声が届く。じっとこちらを見つめている。
齢のころは四十あたりと言った感じだが、色白で端正な顔立ちであり、教養ある武家の娘のような賢そうな目つきだ。
その声は、外に舞い降る雪のように、しずかな声で胸のうちに入ってきた。遠い昔、どこかで聞いたような声だ。

「姐さん、酒だ。熱くしてくれ」
「熱燗お願いします、おっかさん」
「あいよ」
調理場のなかの女が答えたが、こちらは貫禄のあるつぶれた声だった。

「外、寒いですか?」
コトンと音を立て、平目の塩焼きを前にならべると、酒を注ぎながら女性は言った。立ったままだ。近くで見ると若い感じに見える、俺と同じくらい三十半ばだろうか。

「もう寒い、寒い。手足がつっぱってしまったよ」
合わせるように言葉をかえすが、俺は女性から不思議な視線を感じる。
気がある、という感じではない。
懐かしさとか、はかなさを持っている、と気づく。そして、それを隠している。どことなく、そんな気がする。
 しかし、そうだとしても何故。

「大根の煮つけ、たべる?あったかいよ」
「ああ、もらおうか」
女性は背を向け調理場のほうへ向かった。品のある後姿というのだろうか、そこいらの町人娘のせわしなく丸まった背中とはちがい、ゆったりとした美しさを感じる。

しずかな特徴のある声、何かを感じさせる視線、後ろ姿……。気になる女(ひと)だ。どこかで会ったことのある女かなと思い、記憶をたどってみるが、思いあたる節はない。

女性が気になったが、運ばれてきた酒は美味く、芯から体をあたためてくれた。外の寒さもあって、余計にうまく感じるのだろう。
「もう一本くれ」
ついつい注文してしまう。平目の塩焼きをつつきながら、人差し指を立てて女性にみせる。

女性が大根の煮つけと酒を運んできたところで、酒をすすめた。
「一杯やらないかね」
盃を目の高さにかかげて、表情を崩して視線をかわす。
「ありがと」
やはり、静かな声だ。

隣に座ると、女性は丁寧な所作で盃を受けた。
酒が運ばれる口元、その小さな唇をじっとみたとき、俺の記憶のどこかが揺れた。

「うまい酒だな」
盃を持つ自分の指に視線を移し、そう言う。
奇麗な指ですねと、女たちからよく言われる。しかし、隣にすわる女性は、おそらく今も俺の目を見ている。くいっ、と盃を飲み干すと、また視線をあわせた。

「そう、皆いい酒だって、言ってくださいますよ」
聡明な目つきは崩さずに口元だけで、微笑みかけてくる。
「肴もうまい。あんたも平目、食べなよ」
「あとで、いただきますわ」

「それにしても、客がいないね。まだ宵の口だけどさ」
「今日はいちだんと、寒いからでございましょう」
女性はすっと立って、お酒…ごちそうさまと言った。

突如、外でごうっと吹雪の音がした。
(こりゃ、やっぱり早目に引き上げるほうが良いのかもしれない)
俺はあわてて、大根の煮つけに箸をのばした。やはり熱くてうまい。

顔をあげると、カウンターの端にもどった女性が、柱に細い片腕をかけ、やはり立ったままこちらを見ていた。

しんとした空気が、かすかに外から入ってくる。連れられて、あわい記憶のかけらが、こころに降ってきそうだ。
 それでも、何かを思い出しそうで、思いだせない。

黒江町の河岸に出ると、風と雪片をまともに受けた。それでも、酒が入った体は熱くなっていて、芯まで冷やされることはなかった。

腕を組みながら橋を渡っていると、遊郭へむかっている小舟が下を通りすぎた。
(この雪が舞うなか、舟の上は冷いだろうな)
それでも、まだ六ツ半(午後七時)であり遊郭がにぎわうのはこれからだ。

(ま、俺は女遊びしてる暇はねえぞ)

余村は長い間、古着屋の行商をやっていた。それが、今年になって、ようやく自分の店を出せそうなのだ。
狭い店を一件、秋口に長堀長に借りた。これから帰る家だ。いよいよ、明日から荷が入る予定である。

(明日から、いよいよだが……、あの前払い金、大丈夫だろうな)
昼間、仕入先の古着問屋である三島屋の番頭・小峠に、前払いで仕入れ値の半額の十五両をわたしていた。
ふとした不安がよぎったのは、金を渡した場所が、三島屋ではなくて小料理茶屋の小梅屋だったからだ。
三島屋では、店主が病気で寝込んでおり、そのため番頭の小峠が、店に座るひまもなく動き回っていた。前払い金の受け渡し場所が、直接三島屋ではなかったのは、小峠が所用で小梅屋に用事があるからだという理由だった。

(小峠さんも相当に忙しいみたいだからな、店にいる時間もないのだろう)
余村は、納得のいく理由を考え不安を振り払った。

積もった雪の上に黒い足跡を残し、家路をいそぐ。
長堀町の河岸に出ると、風と雪がさらに正面から吹き付けてくる。漆黒の空から、無数の白い雪片がうすく体に重なり積もっていく。

 もうそこの角を曲がれば帰り着く、体に積もりつつある雪を振り落とすように左へと向きを変えたとき、余村はハッとした。
 闇のなかから、降りてくる雪とともに記憶が舞い戻った。さきほどの居酒屋の女性の名前が降ってきたのである。

―――衣澄(いずみ)?

 余村は歩みを止め、しばらくの間空を見上げ、つぎつぎと自分に向かってくる白い雪片を、呆然とながめていた。そうしていると、自分が上空の闇に吸い上げられていくような錯覚までおぼえた。
まるで、遠い記憶のなかへ連れ戻されてゆくように。

体に震えを感じると、急いで家に入った。間口二間の家で、入ると広い土間があり商売の空間がある。
急いで土間を抜け、茶の間に上がり火鉢をふかく掘り返すと、まだ赤い炭火が残っていた。手の平をかざすと、じわりと熱がつたわってくる。

―――そうか、衣澄か。

余村は心がやんわりと緩み、あたたかくなった気がした。外が吹雪の暗い夜でなかったのなら、今すぐ駆け戻りたいほどに、懐かしかった。

窓の木枠を少しずらしてから、余村は外を見上げた。
闇の中、遠い日の記憶を戻すかのように、白い雪が光を帯びて降り続けていた。

俺は子供のころ、浅草の西仲町に住んでいた。父親は物心つく前に病死したらしくて、母親と二人の長屋暮らしだった。
その母親が内職の仕事をもらっていたのが、但馬屋(たじまや)という履き物問屋で、衣澄(いずみ)はそこの一人娘だった。歳は俺より五つ下と記憶している。目鼻立ちの整った美人であった。

子供の頃の話だから、好きとか嫌いとか、恋愛感情みたいなものはなかった。

俺自身も時々、但馬屋に呼ばれては、使い走りとか掃除とかの雑用を頼まれていて、けっこう良い駄賃をもらっていて、まあ、親子ともども但馬屋には世話になっていたよ。

そんな俺でも、少し苦手な用ってものがあって、それが親戚の家に遊びにいった衣澄を迎えに行くことだったのさ。この仕事にも、但馬屋ではけっこうな駄賃をくれたんだが、なんと言えば通じるか、長い時間を商家のお嬢様とふたりきりで歩くのが気まずくてねえ。

それでも、心に残っている出来事はあるものでさ……。十二、三くらい、冬の事かな。

「ひとりじゃ帰れないのかい?」
迎えにいった俺は、そう聞いて、しまったと思った。
衣澄が、真冬の空を見上げ寂しそうな顔をしたからだ。
灰色の雲が重なり合って、厚みを増してきている。衣服を通しても肌に刺さる冷たさには勢いがあり、雪になるのは間違いない。

「帰れるけど、ひとりだと家のひとが心配するもの」
小さな、震えているような唇でそう返された。
「………」
「余村くんは、あたしを迎えに来たくないの?」
「嫌じゃないけどさ、女と一緒に歩くのは照れちまうんだ」

ばつが悪くなり、衣澄の表情を見ることも出来ずに歩き出した。ざっざっざと俺と彼女の二人の足音を聞きながら歩き続けていると、白雪がはらりと降ってきた。
手の平を差し出すと、いくつもの雪片が乗ってくる。
「いよいよ、降りはじめて来た。衣澄さん、急ごう」

そう言って振り向いたとき、どこから湧いて出たのか分からないが、見知らぬ四人組の男に取り囲まれていた。
 年のころは十五~十六あたりの悪そうな人相をしたやつらに、くらい路地裏に引っ張り込まれた。
 
「これっぽっちか?」
羽交い絞めにされている衣澄が、懐から小さな巾着を巻き上げられた。さらに、男たちは路地裏の奥へと連れて行こうとしている。
 衣澄が悲鳴をあげて、首をふりまわし、切迫した目で俺をみた。その姿が、俺の何かに触れたのだろう。冷静さを残しつつも、発狂したような怒りがわいた。

(何か、武器になるものはないか?)
垣根から棒を引き抜くと、すばやく男たちの急所を的確に打っていた。衣澄は泣きながらも男の手を逃れ、俺の後ろにしゃがみ込む。
実は以前より但馬屋の手代から剣術の真似事をならっており、筋がいい、と褒められていたのだ。棒を握りしめ、これから剣術を本気で習おうと思った。

「お嬢さまに触れてみろ、ただじゃおかねえ」
かまえを取る俺に、男たちは数を頼りに掴みかかってきた。棒は、あっという間に取り上げられ、一人から蹴り飛ばされ垣根まで転がった。すぐに跳ね起きてわめき声をあげながら、大将格らしき男の腕に噛みついた。

男たちから全身を蹴られ、気づいたら鼻血で胸までもが真っ赤になっている。それでも食いちぎる勢いで歯を立てると、大将格の男も悲鳴をあげた。
 
騒ぎを聞きつけたのだろう、表のほうから大人が数人かけこんできて 、男たちは慌てて、俺たちをあきらめて逃げ去っていく。
おい、だいじょうぶか?と大人から声をかけられた時は、俺は大の字に寝転がり、降りはじめた雪を放心状態でながめていた。

背中に感じる土の冷たさと、体に残る熱と痛み。今は様々な感覚が、ごちゃまぜになっている。
そして、広がりながら降りてくる無数の白雪を眺めていると、自分が灰色の空に吸い込まれているような錯覚を覚える。雪片は、大小さまざまな形をとっていて、大きいかけらは花びらのように思えた。

「余村くん、……うっ、うわああん」
きづくと衣澄が、わんわんと泣きながらのぞきこんでくる。きっと、真っ赤に胸元まで流れている鼻血が怖いのだろう。
「血が、血がこんなに出ているよ」
俺は、鼻血が出ていようが、守りきった安心感にひたっていた。しかし、彼女の泣き顔をみたとき、すぐ現実に引き戻された。

(衣澄、そんなに心細い顔をするんじゃねえ……)

「心配いらないよ、おめえは無事か?待ってろ、すぐ起きるからな」
鼻血を袖できれいにぬぐい、目を大きく開き、笑いかけてやった。衣澄の泣き顔がほころび、痛みのある体に積もっていく雪が心地よく感じられた。

 この出来事は、さすがにしばらくは忘れることが出来なかった。但馬屋からもそうとうに感謝されたし、謝礼も申し訳ないほどの額をもらった。ただ、その出来事で、より衣澄と親しくなれたかというと、そうでもなかった。
 それ以降、衣澄の送り迎えは店の大人がつくことになったため、俺との接点はすくなくなってしまった。
 さらに俺は翌年、長屋の大家の口利きで、着物問屋の玉屋に正式に奉公に出たのだ。だから但馬屋に出向くことは、もうなかった。

 器用で負けず嫌いの俺は、玉屋の奉公人として頭角をあらわすのに時間がかからなかった。二十をすぎたころには、玉屋の次の番頭は余村だろう、と得意先にさえ認められたものだよ。
 玉屋のおかみさんからは、わざわざ呼び出され次女のおみつを嫁にもらって欲しい。のれんをもらって欲しい(つまり玉屋の支店を出してほしい)、とまで言われていたんだ。だから、但馬屋の衣澄のことなど、とっくに忘れてしまっていた。

 ところがだ、何気なく立ち寄った実家で、母親から意外な話を聞かされた。まだ、母親は但馬屋の内職を受けていて………。
あれは八月に入ったばかりの日だったかな。

「こんなに暑くちゃ、やってられないねえ。おっかさんも無理すんじゃねえぞ」
「なあ、ちょっといい?」
「どうした…」

「但馬屋さんで、お前が衣澄さんの婿(むこ)に来て欲しいって言ってるんだけどね」
「俺が?」
あまりに突然な話で、口を閉じるのも忘れて母親をみた。

「衣澄さんなら、去年にお婿さんもらったんじゃなかったっけ?」
「その人はね、もう出ちゃったんだ。とんでもない遊び人でね、お店のお金をさんざんに使い込んだって聞いたよ」
「えっ、そうなのか……。衣澄さん、かわいそうにな」

俺は一度だけ、婿をもらう前の彼女とすれ違ったことがあった。その時の衣澄は、いかにも若い娘らしい美しさをまとっていた。共の者たちと、ころころ転がるように楽しく笑っており、よかったなと思ったものだ。

「但馬屋さんじゃ、お前の玉屋さんでの評判が高く買われているんだ」
「………」
俺は空を見た。陽射しは強く、入道雲が力強く空にかまえている。
なぜか、胸のうちには、雪が降ったあの日の衣澄の泣き顔が浮かび上がっていた。

その急な話に、衣澄に対して気持ちが動いたのは、間違いなかった。ただ、俺には玉屋の次女との話もある。将来のれん分けをもらって支店を出す話があるんだ、そう母親に言って、但馬屋の話はきっぱり断わってもらった。

 その後、衣澄は二度目の夫をむかえたんだが、その夫は病気がちだったらしい。おまけに但馬屋の商いはそのころから急に傾きはじめ、数年後にはつぶれてしまった。衣澄をはじめ、家族は離れ離れになってしまったと、悲しみに涙する母親から聞いた。
 
 その直後、俺自身も玉屋の商売の関係でひとを素手で打ちのめし、二年ちかくも牢に入れられる目にあっていた。衣澄のことは、気になっていたがどうにか出来る話でもなく、罪人になっちまった自分の運命を呪っていたら、彼女を思いだすことも減っていったものだ。

それから娑婆にもどされた俺は、衣澄のことはもう思いだすことなく、今日まで長い月日を過ごしてきたのだ。

―――あれから何年たった?

十年以上だ。それだけの月日があれば、人の境遇もおおきく変わるところがあるかもしれない。商家の一人娘だった衣澄が、先ほどのような居酒屋で働いていても、なんの不思議もないのかもしれないが………。

とにかくまた、あの店に行ってみるしかない。あれだけ俺に視線を送ってたんだ。きっと、衣澄は気づいていたんだ。

ふたたび、窓の木枠を少しずらしてから、俺は外を見上げた。
まだ、雪が光を帯びて降り続けている。


下に続きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?