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  学校の生活もだいぶ慣れ、あっという間に梅雨の季節が到来し、銀鏡でも気だるい長雨が、多くじとじとと降るようになった。
 篠突く雨の日は特に外出が不可能なので、主に家で積読した本ばかり読んでいた。

 あの人は日中、銀鏡神社の麓にある、『かぐら里食品』という村工場で働いている。
 あの人がまともな職場で働く日が、ついに来たのか、と僕は吃驚を禁じ得なかった。
 この前の晩、あの人が深酒を酌み交わした爾後、下着一枚で寝転がっていたのを見たとき、僕は思わず、片目を離した。

 子供をまだ、何人かは産めそうな、豊かな腰回りと生気に漲った餅肌、僕の出生の呪いを封印した妊娠線。
 ゆらゆら、と紅藤色の下着のレースの裾が揺れるたびに、干し葡萄のような色調の乳首まで見えそうになり、あんなところで僕は、と血反吐を吐くまで這いつくばった。
 鳴りやまない鼓動、壊れそうな心臓の弁、火照っていくざらついた頬、無性に荒れる吐息、少年期にありがちな、情念が僕に執念深く襲いかかった。
 伯父さんが僕の本当のお父さんだったらな、とこんな時に限って、ふと思う。

 激しい雨音が絶え果てた、黎明に布団から起き上がり、朝の庭先に出向いた。
 梅雨の晴れ間に濃薊や露草が朝露に濡れ、朝焼けとそれは眩く逆光していた。
 濃紫陽花が眼中を手招き、爽快な祝祭を掲げていた。

 今日は僕の十四歳の、星の雨へと接吻する誕生日だった。
 知りもしない七夕の日。
 恋人たちの星夜の神話の夜。
 星の契り。秋の契り。星の逢瀬。星合。星の恋。
 涼やかな朝風が背中を通り過ぎ、雨粒のフィルターを身に纏った、山嶺がはっきりと見えた。

 学校に到着すると、君が校門の前で朝の掃除のために箒を持って、深々とお辞儀をした。
「おはよう、辰一君。螢さん」
 長友先生が朝の清掃のために同様に箒を持って、掃いていた。
 広さが有り余っている、校庭の木立からは、真夏の本番を準備するかのように、油蝉が仕切りなしに鳴いていた。

「今日は七夕だなあ! まあ、陰暦の七夕は今の八月七日くらいだけど、七夕について話してやるか! 七夕は中国の乞巧奠と日本の棚機女の習俗が合わさって出来た風俗だ。乞巧奠とは知ってのとおり彦星と織姫の話で中国ではふたつの星にならって技術が上達するようにお祈りをしたんだ。乞巧奠の文字がわからんな。奠とは物をお供えする意味だ。棚機女とは、水辺にある棚を設けた機織りの前で神様の来迎を待つうら若い乙女が神様と共に一夜を過ごし、穢れを払うという信仰だな。難しいことを言ったなあ。七夕伝説はみんな知っているからこういうことを話せばいいかと思ったんだが……。江戸時代には元は宮中で行われた信仰が民間にも広がって今のかたちになったんだ」
 先生の話を聞いている人は僕くらいだった。
 そうか、なるほど。
 梅雨晴れで広さが有り余っている運動場からは熊蝉も仕切りなしに鳴いていた。
 クーラーはなく扇風機が回っているだけだからきょうしつに入れば、大量の汗が拭う。
 今夜は星が見られるだろう。
 彦星も織姫に逢えるだろうか。

「辰一君の名前って星宿信仰から来たのかね」
 いや、知りません、と僕は額の汗をハンカチで拭いながら、答えた。
 僕も喋りながら、ロッカーに荷物を置いて、箒を持ち出し、粉塵がたまった職員玄関を掃いていく。
 徐々に陽射しが強くなり、生暖かい風が頬を撫でた。

「星辰という、言葉を知っているかな。本で読んだのだが銀鏡神楽に『星神楽』というのがあるだろう。古代中国では天を二十八に分けて、星座を象ったんだ。それを二十八宿っていうんだよ。一つ一つには距星といって、星が一つ与えられ、東西南北には四神が与えられたのさ。ほら、白虎とか朱雀とかあるだろう。その四神を囲む、星座のことを星辰っていうんだ。辰、という字には星や月、天、または龍、という意味もあるんだよ」
 名前の由来の詳細について、今まで考えてもみなかった。
「いい名前だなあ。最近の名前にしては古風だな」
 長友先生はたぶん、褒めたつもりなのだろう、目を細めて笑った。
 自分の名前の意味に星、という意味があるなんて知らなかった。
 龍の意味は何となく想像がつく。干支にもあるからだ。

 星という意味。
 初めて、銀鏡で見た満天の星空のように綺麗な名前。
 似合わない。
 あの人にそんな絶妙なセンスが、あるなんて思えない。
 今どき、古臭い名前をもらったと思う。
 命名者である、伯父さんが僕の本当のお父さんなのかもしれない、と最近になって疑っている。

 僕の眼は妖刀の切っ先のような、一重瞼だった。
 ここが父さんへの切符なのか、と手鏡で覗きこんだ夜に僕は真実を探ろうと、地団太を踏み続けた。
 伯父さんも目が同じように細かった。
 背が高いところも同じ。伯父さんは体つきががっしりとしている。
 それに対して、僕はどうだろう。……いつかは僕だって男らしく、伯父さんの血だって、色濃く引いているんだ。強い男になりたい。

「今日が誕生日なんです。七夕」
 みんなで飾った短冊が、笹の葉と軽やかに揺れながら、僕らも早朝の汚れ切っていない、風を浴びた。
「そうなの! いいな。ロマンティックな日に生まれて。私なんか、何もない日だから羨ましいよ。この前にみんなで短冊を書いたけれども、辰一君は何て書いたの?」
 君のお世辞のない、誉め言葉に僕の心は鷲掴みにされ、羞恥のあまり、思わず、短冊を隠しそうになった。

「辰一君! おはようございます! ああ、短冊ですか?」
 運悪く、登校してきた清羅さんが、僕が書いた短冊を読み上げた。
「どれどれ。ああ、……いつまでも銀鏡で星が見られますように、だって。ええっ、星なんていつでも見られるよ。当たり前のこと書いちゃって。辰一君って変なの。地球が滅亡しない限り星なんて、なくならないよ。ねえ、どう思う? 螢ちゃん」
 本当は伯父さんみたいに強くなりたかった。
 山を駆け回るような屈強で、どんな困難でも打ち勝てるような、非の打ち所がない、強さを秘めた男。
 忘れよう。
 あれはさっさと忘れてしまえばいいんだ。
 少し身体を触られただけだ。
 あれだけの悪戯で、自己を見失ってしまうのだから現実は怖い。
「辰一君はいい感性を持っているって思うよ。素敵なことじゃない」

 君の言の葉は恋に焦がれた、紫陽花に吹かれた、白南風のようにとても心に染みた。
「ありがとう。螢ちゃん」
「星が好きなんだね、辰一君は。勇一君から教えてもらったよ。毎晩、観察するんだって?」
「うん。歯磨きをするついでに」
 君はにっこりと微笑んだ。
「ええっ! 毎晩星も見ているんですか! 夜にテレビを見ないんですか?」
 清羅さんが茶々を入れた。
「東京じゃ、あまり星は見えなかったんだよ」

星神楽⑳ 小糠星を描けば|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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