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  病院の小さな窓からは、視界は狭いに関わらず、夜と散歩した西都原の古墳群が、よく見えた。
「君はまだ僕を追いかけるんだね」
 からかうつもりはなかった。
 自嘲めいた戯れもあった。
 日照りの二の腕の筋に、百足が這うように群がる痛みを与える。

 僕は痛みを人よりもあまり感じられない、タイプなのかもしれない。
 息切れが交互に咽喉を森林火災のように焼き払いながら、僕は無菌空間の病室にいるだけだった。
 なぜ、ここは二階なのに浮遊霊のように、浮かんでいるのだろう。
 僕の視界の目の前に姫は佇んでいたのだろう。

「君が僕に月を見せたんだね」
 今夜は皮肉なことに、憂いに満ちた朧月夜だった。
 病院の前の空き地に菜の花が咲き、夜の色を逆らうように、白昼夢の色彩を染め上げている。
 静かに照らされた月明りが、余計にその願いを後押ししよう、と雲間から皓々たる、光が漏れていた。

「あなたのお母さまは、あなたを身籠られたとき、私の森へさまよいなさったのです。まだ、幼い少女でした。ただ、どこか、幾何の年を老いた女にしか成しえない、精妙な艶めかしさが、少女にはありました。その老成した色気が、ほろ苦く黒髪と絡み合い、かつてのあの子のように美しい少女でした」
 かつてのあの子、とは木花之佐久夜昆売のことを指しているのだろう。
 蒼空を下に漂う春風と満開の桜を象徴とした、それは、それは見目麗しい姫。
 こんな僕が出会っても一目惚れしてしまうような、桜の儚さを身に纏った姫君。

「華奢な姿態に不自然なお腹がぽっこりと出ていて、俯きながらさめざめと泣いておりました。お腹を叩きながら、桜の木の下で。そうかと思えば、お腹をゆっくりと撫でて、にっこりと笑うのです。一通り泣き伏せると、愛おしく歌を口ずさむのでした」
 母さんはずっとつらかったんだろうに。
 僕はそんな母さんの本音さえも蔑ろにしていた。
「少女は清水を飲みながら、しばらく、山に籠っていました。山での時間と里での時間は流れが違うものですから。少女は木苺を食べたり、木の下で眠ったりしながら、産み月になるのを待っていました。あなたが生まれた星祭の晩に、その少女は帰っていきましたよ」
 あの後、救急車で病院に搬送されたんだ、と僕は置かれた状況を鑑みて、自覚した。

 僕は体温が乗り移った、生ぬるいシーツをぐっと丸めた。
「あなたのお母さまは警察に連れて行かれましまたよ」
 姫はあえて、事実をありのままに、何の抑揚もなく説明した。
 そうか。
 これは僕が蒔いた種なんだ。
 僕が犯した罪なんだ。姫には作為性はないだろう。

「あなたのお母さまは銀の鎖に巻かれて、どう、思っているのでしょうか」
「違う。僕の母さんは何も悪いことをしていない。していなんだ」
 姫が人を食ったようににやりと笑った。
「あなたは四六時中、お母さまに恨み節を唱えてらしたのに、まあまあ、そのようなことをおっしゃって」
 菜の花が春宵の、生暖かい風に吹かれ、夜霧を纏った、満月は雲の合間から赤く怪しげに光っていた。
 夜盗までも誑かす、赤い月だ。
 呪われた赤い月。
「僕は母さんのことを恨んでいない。僕が悪いんだ。僕が悪いことをしてしまったから、こんなことになっただけなんだ」
 窓辺からちらり、と見えた姫の眼の色はどことなく、寂寥感があった。

「そこに言伝がありまして。文が」
 僕はとっさに病棟の机に置いてあった、封筒を開けていた。
 そこに書かれてある、言葉を読むまで夜の時間はまだまだ、残されていた。

 皺だらけの手紙を読み終えた、僕は病棟でじっくり耐えるしかなかった。
 前だったら即座に破って、捨てただろうに読み終えた今ならば、虚脱感とも違う、澱んだ疲弊が六臓七腑から染み渡っていく。
 母さんは子供を愛するのが拙いだけだった、と督促状を突きつけられたとき、僕は酷く狼狽した。
「読み終えましたか」
 姫が素っ気なく、合図を送った。僕は額に汗を感じながら頷いた。

「僕は母さんのことを嫌いにはなれない」
 月も朧雲の水脈に隠れ、菜の花の目映いばかりの輝きも消えてしまった。
 両肩が震えながら窓を一瞥すると、もう姫の姿は跡形もなく消えていた。
 僕は鳩尾に力を込めながら、羅紗のようなシーツをかぶり、そのまま、入眠しようと横になった。

星神楽 54 琥珀色の憂鬱|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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