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日記(P)20230820_ソール・ライター展ルポ

P 8月20日(日)
——ソール・ライター展のルポルタージュ

 写真展を見に行くのは結局夕方になってしまった。耐え難い眠気に負け、その後起きたはいいものの、水分不足からくる吐き気で自宅を出る気になれず、無為な時間を過ごしてしまった。一週間前に風邪をひいてからすっかり虚弱になったようで、未だ戻らない体力を憂いている。
 幸いにして、この展覧会は夜までやっている。電車に揺られてゆっくり向かう。駅ビルの中でやっているので駅にさえ着けばもうすぐだった。

 今日の目当てはソール・ライター。画家を目指してニューヨークに移住。生活のため、ファッション雑誌のカメラマンを始めて支持を集めた。中でも1950年代から60年代にかけてニューヨークを撮ったスナップが特に有名な写真家だが、恥ずかしながら未だ現物を見たことがなかった。

 既に亡くなった作家ではあるが、ソール・ライターの色彩や構図に関する豊かさ、大胆さ(これらは、ソール・ライターの画家としてのキャリアによって育まれたことは言うまでもなかった)は、こと21世紀の美術の潮流に当てはまり、受け入れられた理由も分かる気がする。芸術すらも大量に消費される現代(X、InstagramなどのSNSの台頭により人々は指先ひとつで誰かの作品の鑑賞ができる。最もポータブルかつハードルの低い鑑賞形態を獲得したと言える。更に人々は、AIの隆盛により自らの言語でコンピュータに命令するだけで、思い思いの写真や絵画などの『作品』を得ることができたが、それは幾多の元となる作品をミキサーに入れて撹拌し、その結果を型に流し込んで出力したものを『作品』と呼んでいるにすぎなかった)において、見た目の明快さ、分かりやすさは最も歓待すべき芸術のキーワードだ。時間を浪費することなく、美しさという結果を得られる作品は持て囃され、嘗ての哲学を孕んだ芸術活動の数々は、外枠や事実だけをなぞって共有され、その突飛さだけが人々の記憶に残ることになった。

 さて、肝心のソール・ライター展について語ろう。今回の展覧会の主催は渋谷のBunkamuraで、ソール・ライターの展示はこれで三回目になるようだ。よって、回顧展の中でも、より作家のパーソナリティを深耕した展示になることを想像していた。そもそものテーマがソール・ライターの原点であった。
 こと日本で、この写真家がここまで人気になったのはBunkamuraの力が大きい。現に、今まで二回の回顧展を成功させて、日本にソール・ライターの名を知らしめている(そのことは今回の展示の特集ページにも自負として記されている)。自らの手で有名になった、もしくはした作家の展示なら、集客も見込めるので予算を注ぎ込みやすく、作家の作品を収蔵、管理している財団の協力も得やすい。見映えする作品を展示するだけでなく、作品をより深く理解する上で必要となる、作家の人となりを研究する余裕もできる。そんな余裕を感じる展示だった。一点一点の写真は素晴らしく、画家としての作品も写真と対比するように並べられ、確かにソール・ライターの原点を窺い知ることができた。特に、ポジ(リバーサルフィルム。ネガフィルム とは異なり、撮影した色のまま撮像を記録することができるフィルムの形態)の展示はよかった。現像さえすれば印画紙へのプリントを経る前に結果を鮮明に見ることができ、これがソール・ライターの色彩への追求に大きく寄与していることは想像に難くなかった。

 しかし、鑑賞体験としては今ひとつだったことはあえて記載したい。なにしろ寛大にも、写真撮影が全て許可されていた。それにしても、作品自体は(先述のポジ然り)かなり小さいので、誰かが撮影をする度にそれを待たなくてはならず、ヤキモキした。この感覚は、昔見に行ったアルフォンス・ミュシャ展にも同じことが言えた。とはいえ、それらビッグネームの回顧展に比べたら混雑具合は穏やかなものだったかもしれない。
 他にも、ポジフィルムのスライド展示を模して、写真が切り替わるのと同時にスライドのカチという動作音を流していたが、それは明らかにただのプロジェクターから出ており稚拙に見える、など、気になるところはあったが、基本的には快適に楽しむことができた。

 会期はあと三日らしい。諸賢は見ただろうか。もし見ていたなら、感想を伺いたい。

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