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『君たちはどう生きるか』/映画感想文

説明不要。今年最大の目玉作。
余計な情報を入れずに劇場へGo。

1. あらすじ

母を亡くした少年は、父とともに疎開。
疎開先では亡き母の妹が新しい母になることに。
大きなお屋敷での生活が始まるがなじめない少年。そこに1羽のアオサギが現れる。
アオサギは少年を刺激し、「お待ちしておりましたぞ」と庭の奥にある怪しい塔に誘い出し、、、。

2. 点数

67点

点数をつけること、理解しようとすること自体が野暮な作品ではある。
鑑賞中、鑑賞後の「おいおい、これでいいのか?」という感覚に素直にしたがうと、どうしても低めの点数とならざるを得ない。
ただ今後みる度に評価は上がるのかもしれない。


3. 感想

前半のテンポの悪さ

冒頭の火事のシーン、ツカミとしては最高。
キムタクの存在も確認!

その後疎開。
人力車での妊婦お腹おさわりのくだりの不気味さは措くとして。

お屋敷に着いてからのテンポの悪さがどうにも気になった。

「おい、6年もかけてつくったんだろ?
120分の尺しかないのに、もう40分くらい使ってるぞ?
ここまでほとんど物語に変動ないぞ? この先大丈夫か?」
と素人の心配をしてしまった。

それに拍車をかけたのが、夏子さんの演技だ。
「さぁ、いきましょう」といった舞台調の乾いたセリフもあいまって、棒読みが続く。
木村佳乃よ、もうちょっとがんばってほしかったぞ。産屋での変貌ぶりはよかったが。

アオサギ登場

怪しさをまとっていたアオサギが突如喋りだす。
しかも鯉とカエルというキモ動物を大量動員するというキモ妖術を使ってくる。スクリーンから目を背けなかった自分を褒めてあげたい。

塔の中に入ってからは浮力を失ってボケキャラに変容するわけだが、
狡猾そうなところとか口調が『もののけ姫』のジコ坊そっくり。
そのビジュアルもあいまって、音尾琢真にしか見えなかった。

まさか声が菅田将暉とは。
菅田くん、芸達者だ。

ファンタジーワールド爆走

塔に入ってからはこれぞジブリというべき空想上の世界とキャラクターがこれでもかと登場する。
明らかに過去作をバチバチに意識したシーンがふんだんに盛り込まれており、ジブリコアファンでなくとも楽しめる。

ジブリの実力をまざまざと見せつけてくれるわけだが、後半は矢継ぎ早に場面が入れ替わり、脈絡もなく新キャラ登場が続くため慌ただしさが拭えない。

まるで修学旅行で京都の神社仏閣をテンポよくまわっている気分だ。
ガイドさんの説明を聞き流しながら、境内をふらーっとまわって、
急いでお土産屋をみて集合時間に間に合うようにバスに戻り、次の目的地へ出発するかのように。

映画という作品である以上、時間制限からは逃れられないが、(前半部分のテンポをあげて)後半にもう少し時間を使って掘り下げをしてほしかった。

説明してほしかった!なんて言うとバカみたいなので悔しいが、最低限の説明や道理、流れはやはり物語には必要と思ってしまう。
いや、見たものを素直に受け入れる童心をなくした結果であるともいえるが。

宮崎駿という孤高の天才

ここまで素人の文句をたれてきたわけだけど、こんなことは当然監督やスタッフはすべてわかっているだろう。
どれだけの名作、大作をつくってきたと思っているんだ、バカにするんじゃない。

監督は絵コンテ先行でつくっていくらしいので、もしかしたらストーリー展開はもともと気にしない人なのかもしれない。
仮にそうだとしてもこれまでの作品では鈴木Pあたりが、
「宮さん、これじゃストーリーめちゃくちゃですよ。誰もついてこないよ。」
なんて言って修正させてたのかもしれない。

でも本作はその痕跡がない。
わざとだ、意図的にやっているに決まっている。

悪い言葉でいえば意地悪だが、新しいことに挑戦しているとも言える。

「宮崎駿という天才の晩年に好き勝手やらせてみたらどうなるか」
という社会実験かつプレゼントだ。

この一見身勝手な実験が許されるのは、ジブリのこれまでの功績と価値に他ならない。
こういった視点でみると、予告も広告も一切なしというのは頷けるし、フェアともいえる(広告を大々的にしてしまうと作品そのものへの評価が表れにくいから)。

「内輪の実験やないか。映画界を巻き込んでやるんじゃねーよ」
という批判もあるだろう。
が、個人的にはこの実験に怒りはない。

これはやはり宮崎駿という天才に対する畏怖や感謝があるからだ。
これまで身を粉にして作品を出し続け、多大な貢献をしてきてくれた。
そりゃ思想的にちょっとめんどくさかったり、引退宣言を繰り返して混乱させたりもあったけど、もう十分すぎるほどがんばってきた。
素晴らしい功績を残した人には相応の褒賞があってしかるべきだ。

ハヤオバイアス

ハヤオの功績を考慮しつつ自分に問うてみる。

「これがハヤオじゃなくて無名の監督たったら?」


おそらくもっと酷い言葉でこき下ろすだろう。
ってことは、ハヤオだから手心加えてるんじゃないかと。

そうです、ハヤオバイアスは間違いなくある。潔く認めます。

でもそもそもハヤオじゃなかったらこの作品は世に出てないはず(大幅な修正がされるだろう)。
だからハヤオだからこそ成立する作品なのだ!となる。

こう書くとなんだかハヤオ信仰のような崇高な評価をしているみたいになるが、そんなつもりはない。
”ハヤオでしか成立し得ない作品だけど、そこにはネガティブな意味も含まれてるよ”
というスタンス。

手のひらで踊る快感

事前情報なしの戦略により、ファンはあーでもないこーでもないと期待と妄想を抱いて劇場へ向かった。

この時点で完全に鈴木Pの手のひらで踊らされているのだ。
普通は踊らされると悔しくなるが、今回はそうではない。

喜んで実験用マウスになります!
裸踊りします!
どうせ踊るならアホになったほうが楽しいよね。って阿波踊りが言ってた。

さらにこの鈴木Pの戦略を深掘りしてみると、
・興行的に成功すれば「オレ、天才」
・興行的に失敗すればジブリの評価は下るだろうが
「ほらね、宮さん。やっぱり私のアドバイス聞かないと。あれだと世間はわかってくれないよ。」と監督への発言力は増す。

どっちに転んでも勝ちやないか。
恐るべし。

稀有な映画体験

この情報化社会の中で、事前情報なしで映画をみにいく。しかも老若男女、多くの国民が。

こんな体験、後にも先にもないかもしれない。
映画の内容からはずれてしまうが、一つの祭り体験としてとらえるのもアリだ。

ハヤオの強靭な生命力と創作意欲を信じているので、また辞める辞める詐欺(ほめ言葉)があると予想しているが、失礼ながらこれが最後になってしまう可能性も当然ある。
そのときに後悔しても遅い。
作品の内容の是非は別として、日本映画の歴史に立ち会うという意味でも鑑賞する価値はあると思うので、まだの方はぜひどうぞ。


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