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自己肯定感が高すぎる件について

自己肯定感。
それは、「自らの存在を肯定し、尊重する感覚」。
よく自己肯定感が低くて悩んでいる方が多いと耳にします。
自分自身の価値を認めるのが難しいとのこと。

普通であれば、「自己肯定感を高めるためには」等自己肯定感が低い方に向けて述べるべきだと思うのですが、ここではそれについては触れません。

なぜなら、私は自己肯定感がちょ〜〜高いからです。


では何について述べるのか。

しがない会社員の私が、なぜ自己肯定感が高くなったのか(育ったのか)、また自己肯定感が高いゆえの悩みについてお話します。
ただお話しするだけです。
きっと共感できない人も多いでしょうし、なーにを言っとるんだこいつは、甘ちゃんめ!となる人も多いと思います。ご最もだと思います。
なので、こんな変な人もいるんだなハハハ、くらいの気持ちで楽しんでいただければ。




なぜ自己肯定感の高い人間になったのか。
客観的にみたら別に特別優れた人間なんかじゃないのに。笑



顔がめちゃくちゃかわいいわけでもないし、スタイルがいいわけもないし、とりわけ勉強ができるわけでもなければ運動が得意なわけではない。


(以下、完っっっ全な主観です。)

でも、ちょっと可愛い部類には足をつっこめるし、ぽっちゃりしてるけどLサイズ着れちゃう。勉強もずっと学年5番とかで、地方国立大卒。運動においても何かが突出して得意ではないけれど、だいたいなんでもある程度まではできる。


そう、色々なジャンルにおいて"ある程度"満たしているのです。

(Lサイズはアウトかもしれません)


このある程度が重要だったりするのかなと。

私は自分が若干特別だと思ってしまっています。
なにか突出したものがあるわけではないけれど、だいたい満たしている。いわゆるジェネラリストなわけです。

今思えば、物心ついた時から自分は「なんでもできる」と思っていた気がします。幼いゆえに不可能はないと思っていました。小学生くらいまでのうちはみんなきっとそうだと思います。自分の未来は明るいと信じて疑わない子どもたちが割と多いのでは。

がしかし、その感覚は中学生や高校生になっても消えず。



ここで小話。

当時中学校1年生の私の唯一のコンプレックスが「一重まぶたなこと」だったのですが、不器用すぎてうまくアイプチで二重を作れず挫折したときに思ったこと。

「まあいいや、一重まぶたのありのままの私を可愛いと言ってくれる人と結婚しよう」
13歳のわたし

私はずっとこう思って生きてきました。

結果どうだったのかと言うと、高校生のときにはちゃんと初めての彼氏ができたし、19歳から6年間付き合ってくれている彼氏は「素朴なおめめが可愛いね」と言い続けてくれます。結果オーライ。


戻ります。

元々の性格もあるのでしょう。私は嵐のようにたくましい女の子だったので、草木をかき分けるように生きてきました。
基本的に自分の道は自分で切り開いてきたタイプです。
大学は推薦入学だったのですが、推薦試験のときも自分が合格すると思い込んでいて、疑うことはありませんでした。なぜならそれなりの努力をしていたから。

就職試験のときも何個か内定を頂いていて、行くところに迷うというような状況でした。


ある程度うまくいくという感覚が体に染みこんでいるのでしょうね。今でも私は特別な人間で、なにかを成し遂げることができる人間だと思っています。

親に話すと「すごい自信だね...」と引いていますが私は言いたい。

「あなた方のおかげですよ」と。

なぜここまで自分の成すことに自信があるのか。
ちいちゃな頃から何かをする度に親が褒めていてくれた気がします。褒めてくれるから努力する。いつしかそれが当たり前になり、中学生頃になると、逆に何かをする前に「Fikaはできるでしょ〜笑」と言われるようになっていて、私も「まあね。」と答える。それが普通になっていたのです。できるできないの話ではないですが、うちの両親はさり気なーく「私がかわいい」ということを伝えるのも上手かったですね。客観的に見ると別に言うほどの容姿ではないのだけれど、現にこうして「ちょっと可愛い部類に足を突っ込める」と思ってしまっています。私がなんでも取り込みやすい性格なのもありますが、色々なことを素直に受け入れて生きてきました。

成長するにつれ、親に言われていた言葉をいつしか自分自身に向けて与えるようになっていました。それがすんなりできるようになったのは、大抵のことはある程度できてきたという過去の実績があるから。自分の力を信じて努力をし、結果を出してきたから。


がゆえに、今困っているのです。
自己肯定感が高いゆえの弊害、それは自分の思い描いたとおりに行かないと納得できなくなってしまったことなのです。


今年転職をしたのですが、思っていたところに配属にならずくすぶっています。
私は英語が好きで、TOEICも800点以上のスコアを持っています。それを以て海外系の部署に行きたかったのですが、がっちがちの事務部署。カタカタ数字を扱う部署なのです。しかもあと2年間は異動なし。白目を向き続ける日々です。

自己肯定感が高すぎるため、「私の能力を生かしてもっと会社に貢献できる場所は他にあるのに、こんなところで何をやっているんだろう。」と泣きたくなる日も多々あります。今日も涙目でカタカタ。

よく「置かれた場所で美しく咲きなさい」という言葉がありますが、置かれた場所に水がなければ綺麗に育つことはありません。自己啓発を頑張っているところを見せようと語学系の検定も受験し取得しましたが、来年はもっと重く複雑な業務を担うこととなりました。水がないところに肥料を追加しても何も意味がなかったのです。人生そう上手くいくわけないでしょ、と言われたらそこまでですが、私は自分自身を信じて、自分の未来を明るいものと信じて疑わずに生きてきたのでなかなか辛いものがあります。


「さーて、次は何の仕事をしようかな。」


早い段階でもう次のことを考え始めました。
甘ちゃんなので。
自己肯定感が高く自分には価値があると思っているうえに、一度転職を経験しているため、仕事を変えることへのハードルも低いのです。
でもきっと次仕事を変える時は、自分でなにかを始める時だと思います。今はまだ何をやるか全く決めていないけれど、組織に属さず自分の力で仕事の道を切り開いていきたいと思っています。それまでは逆境に立ち向かっていく自分を楽しんでいきたいですね。頑張っている自分がだいすきな"自分だいすき人間"は燃えています。



さて、私が自己肯定感が高いのはなぜか、それゆえの弊害をお話ししました。
本当にただお話ししただけです。
有益な情報を提供することは出来ませんでしたが、ひとつだけ参考にしてもらえたらいいんじゃないかなということをお伝えします。

それは、

ある程度出来たら万々歳

ということ。
色々な分野において、ちょこちょこっとある程度満たすだけでここまで自分だいすきな人間ができあがったのですから、きっとこれに尽きるんじゃないかなと思います。
完璧にできなくてもある程度できていたら、それはもう"できている"んです!(ティモンディ高岸さんで再生してください。)
日本人は謙虚すぎるんだと思います。それが美徳なのだとは思いますが、個人的に自分自身に対してはもっと甘ちゃんでいいと思います。ただメリハリは大切。

私は大した人間ではないけれど、ありのままの自分がだいすきだし、自分に価値があると思っています。社会はもっと私を大切に扱うべきだ!とも思っている。恥ずかしいですが、ホントのこと。これを読んでくださっているみなさんも私と同じ価値があります。人間の価値は平等なのです。違うのはそれを自分が認めているかどうかということ。まずは自分が認めなければ何も始まりません。


ありの〜ままの〜自分でいるだけで私たちは素敵なのです。


さて、また次回。
ほっと一息つく時間を一緒に共有しましょう。

Fika

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