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加藤のファミリーヒストリー1

この写真集では、私の伯父兄弟である加藤尚文と尚武共著による「トポスとしての家」加藤家で取り交わした書簡、昭和43年に発行された加藤の兄弟新聞 そして私の高校時代の日記とブログから文章を引用していますが、実際の写真集に載せきれなかったことを私の目線から加筆しております

私の祖父、加藤清は1892年10月13日に加藤嘉造の一人息子として生まれます。

嘉造はもともと、三重県四日市市にある加藤翠松堂製薬会社の次男でしたが、家業は継がず、自由民権運動に関わっていました。

加藤翠松堂(加藤尚文 加藤尚武共著 トポスとしての家より)

三重県四日市市赤堀に現存する加藤翠松堂製薬会社が父の言うご本家である。
ここの赤堀城の藩医としてスタートしたのが加藤家のオリジンらしい。
それが薬に転業したのは、室町末期の元亀元年(1570)であるから400年の
社歴を持つ。11世太四郎尚賢はかねて能筆であったが、二条関白家に献筆して「御免売薬のお墨付」を頂いた。
時移り、幕末明治。太四郎の長女と婿養子三郎平の間に三人の男の子がいた。
長男保 尚文、次男嘉造 尚友、三男明 政吉郎 保は家業半ばで早川家を継ぎ、嘉造風雲の志抱き、結局明が加藤翠松堂の後継者となる

嘉造は四日市を出て自由民権運動にかかわるようになります。

加藤翠松堂の絵葉書のコピー



明治22年10月18日午後4時10分頃。
閣議を終えて官邸に帰る外務大臣大隈重信は壮漢に爆弾を投げられ、
隻脚を失う。
折から国論を沸騰させていた条約改正に対する反対運動の一コマである。
壮漢は福岡 玄洋社員来島恒喜(くるしまつねき)であった。
この来島に爆弾を運んだのが、加藤嘉造(かとうかぞう明治44年1月27日没)である。
と言うところからよく父の思い出話は始まった。
(加藤尚文 加藤尚武共著 トポスとしての家より)


ええええ!そんなことしたの!と驚く言い伝えです。
幕末から明治の激動の時代。あらたな政治のはじまりに人々に期待と戸惑いがあったころ。正しいことを求めるが故、許せないことには武力行使もまた英雄的だったのか。
今ならば、テロリストの片棒を担いでいたような危険人物ですが、嘉造は何か正しさに向かってひたむきだったかも知れません。
それを思うと、この後、清にもその子供たちにも、加藤の血は「正義感」強く受け継がれていきます。
私の中にも人一倍強い正義感を感じるのは、この血を引いているからかも知れません。

嘉造の生活の基盤は実家の薬屋の東京支店をあずかることで成り立っていたようです。
新富町に居を構え、一粒だねの清は、泰明小学校から立教中学に上がり慶應義塾大学へ進学します。さすがに大隈重信に爆弾を投げつけた男の手助けをしたような人物ならば息子を早稲田にはいかせまい。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
福沢諭吉先生を尊敬し、この言葉に従って清は自分の娘たちにも自立できるよう大学へ行かせて資格を取らせるのです。


清は大正5年 慶應義塾大学理財科卒業後、マツダランプ(東芝の子会社)に就職します。その後、親会社の東芝へ就職したもののおもちゃ屋に転職。戦時中は尚栄精機という金網セメントの壁を作る会社を立ち上げ、終戦後は冷蔵庫やクーラーのリサイクル業を始めるも失敗。最後は自宅を貸し工場にして生きていました。
私の記憶にある祖父は下町平井、荒川近くの送電所の近くにあったボロボロの工場の事務所に座っている姿でした。

大正11年(1922年)カルタ会で知り合った小暮みつと結婚

清とみつの間には子供が4人生まれます
写真は左から長男尚文(ひさぶみ)みつ 抱かれているのは次女君枝(きみえ)清、その前にいるのが長女登美子

登美子と君枝
左にいるのは当時のお手伝いさん、そこから右へみつ末っ子の尚武(ひさたけ)後ろが清
尚文、君枝、登美子

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