『孔雀とナイフとヒエラルキー』 第8回 第5幕(全12回)
友達
1
時刻は夕方の十七時。私たちは九州の端の方までもうすぐのところまで到達していた。
「あと少しだ」
息を切らしながら咲が呟いた。彼女は覚悟を決めた顔をしていた。それに私は気がつかないふりをしてしまった。私が未だに後悔している瞬間の一つである。
もうすぐで目的地というところで突然、咲が足を止めた。
「由香里、私がどうして孔雀座を見たいのか教えてあげる」
「どうしたの急に?」
「私には、今ここで由香里に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「伝えなきゃ、いけないこと?」
咲は頷いた。この時の私はなぜ彼女がこのタイミングでこの話を切り出したのか意図が掴めなかった。
「良いかな?」
彼女は私に問いかけた。私は頷いた。
「まずね、私はいつか孔雀になりたいんだ。あの綺麗な羽が欲しいから」
「でも、孔雀の綺麗な羽って雄だけが持っているんでしょ?」
「それは知ってるよ。そこは私の夢なんだから聞かないで欲しかった」
「それはごめん」
咲はそれから再び歩き始めた。私もそれについていく。
「私が友美から嫌われた後でね、何気なく見た図鑑の孔雀が綺麗だったの。そこから調べていくと孔雀座っていう星座があるらしいって知った。孔雀座には何も物語がないの。私にはそれがちょうど良いと思えた。だって私にはどんな有名な星座も似合わないから」
「似合わないって、なんでそう決めつけるの? あなたにはまだまだこれから先の輝かしい未来が待っているのかもしれないのに……」
「いいや、それは私が認めたくないの。認めない方が楽なの……」
「どうして?」
「なんでだろ、あのきらきらしている割には中身空っぽで人を蹴落とすことばかり頭にあるクソったれどもに嫌気を感じたからかな」
これを聞いて私は咲が抱えていた影の一部を垣間見たような気がした。
私は自分の気持ちを見透かされたような気がした。
「それは言い過ぎな気が……」
「そうかな? 由香里だって本当は気づいているんでしょ。あいつらの醜さに」
それはその通りだった。当時の私には自分が抱えていた爆弾のような感情を認める勇気がなかった。
「なんかごめんね。こんなこと言っちゃって……」
「いや、いいの。むしろ、言ってくれてありがとう」
刹那、咲が驚いたような顔をした。それから私の答えがよほどだったのか、彼女は大笑いした。
「あはは、あはは!」
それに釣られて私も笑い始めた。
「ははは、あはは」
「何笑ってるの」
「そっちこそ、なんで笑ってるの」
「なんでって、咲が笑ったからだよ」
途中から私たちは半泣きになっていた。いつの間にか理由もわからなくなってただひたすらに泣き笑っていた。
「みんなのばかやろー!」
咲は夕暮れ空に向かって叫んだ。
「私たちのばかやろー!」
私も叫んだ。
「ばかやろーに祝福を!」
「乾杯!」
私と咲は拳を高く挙げた。
「私さ、孔雀の様に綺麗なドレスをいつか着てみたいんだ」
「それ、咲にとっても似合うと思う」
「ありがとう。着こなせるといいな」
「大丈夫だよ。私が保証する」
「それ保証になってないよ」
「そうだね」
そこから私たちは少しの間何も喋らずに道を進み続けた。その中で、私はこの先自分たちはどうなってしまうのかと考えた。
「ねえ、私たちこの先どうしようかな?」
何気なく私は咲に聞いた。
「どうするって?」
「だってさ、警察には追われているし、お金もないし、この先本当にどうなるのかなって思って」
「はは、それはそうだね」
「何か思いつくことある?」
「そうだね。そういえば、この先は海辺なんだけどさ。だったら船を盗もうよ」
「と言うと」
「盗んで、その船でどこか南の島にでも逃げよう」
「それは良いね」
「それでね、そこでカフェをやるの」
「どんな?」
「どんなって言われてもすぐには……、あ、思いついた」
「おお」
「コーヒーにこだわって良い豆を揃えておくの」
「品質重視だ」
「そうそう」
「それで大儲けしよう」
「だけど、それだけで大儲けできるかな」
「じゃあパイナップルジュースも売ろう」
「それは節操ないよ」
「じゃあ、もう少し工夫しないとね。由香里は何かある?」
「うーん。思いつかない!」
「ははは」
「あ、そうだ。ミックスジュースを売ろう」
「ミックスジュースね。それもありきたりじゃない?」
「うーん。やはり良いアイディアは出ないね」
「はは」
楽しくなってきたのか咲が話を続けた。
「あとさ、南の島に住むんだったら家にはブランコが付いているといいな」
「ブランコね。良いね」
「二人用のブランコでさ、二人で漕ぎながらその日のご飯のこととか話し合うの」
「すごい具体的だね」
「今考えたことなのにね」
「人間の想像力ってすごいね」
「同感」
私は南の島にある小さな家を思い浮かべた。その家には私たちが住んでいて、コーヒーやパイナップルジュースが売りのカフェを営んでいる。二人は毎朝、ブランコに乗ってその日の予定を決める。それからコーヒーやジュースの準備を始めて、時間が来たら店を開ける。店には馴染みのお客さんたちが来ていて、その人たちと他愛もない話で盛り上がる。そんな生活を思い浮かべた。
私は本当にそんな生活をしたくなってしまった。彼女となら楽しそうだなって思った。だが、そんな日が来ることはあったのだろうか。今でも幸せそうなその生活を思い浮かべてしまう。実は自分が一番乗り気になっていたのかもしれない。そう思う。
会話のキャッチボールが続いて、時間はどんどん過ぎていった。日が傾いた空を眺めながら私たちは道を進み続けた。旅のゴールはあとほんの少しのところまで迫っていた。
「ねえ、私たちなんでもできそうだよね」
咲の言葉には彼女の整理がついていない気持ちがそのままの姿で込められていたような気がした。
「そうだね」
私は深くも考えずに頷いた。この時、私は本当に自分たちならなんでもできると妙な自信を持っていた。
「私たちさ、友達だよ」
咲の気持ちが私の心に伝わってきた。私は嬉しかった。
「うん、私もそう思ってる」
「ならよかった」
そう言っていた彼女の顔は悲しそうだった。私はまたしても気づかないふりをしてしまった。この時、何か言ってあげられたら私たちの人生はどう変わったのだろうか。思い返す度にそんなことが頭を過ぎる。
私は彼女との時間がずっと続けば良いのにと思った。それでも、時間はどこまでも残酷だった。
「着いた」
「いよいよだね」
「そうだね」
ついに私たちは目的の場所へとたどり着いた。旅の終着点。私にとって一番忘れたくない一連の出来事の結末まであと少しだった。
2
私たちは空を見上げた。そこには私たちには似合わないくらい綺麗な夕空が広がっていた。私は空を見つめたままで言葉を発した。一瞬だけ白い息が見えた。
「夜まではまだ少しだけ時間があるね」
「そうだね」
彼女もまた空を見上げていた。だから、この時彼女がどんな顔をしていたのか私にはわからない。それでも楽しそうな声で彼女が嬉々とした気持ちになっていたのはわかっていた。
「見られるといいな」
「そうだね。どんなふうに見えるか私は楽しみ」
これは私の心の底からの言葉だった。
「私も初めて見るからすごい楽しみ」
「いよいよだね」
「うん、これで旅が終わる」
「そうだね……」
この時の私はやはり彼女のサイゴの旅という言葉がどうしても気になっていた。それが彼女にとってどれくらいの価値があるのか私には計りかねたからだ。
空はどんどん暗くなっていった。そろそろ空に星が見えるか見えないかの頃になった。私たちは何も言わずに空を見上げ続けた。このままの時間が永遠に続けば良いのに。そうすれば旅も終わらない。だから、お願い神様。終わらないで。と私は思っていた。
「ねえ、見れるまでまだ時間があるから、しりとりでもしようよ」
咲が唐突に提案してきた。
「急だね」
私は笑った。お互いの白い息が見えていた。
「いいよ。じゃあ咲の方から」
「ハサミ」
「ミスド」
「ドクター」
「た、太鼓」
「小鉢」
「ち、ち……、チアリーダー」
「ダイヤモンド」
「ドラマ」
「マリオネット」
「トイ、トイプ……」
その瞬間だった。どこか遠くの方からパトカーのサイレンの音が聴こえてきた。時間切れだった。
私たちは三十秒くらい何も言えなくなった。それから、咲の方がポケットの方からナイフを取り出した。
「時間切れみたい……」
「そうだね……」
「まだ夕方だね」
「夜まであと少しだったのに……」
この時、私は神様や世界の仕組みなどという存在に対して彼らはなんて残酷なんだと感じた。なんでこんなところで警察に見つかってしまうのだろうか。この世には残酷な運命があるということを痛感した。私たちにはこんな運命しか残っていないのか。悲しい結末しか残っていないのか。なんて悲しい世界なんだ。私は私たちの運命を悔やんだ。
私は悔しかった。ここまで来て、まさか孔雀座を見れそうにないことが。彼女もまた悔しそうだった。
「私はこうなった代償を払わなくちゃいけないのかもしれないね」
咲は苦しそうに空を見上げた。夜までにはほんの少し時間がありそうだった。それが悔しかった。
「ねえ、私は友美をさ……」
「言わなくていいよ。わかってる」
「ありがとう。でも、あなたを巻き込んでしまった……」
彼女には後悔の気持ちがあったのだと思う。結果的に友美を殺してしまったこと。私を巻き込んでしまったこと。それが彼女の罪である。とても十六歳の少女には背負いきれない罪だったと思う。一方で私にも罪がある。それは、友美を止めることができなかったこと。彼女をここまで連れてきてしまったこと。
「ねえ、由香里。あなたは何にもしてない。だからあなたが罪を背負う必要はないよ。私が全部の代償を払わなくちゃいけないんだ」
「でも、ここまで来たら私にも罪はある。だから、私も何か代償を払わなくちゃ」
咲は苦しそうだった。おそらく、頭の中でずっと悩んでいたのだ。私たちは何か代償を払わなくちゃいけない。それについて彼女はずっと悩んでいた。
咲は何かを確かめるような目で私のことを見つめた。
「ねえ、改めて言うけど、私たちは友達だよ」
「当たり前だよ。私たちは友達」
「ありがとう」
彼女は目を閉じて深呼吸をした。私も目を閉じた。決意しなくてはいけなかった。ここで全てを終わらせないと。私たちは知っていた。ここで自分達は終わりだと。だからこそ、最後の戦いが迫っていた。私たちの運命を賭した最後の戦いが。
咲は目を開けた。それから折り畳み式ナイフの刃先を出した。
「じゃあ、私たちでこの事件を起こした代償を払おう」
ナイフの刃先が私の方に向けられた。彼女なりに悩みに悩んだ末の決断だったと思う。私はそれに同意するしかなかった。私にも罪はある。だから、私はナイフを向けられなくちゃいけなかった。なぜなら、私は向けられるべき存在だから。
「ここから先は崖よ。端の方まで行きましょう」
咲はナイフをこちらに向けて歩き始めた。
「わかった」
私は崖の方を向いて歩き出した。
耳に残るサイレンの音が遠くから聞こえてくる。私たちを追いかけている警察官たちがすぐそこまで来ているという合図だった。星空が見え始めた一月の夕暮れ。広大な海が目の前に広がり、少し荒れた潮風が流れてきて塩っぱい味が口の中に入ってくる。私は両手を上げて背中を気にしていた。背後には血に塗れたナイフが突きつけられている。ナイフを突きつけている咲の表情は複雑だった。
私を連れ去ったことで逃げきれなかったことへの後悔と、もうすぐ楽になれるという安堵の思いが同時に込み上げているように私は感じる。彼女の顔は数時間前よりさらにやつれていた。一方で私も背中にナイフを突きつけられている恐怖と彼女の死の気配を察して複雑な顔をしていたのだと思う。私と咲は一歩ずつ前へと進む。暗がりから微かに見える彼女のナイフを握る手は汗ばみ震えていた。
「由香里、もうすぐお別れだね」
「お別れって、どういうこと?」
「飛び降りようと思うの。この先から」
「そんな……」
悲しげだけど喜んでいるような調子で彼女はこう言った。彼女の言葉には普段から多くの含みがあった。この時もおそらくいくつかの意味があったと思うのだが、私はすぐに彼女の本意には気づけなかった。なぜならば、私たちは断崖絶壁の先の方へと歩んでいるからだ。私はこのまま彼女と飛び降りることになるのだろうか? 少なくとも私はそう感じた。
死への恐怖が私の心に芽生えたが、同時に、ああ、私はこのまま彼女に突き落とされても仕方のない人間なのだとも考えた。だって、私は彼女の苦しみにずっと気づけなかったから。私たちは一歩、また一歩と崖の先へと歩んでいく。
「孔雀座は結局見れなかったな……」
彼女は残念そうにしながらも呑気な声で一言呟いた。咲がどうしてここまできたのかを私は知っていたが、この言葉に私は何も言えずにいる。なんて言えばいいのかが咄嗟に判断できなかった。一歩、一歩と進むと次第に崖の先の全てを飲み込むような荒波が下の方から私たちを覗き込んできた。
私はこのまま助かるのだろうか。それとも彼女と共に死ぬのだろうか。日が沈み、近くにある灯台の灯りだけが私たちを照らしている。日が沈んだことで彼女の顔が見えなくなっていく。その暗闇の中で彼女はすすり泣いていた。彼女の涙をすする音が聞こえてくるのだ。
サイレンの音がさっきよりも近づいてきた。数分後にはこの辺りは警察官たちに囲まれているのだろう。咲は私と一緒に崖の下へと飛び降りようとするかもしれない。まもなく全てが終わろうとしている。太陽が沈んでいった海の遠くの水平線を眺めながら私は彼女との死を覚悟した。
何台ものパトカーが遂に私たちの後ろまで到達し、取り囲んだ。私と彼女の周りは一瞬のうちに明るくなって、後ろに目を向けると彼女の覚悟決めた顔が見てとれた。パトカーの群れから大勢の警官が現れた。警官の一人が叫ぶ。
「警察です! こっちに来て話を聞いてください!」
咲はそれを聞くと、私の首元を掴んでから体を警官たちの方に向けた。それから私の体を自分の方へ近づけてナイフを首元に突きつけて、警官たちに向かって叫んだ。
「動かないで! 動いたらこの子を殺す!」
私たちの最後の戦いが始まった。
3
咲の叫び声が冬の夕暮れ空に響き渡った。パトカーのライトがとても眩しかった。
「早まらないで! まだ間に合う!」
「いやもう手遅れよ! 私が友美を殺したの! もう取り返しはつかない!」
「そんなことないよ! だから早まらないで!」
「あなたたちが動かない限りは殺さないよ!」
私たちと警察官たちの間で膠着が続いた。
空はどんどん暗くなって、限りなく夜に近づいていた。何台ものパトカーのライトがこの場一帯を照らしていた。警察官たちは何もできなかった。動いたら咲が本当に私を殺すかもしれなかったからだ。
「ねえ、この世は狂ってるって思わない!」
咲が叫んだ。
「私は友美に傷つけられた! 友達だって信じていたのに! でも、彼女もまた傷つけられた可哀想な人だった! ろくでもない家族と何の意思もないのに人を蹴落とすことだけ考えている学校の連中に!」
咲の言っていたことはその通りだったと思う。友美は様々なことに傷つけられた。ろくに向き合おうとしなかった両親。だからこそ、彼女は人からの愛情を欲していたのだと思う。それでも、それを求めた相手が悪かった。自分のことしか考えていない薄情な連中に愛情を求めてしまった。だから彼女はそれを手に入れるためにはヒエラルキーの上に登るしかなかった。いつのまにか彼女はそれに流されるように咲への妬みのような気持ちが沸いたのだろうと思う。友美は得体の知れない狂気に取り憑かれていたのかもしれない。
その一方で咲も狂気に取り憑かれていたと思う。友美に傷つけられてナイフを持つようになったのは彼女なりに理があるのかもしれないが、やはり狂っていた。
「落ち着いて! ちゃんと話を聞くから、大人しくナイフを捨てなさい!」
警察官の一人が説得を試みた。それでも咲は聞く耳を持たなかった。
「嘘だね! 私の話なんて聞いても理解できないよ! 私だって理解できていないもの!」
「君の心の問題はちゃんと向き合うよ! 治療が必要だったら手伝えることは手伝う!」
「心の問題? 私の心は正常よ! どこも問題ない! ただ、私はどうしようもない衝動を抑えられないだけ!」
咲の手は相変わらず震えていた。彼女は不安定だった。不安定だからこそ、彼女が一番わかっていた。私たちの世界の狂気を。
「ねえ、君にはまだ未来があるはずだ、なのにどうしてこんなことをするんだ!」
警察官が説得を続けた。やはり最悪の結末は避けたかったのだろう。
「教えてあげる! 私は私が一番嫌いなの! だから死んでしまいたい!」
「だからといって、友達を巻き込むことはないでしょ!」
この時、彼女が一歩だけ後退りをした。警察官の言葉が響いたのかもしれない。
「それはそうね……」
気がつけば夜になっていた。冷たい風が体に突き当たっていて寒かった。私の手は悴んでいた。私は何も言えずに咲と警察官のやりとりを聞いていることしかできなかった。私は臆病だった。ここで何かを言えば何かが変わっていたのかもしれないのに何も言えなかった。私は咲のことが好きだったが、一方で実は彼女のことを怖がり続けていた。私はこの場で何かを言うことが怖かったのだ。だから何も言えなかった。
私は殺されたがっていた。彼女に殺されてしまうのならそれで良いと思っていたのに、生への執着が私の心に恐怖を生み出していた。「私を殺して」と言えたら、この後の私たちはどうなっていたのだろうか。
私が何も言えずにいると咲は震えながら、叫んだ。
「もう終わりするわ! 何もかも!」
時が来た。私たちの人生の終わりが。ここから咲は私を連れて飛び降りるのだ。だったら私はそれについていくしかない。私はそう覚悟した。生の執着を捨て去った。
私たちの人生が終わりを迎えようとした時、咲がとても小さな声で私に呟いた。
「ごめんね。大好きよ」
その刹那、ナイフが私の首元から離れた。後ろを振り向くと咲はナイフを自らの胸のほうに突き刺した。
「咲!」
彼女の胸のあたりにナイフが刺さった。刺さったままで彼女は後退りをした。その先は断崖絶壁。彼女は自らの胸からナイフを引き抜いた。引き抜いた瞬間、両手を広げて崖の下へと落ちていった。私はこの瞬間の咲の顔がどうしても忘れられない。満足そうな苦しそうな笑顔だった。
「咲!」
私は崖の下の方を見た。下の海にはもう何もなかった。
「ああ、そんな咲……、あああ!」
私の目の前から彼女が消えた。
彼女があっという間に居なくなってしまった。
この瞬間、私は急に彼女が言っていた言葉を思い出した。
「ねえ、私と来て。私のサイゴの旅に付き合ってほしいの」
私は、なぜ彼女が最後の旅と言ったのかが理解できなかった。だが彼女が消えた瞬間に全てが理解できた。
「ねえ、私と来て。私の最期の旅に付き合ってほしいの」
最後ではない、最期だったのだ。彼女は友美が死んでしまった時から、最初からこうするつもりだったのだ。私を残して一人で死のうとしていたのだ。彼女はこの旅の目的を成し遂げてしまった。彼女なりの人生最期の大冒険だったのだ。
「探せ! まだ生きているかもしれない!」
警察官たちが慌てて動き出した。
「船を用意しろ!」
「どこの署の船が近い!」
「海上保安庁に連絡して!」
後ろを振り向くと警察官たちが無線機でどこかに連絡をしたり、地図を広げて何かを話し合い始めていた。私のことなどお構いなしに。
私は膝から崩れ落ちた。目が崖の下の方へ向けられたままだった。このまま飛び降りようかとも考えた。すると、警察官の一人が私の手を掴んだ。
「あなたまで死んだら、すべてが無意味になる!」
直前まで咲のことを説得していた警察官だった。
「無意味ってどういうこと! あなたも狂ってるの!」
「僕も何でこんなこと言っているのかわからないよ! でも、君が飛び降りるのを止めないと、さっき飛び降りた子が報われない!」
彼は必死に私の手を掴み続けていた。
「それを決めるのはあなたじゃないでしょ!」
私は手を離して欲しかった。だが、彼は離さなかった。
「そうだとも! でも、君はここから飛び降りるべきではない! 僕はそう思う!」
「死なせてよ! 私には何も残っていない!」
「いや、死なせない! それが仕事だから!」
「仕事だから? そんな理由で死なせないでよ!」
「僕は君を死なせたくない、だって死なせてしまったら僕が一生後悔するから」
この言葉が私を呪った。死んでもいいとさえ覚悟した私の心に再び生への執着を生み出した。
冬の夜空を私は見つめた。そこには雲がかかってしまっていた。星が隠れてしまった。
結局私たちは、孔雀座を見れなかったのだと気づいた。
「ああ、何で、何でここまで残酷なの!」
私は夜空に向かって叫んだ。彼は何も言ってくれなかった。
「私たちの旅はどこまでも無意味だったの? 誰か、わかる人、教えてよ!」
彼が本気で私の目を見た。
「それは誰もわからないよ。でもね、いつかはわかるんだ。それがいつなのかは僕にはわからないけど、いつかは意味があったって思える瞬間がやってくるんだよ」
理屈ではそうだと私は理解できた。でも、私の感情が追いつかなかった。
「ええ、そうなんだよね……、けどさ、追いつかないよ。気持ちがさ!」
「ああ、そうだよ。それでいいんだよ! それが人の気持ちなんだから」
私の目に涙が溢れた。私は嘆いた。この世界の残酷さに。
「ああ、ああ……」
私には何もできなかった。
無力だった。
「死なないでね。いいね」
警察官は私にこう言い残して、違う人に私のことを任せて向こうのほうへと走っていった。私はこの警察官のことを今でも忘れずにいる。
私たちの旅が終わった。
4
咲が崖の下に落ちてから数時間が経った。警察はありとあらゆる手を使って彼女を探したが見つからなかった。彼女は落ちる直前に心臓の近くをナイフで刺したため、仮に見つかったとしても生存の可能性は絶望的に低かった。私は何もできず、近くの岩にただ無心で座っていた。途中で警察官の一人が気を利かせて毛布をかけてくれた。冷たい夜空の下で時間だけが過ぎていった。
しばらくすると車が一台やってきた。降りてきたのは吉原刑事だった。吉原刑事は私を見るなり近づいてきて、私のことを平手打ちした。
「あんたね! 死人を二人も出してどうするんだ! お前の方こそ狂ってるよ!」
その場に居合わせ警察官の一人が吉原刑事を止めようとしてくれた。
「吉原さん……」
「黙れ、このヒラが!」
結局、その警察官も青木さんと同じく彼女のことを止められなかった。
私は何も言えなかった。そうだ、私なのだ。結果的に私が二人を殺したんだ。私が全部の責任を果たさなくちゃいけないんだ。そう思った。
「なんも言わないのね、お前。この死神が!」
吉原刑事は私のことを殴った。自分の思い通りに行かなくて嫌だったのだろう。私は抵抗も何もせずにひたすら殴られ続けた。だって、私が死神だからだ。
「あはは! 死んじまえこの死神が!」
私はその場で倒れ込んだ。吉原刑事はなおも私を殴り続けた。他の警察官たちが吉原刑事のことを止めようとするが、止められなかった。
私はひたすらに殴られ続けた。ここで殴られ続けて死んでしまっても構わないとさえ思った。
「ねえ、あんたなんで抵抗しないの……」
だが、次第に吉原刑事の方が殴る勢いを抑えはじめた。
「なんで、なんで抵抗しないの……、怖い……」
「だって、私は死神だから」
吉原刑事が初めて後退りをした。彼女の顔は恐怖で溢れていた。
私は残った体力を使って立ち上がった。
「死神だからさ、感じないよ痛みなんて」
「じゃあ、あの二人が死んでも痛みはなかったの!」
「あったよ。でもね、おかげで今は何も感じないの」
「おかしい、おかしいよあんた……」
「おかしいのはどっちもでしょ」
「私は、おかしくない。狂ってない。断じて違う!」
「あら、そう。じゃあ、この状況を見て楽しんでいたあなたは正常だって言うの?」
「そうだ! その通りだ!」
「じゃあ、私のことを心底恨みながら、死んでくれ!」
今度は私が吉原刑事のことを殴った。他の警察官たちはもうこの状況を見ているしかできなかった。
私は死神だ。こんな刑事なんて殺してやる。そう思って何度も殴った。
さらに一発殴ろうとした、その刹那。
「やめて!」
「これ以上はやめて!」
なぜか、どこからか咲と友美の声がしたような気がした。幻聴だったと思う。それでも、私には二人が私のことを止めようとしているような気がして、私は吉原刑事を殴るのをやめた。
「ああ、ああ、そうね。私が愚かだった……」
「どうしたの……」
吉原刑事が私に尋ねた。
「どこかから二人の声がしたの」
「二人ともここにはいないのよ!」
「そうね、もう居ない。もう居ないけど、私の中にはいるの」
「二人はいないのよ! 目を覚ましなさいよ!」
「だめ、そんなことしたら私の心が死んじゃうよ……」
「だったら死ね」
そう言い残して吉原刑事は車の方へと戻っていった。
「ああ、そうね。もう二人はいないのよ……」
私は立っているのが精一杯だった。それでも咲と友美はもう居ないという現実に気持ちが引きずり戻されて、私はついに倒れてしまった。
「あああ!!」
私は叫んだ。自分の叫び声だけが冬の夜空に響き渡っていた。
「死んじゃったよ! 二人とも死んじゃったよ! 落ち着いて! 落ち着いてられるか! 死んじまえ! 死にたくねぇよ! 私は誰? あなたは私! 咲よ! いや、友美だよ! そんなことない! 私は私は、誰?」
これ以降、三日間の記憶が私にはない。一時的に自分が誰なのかで混乱しはじめた。その場にいた人から後で聞いた話だが、私は一人で会話を続けて、それから自分のことを殴りはじめたという。やがて、気を失ってしまったようで、気がついた時には病院のベットで横になっていた。
「目が覚めた!」
目が覚めた時、私のそばには青木さんと両親がいた。
「由香里!」
「よかった! 目が覚めて本当に良かった!」
「ここは?」
私は混乱していた。目が覚めたら朝だったからだ。
「病院よ。目が覚めて本当によかった!」
お母さんとお父さんは抱き合って喜んでいた。
「至急、医者を!」
そう言って、青木さんは部屋を後にした。それから彼が昼過ぎまで戻ってくることはなかった。
医者が来て、私のことを診察した。
「名前わかるかな?」
「由香里です。佐野由香里」
「なら良かった」
医者は診察道具を置いて、両親の方を向いた。
「もう大丈夫ですよ。あとは体の回復を待てば退院できると思います」
「ありがとうございます!」
「本当にありがとうございます!」
両親は深々と頭を下げた。医者は一礼すると病室を出ていった。
状況が落ち着いたのを見計らって、青木さんが私の病室に再びやってきた。
「まずは、うちの署の吉原について詫びなければなりません……」
青木さんは地面に座り込んで土下座をした。
「青木さん、そこまでしなくても……」
「いいや、これくらいしないと、何も変わらない」
少しの間土下座をしてから青木さんは立ち上がった。
「吉原刑事は謹慎処分となりました。じきに正式な対応が決まると思います」
「そうでしたか」
「私は、あなた、いや、あなたと倉持さんと石崎さんに何て言ったら良いのかわからないのです。私はあなた方に許されようとは思いません。ただ、あなたたちに謝っておきたかった。私はあなた方のことをありのままに受け止めておきたい。事件の加害者、被害者という関係性ではなく友達同士の三人としてあなた方のことを見ていたい」
私は何も言えなかった。気持ちの整理がついていなかった。何も言えずに時間だけが過ぎてしまった。
「謝るのは早急過ぎたかもしれませんね。では、失礼します」
青木さんが病室を出ようとした。私は今は気持ちがまとまっていなくとも言えることが一つあった。
「あの、待ってください!」
青木さんがこちらの方に振り返った。
「あの、ありがとうございます。謝ってくれて。咲と友美が許してくれるのかわからないし、私も今は気持ちの整理がついていないです。だけど、これだけは言えます。私たちを私たちと認めてくれてありがとうございます」
青木さんは少し微笑んで、一礼してくれた。
「こちらこそ、ありがとう」
青木さんは私の病室を後にした。
私たちは私たちなのだ。青木さんはこの事を受け止めてくれたのだ。
夜になって、お父さんとお母さんは眠ってしまっていた。一人で起きていた私は窓越しに夜空を見つめた。ビル街の光のせいで星は何も見えなかった。看護師さんが運んできてくれたスープを飲みながら私は無心になっていた。何かをしようとする力がほとんど湧かなかった。いつの間にか眠くなってしまって、気がついたら目を閉じていた。私の中には何も残っていなかった。
次回、幕間3