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現地での向き合い方

 こんにちは。つっちーです。

 前回の記事で綿貫さんが「私たちが途上国の人に伝えられること」を書いてくださいました。そこでは、フィールドにいる「私」という主体は結局何がができるのか?というフィールドワークをすれば、誰しもが戸惑い、ぶちあたる問いについて、綿貫さんなりに考えを深めていました。

 僕もそれを丁寧に読んで「なるほどな」と共感することが多かったです。
そして、僕の中にある近いエピソードやそこで考えたことを思い出しました。


 改めて自己紹介をしますが、僕はスリランカの山間部ラトゥナプラ市をフィールドに、豪雨洪水災害を事例にしてどのように現地で復旧復興が築かれていたのかを現地調査をもとに考察しています(そのきっかけや意義はおいおい話そうと思います)。

 僕のフィールドワークで大切にしていることは、現地の彼ら彼女らの生活や息づかいをより身近に感じる姿勢だと思います。そのためには、彼ら彼女らの語りに耳を傾け、それらを文字や形にすることが何より大事です。

 しかし、ただ書きおこすだけでなく、彼ら彼女らはどのような空間や歴史的な履歴の中に佇んでいるのかも知る必要があります。そのために、インタビューだけのデータだけでなく、事前や調査中、データ編集中に文献調査を欠かさず行います。スリランカの環境や文化、歴史、都市形成、政治経済体制、家族などを一つ一つ丁寧に紐解いていく。

 すると、ある時文字で読んだことと語ったこと、自らが経験して思ったことなどがピタリと重なったり、逆にズレがあったりします。そこをさらに深掘りしていく。それを続けていくことによって、問いを見つけつつ、その答えを多層的な言葉やデータから探すことができるのです。

 それらを通して、僕は地域固有の復旧復興のあり方を模索することができるのではないかと思い、フィールドワークをしているのです。


 前置きが長くなり、本題に戻るのですが、スリランカで現地の人々から学び、そこで得た視点を持って日本に戻ると、その視点は日本の様々な災害現場を見聞きする際にも新たな問いを生み出してくれることになります。

 例えば、被災者に対してよく耳を傾けると、国・地域の文化的・社会的背景とその文脈を無視した開発や支援が災害復興の過程や現場において主体性の構築を難しくしていることが課題となっていることにうっすら気づきます。

 「私達ではどうしようもできない」「周りの人の助けを待つしかない」「苦しくて、もうダメかと思った」

 私が2016年熊本地震の際に災害ボランティアとして復旧に携わった時や、2017年5月のスリランカ豪雨の後に洪水被災者にインタビューをした時、また、2019年8月に九州北部で起きた令和元年豪雨で被災した地域に足を運びボランティアとして携わった時、復興が進みつつある3つの現場で、被災の凄惨さを前に自らの力だけでは太刀打ちできない諦めにも似た様々な想いを被災者が語っていたのを聞きました。

 これらの言葉にはどのような背景や思いがあるのでしょうか。そこにどんな課題が潜んでいるのでしょうか。もしかしたら、こういう思いは僕が参与した現場だけに見られた現象ではなく、地域の発展によらず、グローバルでもローカルにも通底する現象じゃないかと思いました。

 災害の現場だからかと僕は思うのですが、決して復旧復興の現場は悲しいことばかりでひしめいているわけではありません。多くの人は災害という契機を通して、むしろ自分の生を受け入れ、前を向ける人もいます。でも、その反対も当然います。でも、その違いは何かについて踏み入れるわけではありません。

 長く現場にお世話になっているわけではないので、今の僕では計り知れないことばかりです。でも、たくさんの人や現場に出会いながら、差し当りの理解を何度も更新し、これから現場に深く根ざしながら、葛藤や悵然とした気持ちにどう向き合っているのか、解決に向かおうとしているのかは気になるところです。


 そうした現場や人の様相を捉えたい時は、僕はひたむきにその人に寄り添います。それは「傾聴」に近いです。つまり、あれやこれやと質問したり、僕・私の意見をガンガン伝えるという営為より、むしろ、その人の話したいことや考えたこと、言葉一つ一つを時間をかけてでも掬う営為に集中するのです。

 お互いに訥々と話し、聞く時間を通して、次第に「そこで私(僕)は何を考え、行動したのか」「それは今の自分にとってどのようなことを及ぼしたのか」といった気づきを見つける。それも現場での向き合い方の一つだと僕は思います。


 フィールドワークでは信頼関係をいかに築くかが重要です。綿貫くんの衝撃的で計り知れない努力(歌を歌うとか)のように。他にもいろんな築き方や現場との関わり方があります。

 傾聴はあくまで一つの関わり方にすぎません。正解も不正解もないです。

 あることを知りたいことという現場に迷惑や参与する側の意図を一旦忘れ(よそよそしく隠すのもよくないですが)、なぜこの現場に関わるかという目的の性質や場所・人々の様相に適切したコミュニケーションを選ぶことで、また異なる信頼関係が構築されていくのではないでしょうか。


 そうした姿勢を自ら苦節して作り出して、初めてフィールドワークが始まるのではないかと僕は思います。



今日のノート担当:つっちー(スリランカ・防災)


 

 

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