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セッションが伝統になるまで

今日のアイルランド音楽は他のどの国よりも、パブでのセッションが音楽シーンの中心となっています。初心者から世界ツアーを行うプロまで、自分たちの楽しみのためにこの非公式な集まりに参加し、曲を交換します。こうした現状から、「アイルランドでは、ずっと伝統的にパブでセッションが行われていた」と思われたとしても仕方ありません。それでは、いったい、いつ頃からパブでのセッションがアイルランドの「伝統」に加わったのでしょうか? 


18世紀から20世紀初頭までの音楽シーンと演奏形態

かつて、ダンスと音楽は人々の家の台所、農家の納屋、四つ辻(クロスロード)、定期市(フェア)といった場所で行われ、パイプやフィドル、フルートといった音楽家は、たいていソロで演奏していました。アイルランドの音楽は、こうした250年にわたるソロ演奏の伝統に支えられています。

新年の夜、パイパーのソロ演奏で男女が踊っている様子。アイルランド、1848年


一日の仕事を終えた夕方に父親は息子に楽器を教え、日曜日のミサが終わった後に近所の家に集まり、そうやって何世紀にもわたってダンスと音楽が家庭や地域社会で楽しまれてきたのです。

ランブリング、クロスロードダンス、ハウスダンスといった言葉は、こうした昔からのアイルランドの音楽シーンを呼びあらわしたものです。

20世紀初頭になおも見られたクロスロードダンス。
田舎ではいつまでも暮れない夏の夕刻に、
道ばたで踊られました。20世紀初頭。


今日、私たちが知っている特徴を備えた「パブ」は、19世紀前半に登場しました。パブでは放浪の職業音楽家が客相手に演奏することはあっても、長い間、そこは男性達が政治や仕事のことなどを静かに語りあう、男性の居場所でした。


イギリスから独立した20世紀前半の音楽事情

アイルランドでは、カトリック教会の圧力のもと、1935年に「公共ダンスホール法」が施行され、長年親しまれてきたクロスロードダンスやハウスダンスが法律で禁じられました。

その頃のダンス音楽は、田舎、貧困、無教養、後進性に結びつけられ、町の人々から軽蔑されていました。パブでは演奏が禁止されていたのではなく、音楽家が公共の場であるパブで演奏したがらなかったのです。

行き場を失った音楽家は地元でケーリーバンドを結成し、活動の場を見い出します。教会のホール演奏にふさわしいように健全さをアピールし、充分な音量が得られるように、大勢で合奏するようになりました。

よそ行きの格好で写真に収まる
ゴルウェイ郡バリナキルケーリーバンド
前列右端の女性がフィドラーのアギー・ホワイト


パブセッションの始まりは意外にもロンドン

1940年代、アイルランドは不況に見舞われます。ロンドンには、第二次世界大戦後の復興のためにアイルランド人労働者が大量に流入していました。

彼らが住んでいた郊外のフラットやホテルは、住宅事情が悪く、ダンスや音楽ができるような広い台所もありませんでした。そこで、彼らは仕事を終えると、北ロンドンの裏通りのパブに集まったのです

こうして、1946年頃には、アイルランド移民は北ロンドンの裏通りのパブを文字どおり「占拠」し、音楽を演奏し始めました。


初期のセッション形態はライブ

1950年代から1960年代にかけて、ロンドンでは、何十軒ものバーやパブでアイルランド音楽が演奏されるようになりました。しかし、それはまだ、今日のセッション形態には至っていませんでした。

店は音楽がお客をたくさん呼び込むよい手段であることに気づき、音楽家は楽器のできる知人・友人を誘って、店から出演料をもらってライブを行いました。

当時、パブでのライブは画期的で、これがパブセッションと呼ばれた形態です。
中央のフィドラーは、北ロンドンのパブで長年セッションホストを務めたジミー・パワー。

こうした「パブセッション」は大盛況となり、ある音楽家は、この「副業」が非常に儲かり、多額の税徴収の対象になっていることを知り、泣く泣くセッションの継続を諦めざるをえず、70年までには終わりを告げました。

(これについての詳しい記事→『イギリスで花開いたアイリッシュシーン』)


音楽の認知度が高まり、音楽をめぐる状況が変化

アイルランドでは、1951年にアイルランド音楽家協会(ĆCE)結成されたことが、伝統的な音楽が見直される大きなきっかけとなりました。パドリック・オキーフのような優れた演奏家が店と契約して演奏し、それを見にロンドンや国中から観光客がパブにやってきました。

パブで演奏する最後の巡回教師
パドリック・オキーフ ĆCE所蔵

ĆCE結成から数年後に始まった音楽祭(フラーキョール)では、開催地のパブや路上に音楽家が集まって演奏するようになりました。パブでの演奏はかなり組織的に始められ、いったん確立されると、今日のような誰でも参加できるセッション形態へと発展しました。


セッションが定着したのはフォークリバイバル以降

1960年代後半には、アメリカやイギリスの都会の若者の間で、ラブ&ピースの合い言葉とロックと共に、フォーク的なものに対する関心が新たに生まれます。それがフォークリバイバルです。そのブームはアイルランドにも飛び火します。

1970年代になって、アイルランドでは男性専用だったパブは、ようやく女性も入りやすくなりました。多くの若者が楽器を手にするようになり、女性も加わり、こうしてついに、パブセッションはアイルランドに定着したのです。

セッションでは、フィドル、フルート、ホイッスル、イリンパイプス、アコーディオン、バウロンといった楽器がよく使われます。ギター、4弦バンジョー、ブズーキによるコード伴奏も取り入れられ、伝統的な音楽に奥行きと多彩さが加わりました。

こうした合奏参加型のセッションのやり方は、スコットランドやウエールズなどでも、リバイバルの際に応用されました。ビール代以外に費用がかからず、曲が学べ、ユニゾンで簡単に合奏が楽しめ、仲間と交流できる、といった点が多くの人々に受け入れられ、こうして、セッションはアイルランド音楽の新しい伝統に加わったのです。


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パブは長年男性ものだった

アイルランドのパブは、イギリスのパブとは事情が異なり、ビクトリア時代以降、女性の立ち入りが社会通念上認められていませんでした。女性がビール(エール)を飲みたい場合、男性と同伴の上、スナッグ(snug)と呼ばれるパブに併設された小さな個室で飲むことはできました。1970年代になっても、男性の付き添いがない場合、オーナーが女性の入店を断ったり、女性にビールを提供することを拒否したりすることは合法だったのです。女性がひとりでもビールを注文できる権利を得たのが、男女差別を撤廃する法律が成立した2000年になってからのことです。もし、古いパブを訪れたら、この動画にあるようなスナッグを見つけてみてください。


Women's History Association of Ireland(アイルランド女性歴史協会)


映画THE BANSHEES OF INISHERIN(イニシュリン島の精霊)2023年 制作アイルランド・イギリス・アメリカ

舞台は1923年のアイルランドの架空の島。この映画では、パブでのセッションが描かれています!しかしこれは、監督が創造したストーリー上の設定です。「ずっと伝統的にパブでセッションが行われていた」というのはいかにもありそうな光景ですが、これは、あくまでも映画の中の設定です。この映画では、狭い島での変化のない退屈な暮らしと、閉鎖的な人間関係がさまざまな狂気を生みます。


トップ画像:Mark Longair 

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