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詩を書くために、時間とどう向き合うか

 最近になってわかったことがある。
詩というものは、忙しい時でもなく、幸せすぎる時でもなく、自分自身の心、即ち魂が、水に浮かぶようにゆったりとしている時に、湧水のように湧いてくるものなのではないか、ということに気がついた。私の場合、エッセイはわりと呼吸をするようにすらすらと書ける方だと思うが、詩はわりと頭のなか情景を思い浮かべ、特に私の場合はその情景のなかで自然とプロットが立ち上がり、もう、紙の上に言葉にしたときに自然と詩になっているというパターンが多いので、そんなに何度も何度も推敲した記憶がない。某詩人に昔、「思いついた言葉を、そのまま詩にしているから、感覚的で深みがない。だから、もっともっと推敲したほうがいい」とアドバイスを頂いた。だから、最近は書いた詩を見直し、少しずつ推敲するように心がけている。最近になって特に思うことは、詩を書くことも、エッセイや書評や詩人論を書くことも、「日常のやらねばならないこと(仕事や家事)のついで、余暇」という感覚ではなく、寧ろ仕事と同じぐらい大事なもので、だからこそ手を抜かずにしっかり心を込めてやりたいと思う。どうしても働いていると、仕事が終わってから書くのはすごく億劫になるし、体力があっても、明日の仕事のために、風呂に入り、身体を休め、早めに寝て、明日の通勤あるいはリモートの仕事に臨まなくてはならない。そうすると、時間配分を考えるなら、平日の早朝の1時間半ぐらいの時間とか、土日の朝や夜になる。特に結婚していて伴侶がいるとなると、二人の時間もどうしても確保しなければならない。会社の面談で、運良く週3日〜4日の勤務が許されるなら、その平日の1日が2日をフルに詩と向き合う時間に遣える。それがダメだったら、スキマ時間をどう確保して遣うかだろう。時間は有限である。だからこそ人は懸命になり、だからこそ、詩を書き、その詩が輝くのだろう。生きることとは、限られた時間とどう向き合うか、なのだと思う。
それは、病気や怪我で苦しんでいる人たちだけではなく、皆一人一人が考えることだと思う。

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