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思い出のカレー

 私は齢は43であるが、今まで「食」についてそんなに強いこだわりはなかった。例えば、銀座のどこどこのあれが美味しいとか、浅草には有名な美味しいすき焼き屋さんがあるとか、横浜中華街のあれは美味しいとか、確かに美味しいと感動する気持ちは大事なのだけれど、それを、「絶対これは食べるべし!」みたいな強い念を押すような気持ちには、今までそんなになったことはなかった。少なくとも、東京育ちで若い頃はかなり舌の肥えていたらしい私の母のほどには。
 けれど、一つだけ上げるとすれば、私は、日比谷公園の中にある、明治時代からあるという、「松本楼」のレストランの名物のビーフカレーだ。
 これもやはり、母から教わったのだが、私がまだ大手の工業系の企業で働いていた時、そこは皇居が近かったので、母が「日比谷公園の松本楼のカレーは一度は食べてみなさい。きっと感動するから。10月1日にはカレーが10円で食べられるのよ」と言われて、でも、私はお昼は仕事の関係もあったし、休みの日はわざわざ職場近辺まで出掛けようと思わなかった。
 しかしある冬のクリスマスイブの日、私の会社が今年の忘年会が松本楼で開催されることを知らされたので、弊社は松本楼の1階と2階を貸し切って、忘年会が行われることになった。
 当日は私は会社の女性の先輩方や、同じ部署の先輩方と一緒に松本楼に向かった。まるで御伽噺の森の中のような神秘的な夜の日比谷公園の一角に、私たちを(いらっしゃい、お待ちしておりましたよ。)と微笑むタキシード姿の支配人のような落ち着いた笑顔で、ほんのり柔らかな明かりを灯した松本楼が見えた。なかに入ると驚いた。わりと落ち着いたシンプルなホールで、何故か人の心を和ませるような癒やしの空気のようなものが流れていて、そして、支配人の方も、やはり黒のタキシードではないが、きちんとした正装をしていて、そして、人に安心感を与えるような微笑みと言葉遣いで丁寧に接してくださった。
 社長による今年一年の労いの挨拶、そして幹事による乾杯の音頭で、忘年会がスタートした。
料理はバイキングだった。会社の皆は、私より年上だったり、勤続年数も長い人が殆どだったので、皆、松本楼のカレーの味は熟知しているようだった。でも皆、やはり一目散にカレーをトレーによそっていた。私も負けじと、トレーに、カレー、ビーフシチュー、ホワイトシチュー、タンドリーチキン、ローストビーフ、などをよそって食べた。
 その時、口に含んだカレーの味を私は生涯忘れないだろう。あの、口いっぱいに広がるコクの深い、ほのかな辛さと、長い間受け継がれてきたであろう、秘伝のレシピを思わせる、心の底に響いてくるような、松本楼のビーフカレーだから持っている、優雅な味わいを…。
 帰りに私たちは支配人の方から、お土産にとビーフカレー、ビーフシチュー、チキンカレー、ポークカレー、そして、ホワイトシチューの5種類の松本楼のレトルトカレーを頂き、帰るために東京駅に向かっていった。
 私は家に帰ると母に、松本楼での楽しかった、そして本当に美味しかったカレーの話と、お土産に頂いたレトルトカレーたちを披露した。
 母は、「流石は松本楼ね。良い思い出ができて良かったわね」と喜んでいた。
 それから時を経て、私は一度だけ、日比谷公園を一人で散歩に行き、松本楼であのビーフカレーを食べた。やはり、あの味だった。変わっていなかった。私はゆっくりと味わい、その美味しさに心のなかで涙していた。

 それから約10年強時を経た、つい先日、私はLINEや電話やリモートでやりとりして、やっと逢えた彼と、松本楼を訪れて、一緒にランチにビーフカレーを食べた。名古屋から来た彼は、「うわっ、こりゃ旨いわ!」と舌鼓を打っていた。私も満面の笑みになり、二人で幸せのため息をつきながら、ゆっくりと、松本楼のカレーを味わっていた。
 

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