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幼い頃のはなし

幼い頃から変わった子だったらしい。
2歳を過ぎれば敬語まで使いこなす、おませな子だったそう。
自宅の天井の角には"イチイちゃん"というお友達が居たらしく母は頭がおかしいと思って病院に行くか悩んだという。
4歳頃になると私は新聞が好きで、毎日読んでいた。
とは言っても内容を理解するわけではなく、ひたすらに、漢字にだけ丸をつける作業をしていた。漢字がとにかく好きで、分からないものは全部読み方を聞いて回るほどだった。
自分で言うのもなんではあるが、勉強はよく出来た方だった。

小学校に入ってからも、成績が良いと母の機嫌が良かった。父は家にほとんどいなかった。
入学式も、卒業式も運動会も授業参観も、いつも父は来なかった。

色々な状況が大きく変わったのは、私が小学生になった頃だった。
父と母の喧嘩が増えた。
"飯がまずい"そう言って母に向かって醤油皿を投げたり、枯れた花を捨てた母に向かって花瓶を投げたり、弟を妊娠中の母の上に馬乗りになって殴ったりしていた。
毎晩毎晩、大きな音と母の啜り泣く声に耳を塞ぎながら寝た。

弟が生まれたら何か変わるかと思ったが、状況は何も変わらなかった。

唯一言われた父からの言葉がある。
"生まれてこなきゃ良かったのに"
今でも明確に覚えている。
お風呂場で妹が父に話を聞いてもらえなくて、ぎゃん泣きしていた時につぶやいた一言を今でも忘れない。

ほどなくして父と母は離婚した。
それで正解だったと思う。
でも、あれだけひどいことを言われて
楽しい思い出なんかほとんどないのに
最後の日は、楽しかった。

コインの回し方を教えてくれた。
ジェンガを一緒にやってくれた。

それは唯一、父が私にくれた思い出だった。

母は離婚した後、精神的に不安定になった。
知らない間に、冷蔵庫から食べるものを出してひたすらに食べたり、急に泣き出したりと大変で、さすがにしばらく祖母が一緒に暮らしてくれた。

でも、その様子を見て私は
"私が最終的にはこの家族を背負って生きていかなきゃいけないんだ"
そう思った。
母が、父親の役目と母親の役目を担わなきゃいけないと決意したように、私も"家族"に縛られるようになった。

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