見出し画像

note執筆にAIが導入されるかも?

(僭越ながら結論から述べさせていただくと、僕は生成AIに関して否定的です。ここでは呆れられるような、技術論抜きの幼稚な「感想文」しか書いていません。申し訳ありません。もしよければ、ご容赦下さい。それでも読んでやるか!という方には最大限の感謝を致します)

 note代表の深津貴之さんがtwitterに書かれた声明を読んだ。


 そうか、noteの執筆にもAIが関与するようになるかも知れないのか……。実装は未定なうえ機能もハッキリしないので、今の時点では何を言ってもいい加減な応答にしかならない。そのうえで、最低限言えることを無理矢理に絞り出すと、「まだまだまだまだ僕はAIは使いたくないよ」ということだ。

 AIニュースを読むたびに創作について考えてきて、毎日態度がコロコロ変わって来た。

「著作権ロンダリングを繰り返すAIイラストが倫理的に危険でも、これから何年も経てば脳の処理の仕方すら変わるかのように、違う倫理が生まれてしまうのかも知れない」

とか

「AIが小説を書くのだとしたら僕が書くことはバカバカしくなりそうなので、なぜ書くのか、創作について一から考え直さないとな」

とか

「AIエンジニアの努力を尊重したいけれど、クリエイターの努力や感情を踏みにじっている以上、win-winの関係は難しいだろうな」

とか色々。

 そのなかで唯一変わらなかったのは、「僕は世の中の時間軸から束の間でも離れるために、創作をしてきたのだな」ということだった。毎朝起きて満員電車に乗る人生が嫌だった。ふつうの幸せではなく、人生を隅々まで味わって死ぬために、神聖視して創作に励んできた。資本主義の時間からの逃避と言い換えてもいいかも知れない。

 「智ちに働けば角が立つ。情に棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」

夏目漱石「草枕」

 あまりにも有名な文章だ。夏目漱石が「草枕」で書いているような、もしかしたら後ろ向きな情熱があったわけだ。僕は世の中から逃げたいし、なんなら時空も超えたい。創作にはそういう力があると信じている。大好きなものに没頭して、夢中になって、時間を忘れるというのは、たしかにどこか逃避的な側面があるが、死ぬまで続けていきたい。

 いっぽうで、AIエンジニアの技術楽観論にも同じような夢があるような気がする。そのうえで、事実、先進的起業家やエンジニアからは、そっちのほうが実現可能性があるとして尊重されている。
 たとえば落合陽一さんやシンギュラリティサロンの先生方が仰るように、AIやアンドロイドによるデジタルネイチャーの実現は技術的に充分可能なのだと思う。

 生成AI開発者のあるふさんがtwitterで書かれているように、個人環境でもClean Diffusionを開発できる(凄まじい努力と狂気!!)。だから、マイクロソフトがopenaiに100億ドル投資するならばもっとすさまじいことになる。指数関数的にコンピューターの計算速度は向上するし、ムーアの法則的に量や速度が質を確保していくということが加速する、とも考えられるだろう。ネット上を回遊していると、ごくたまにAIを加速主義となぞらえて批評している人がいるけど、結論を考えずにひたすら進歩の速度を上げるということを重ねているのだと思う。

 効率を上げていけば、簡単なプロンプトでも絵や動画や小説が出力できる。他の職業にも応用される未来はすぐだろう。クリエイティブの分野に関して言えば、これまで絵や動画や小説が描けなかった人も、既に描けている人も平等にAIによる出力ができる。AI支持者の方の言葉を借りるなら、それがクリエイティブの民主化だ。

(僕は著作権ロンダリングやディープフェイクをはじめ、AIを使った嫌がらせを散々見てきているので、決して称賛する気にはならないが。)

 しかし、それってそもそも資本主義の時間を加速しただけなんだよな。個人の主観でしかないので、あまりピンと来ない人も多いと思うけれども。時間軸から逃げたくて創作をしているのに、AI技術によってもっと商業的な時間に創作がとりこまれるのは、今の資本主義より息苦しい。

 どういうことだろう。

 もしも効率だけを求めているならば、イラストをnovelAIやDreamBoothやMJに読み込ませて翻案して貰ったほうが絶対に早い。(細かい人間の手による調整は必要だが、やがてそれも不要になるだろう。AI開発者もそれが夢なのかも知れない)。小説も、今より進化したchatGPTのようなものと共作したほうが手っ取り早く量産できるだろう。経済的合理性を考えればAIを使う人材になったほうが良いのかも知れない。

 しかし勇気を出して言えば、人間は合理性のためだけに生きているわけではない。少しずつ手触りを確かめながら生きていきたいと思うのが、素朴だけれども今言える精一杯の「感想」だ。毎日自分の文章を書いて、少しずつサマになっていくのを確認するのは何よりも喜びで、一瞬で誰かに翻案・出力されるのは僕なら耐えられない。個人的には、消費者としても生身の人間が描いた作品にしか興味がない。一人の人間が生きて少しずつできることを増やしていくのが楽しいし、それは他の技術を学びながらでも変わらない。

 note執筆にどのようにAIが導入されるのかはわからないが、「僕は使わないよ」とはここに書いておく。

(僕以外の方が使う分には当然構わない。よほど酷いことにならない限りは、僕が差し出がましいことを言うべきではない。現在のフォロワーさんが書かれている、生身の人間の文章が僕は一番好きだし、もしよかったら、ずっとそのままで書いていて欲しいとは思っている。しかし、もしもAIを導入したい方がいればそれは静観するしかないと思う。少なくとも、note公式が導入したAIを使った方を批判する権利は僕にはない。)

 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?