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小説における個性的な登場人物と、普通の優しい人物が描くグラデーション

 小説を書いていると、ついエキセントリックな人物を出したくなるし、自分が読者でもそういう個性的な人物に惹かれる。話の中心になるのはいつも個性的な人物が引き起こす事件であり、普通の人は主人公でも引き立て役に徹したり、触媒のようなものであることが多い。なにはともあれ、次になにをしでかすかわからない、現実にいたら困るような人物に惹かれるし、書きたいと思っている。

 ドストエフスキーの「悪霊」に出てくるキリーロフは、自殺することで自分が神になるという奇妙な思想「人神思想」の持ち主だ。常に白湯を飲みながら部屋のなかをうろうろしていて、革命家の仲間たちに「人神思想」を語ったり、白湯を勧めてきたりする。読んでいると、彼が次にどんなことを言い出すのか気になってくる。言動の予測不可能性。そして、その奇妙さから、キリーロフの個性が物語上でどんな顛末を迎えるのかを見たくなる。やっぱり自分で死んでしまうのだろうか?意外と幸せな結末を迎えるのだろうか?キリーロフは最期までキリーロフらしい変人っぷりを見せつけてくれて、読者は戦慄するわけだが、とにかく強烈な個性というのは人間性から離れたものだと思いがちだ。自殺することで神になるという一点を抜き出しても、それは抜きんでた小説的個性である。

 繰り返すが、個性というと、どうしてもエキセントリックなものを考えがちだ。顔が半分燃えているとか、自動小銃でジャグリングしているとか、自分で書いててよくわからない例えだけど、とにかくそう思う。思想が人に受け入れられないものだったり、外見や服装が奇抜だったりすると、その登場人物は個性的だということになる。

 しかし、本当にそれだけだろうか?

 個性がインフレを起こしている少年漫画なんかを読んでいると、「そろそろ普通の人が出てきたら面白いのにな」と思うことがありませんか?僕は最近、「ふつうの人がふつうのことをするのも個性だよな」と思うところがあって、小説内におっとりした中産階級的な人物を出すことにしている。あるいは、過酷な状況でも常識を捨てない普通の人々を出すことにしている。激しい個性はないけれど、彼ら彼女らの優しい行動が読者に沁みてくるといいなと思っている。書類棚の整理が上手とか、仕事しているときにちょっとコーヒーを差し入れてくれるとか。犬の散歩が上手いとか。あるいは、熱を出したときに看病してくれるとかだ。

 それだけで読者が面白いと思うかは微妙では?という言葉が天から降って来そうなので書くと、小説というのは色んな個性がグラデーションを描いてはじめて豊かになるものだと思うので、そこには当然ふつうの人の居場所がある。やさしいことをする場所もある。

 以前読んだ、日本中でテロが同時多発的に起こる小説でも、普通の人の優しさが起点になって、やり取りが激しい豊かさをもった場面があった。殺人事件の容疑者として激しい取り調べを受けたあとの男のもとに、恋人の女性がスターバックスのマフィンをもってくる場面がある。無実なのに不当な取り調べを受けた男は疲労困憊している。いかに刑事の言っていることが間違っているか絶望的な調子で語る。そして恋人の女性と相談するなかで、彼女の優しい言葉が染みてくるのである。

 しかし、恋人の優しさは、男が本当に事件を行ったものだという前提で「正直に話して罪を償って、一緒に生きていこう。私は見捨てないから」という論旨のものだったので、話はまた複雑になっていくのだが、これこそグラデーションである。色んな普通の人がひしめきあっている、しかし激しく豊かな小説だ。平野啓一郎の「決壊」という小説なので、もし興味を持たれて、時間と気持ちに余裕があったら読んでみて下さい。

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