在原業平と藤原実方にあやかろうと上賀茂神社の境内社を巡る
こんにちわ唐崎夜雨です。
京都市北区の上賀茂神社、境内散策の続きです。
上賀茂神社は正式名称は賀茂別雷神社ですが、通称のほうが通りがいいようなので本文では上賀茂神社とさせていただきます。
これまでの投稿で上賀茂神社の御本殿から貴船社、片岡社、須波社を巡りました。
須波社から橋殿を渡らず川沿いに進むと岩の上にたつ岩本神社がある。
ご祭神は底筒男神・中筒男神・表筒男神。
また授与所のすぐ脇、御手洗川の橋のたもとに橋本神社がある。
ご祭神は衣通姫神。
いづれも大きな構えではありませんが、なかなか思うところのある社です。
岩本社と橋本社は『徒然草』(67段)に記されています。
そんなに長いものではないので、引用してみます。
徒然草 第六十七段
賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひまがへ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼びとどめて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗に影のうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚、
月をめで花をながめしいにしへのやさしき人はここにありはら
とよみ給ひけるは、岩本の社とこそ承り置き侍れど、おのれらよりは、なかなか御存知などもこそ候はめ」と、いとやうやうしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて手向けられけり。誠にやんごとなき誉ありて、人の口にある歌多し。作文し、序など、いみじく書く人なり。
古来、岩本社は在原業平を、橋本社は藤原実方を祀るとされていたようです。
『徒然草』では、岩本社・橋本社の祭神が業平・実方だが、どっちがどっちだかわからないので神職にたずねています。
在原業平はその実像よりも『伊勢物語』の「むかしおとこ」の印象が強いかもしれない。そういったことはよくあることで、小町にしても空海にしても義経にしても実像ではなく物語や伝承の世界のほうが人の心に残るもの。
ちはやぶる神代も聞かず竜田川
からくれなゐに水くくるとは 業平
唐崎夜雨は江戸の下町に住んでいて、言問橋、言問通り、言問団子、業平橋と、かの人ゆかりの名が残り親しみがある。
東武鉄道の「とうきょうスカイツリー駅」はかつて「業平橋駅」と称していた。
所用あってこの界隈に行くことがあるが、そのときは「業平橋へ行く」といまでも言う。意固地というか、未練というか、なんとでも呼べばいいさ。
名にし負はばいざ言問はむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと 業平
藤原実方についてはあまり知らなかったが、風流人で光源氏のモデルのひとりとされていたようだ。
『徒然草』のなかに「実方は、御手洗に影のうつりける所」とあるが、中世に実方の水鏡伝説というものがあったそうだ。
それは、賀茂の祭りの舞人として賀茂社に参向したとき御手洗川に映る自分の容姿に陶然とした。これを機縁として死後その場所に神として祀ったということらしい。
伊勢物語の昔男とされる業平しかり、光源氏のモデルと思われる実方しかり、和歌の道は色の道でもあるかしら。
かくとだにえやはいぶきのさしも草
さしも知らじなもゆる思ひを 実方
和歌の神様として知られていた和歌山の玉津島神社と大阪の住吉大社が橋本社と岩本社のそれぞれ同じ神様であるところから、橋本岩本両社もまた和歌の神さまとして崇敬を集めていた。
それがいつのころからか、業平実方へと変わっていったのでしょう。
もしかするとその逆で、ハナっから業平・実方を祀っていたものを時代がくだって風流の心廃れて和歌の神ということで住吉・玉津島にとってかわってしまったのかも。
『徒然草』で兼好法師にたずねられた神職は、いぶかることなく答えているところをみると、そんなことも妄想してしまう。
いかでかは思ひありとも知らすべき
室の八島のけぶりならでは 実方
兼好法師は同時代の女流歌人である今出川院近衛が橋本岩本社の御利益もあって歌人として活躍されていることを紹介している。
去年の夏は、興味ある業平がらみということで『徒然草』第67段の冒頭一文「賀茂の岩本橋本は、業平実方なり」しか頭になく参拝。
和歌の嗜みはないけれど、美しいことばに彩られている。
いまはnote界の片隅でことばを扱っているのですから、またいづれの日にかお参りせねばなりますまい。
今出川院近衛のようにご利益あらんことを願って。
もちろん業平実方の色にもすこし、あやかろうかな。
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