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映画『流れる』(1956)豪華な女優たちで描く花柳界の舞台裏

こんにちわ、唐崎夜雨です。
日曜の夕べは映画のご紹介。今回は昭和31年(1956)の成瀬なるせ巳喜男みきお監督作品『流れる』。

原作は幸田こうだあや。幸田文は文豪幸田露伴ろはんの娘さん。
幸田文は父露伴の死後、父の思い出を書いて文筆家となりますが、一時期、身分を隠して柳橋の芸者屋に住み込み女中として働きます。
どうしてそうなさったのか存じませんが、小説『流れる』はこのときの実体験から生まれた作品です。

しかしながら昭和30年代はもう芸者の時代ではないようです。銀座のホステスを描いた映画『夜の蝶』が昭和32年(1957)の作品であると知れば、おのずと時代は察せられるでしょう。
『流れる』は傾いてゆく芸者屋を、玄人ではない素人の女中の視線で描いています。

映画『流れる』の見どころの一つは華やかな女優たちの競演です。
芸者屋の女将に山田五十鈴。
その娘に高峰秀子。
年増芸者に杉村春子。
住み込み女中に田中絹代。
若い芸者に岡田茉莉子。
料亭の女将に栗島すみ子。

この中で田中絹代演じる女中が原作者幸田文の分身です。されど小説と映画とではキャラが少し違う。
映画では穏やかで柔らかみのある女中ですが、小説ではもう少し負けん気が強い。同じく幸田文の小説『おとうと』のゲン姉さんに近いかなと思う。

つまり小説では女中は斜陽の芸者屋にいくらか批判的な視線をもっているのに対し、映画の女中はほとんど批判的な立場はとらない。
芸者屋商売への批判は娘の勝代が受け持つが、彼女もなんだかんだ言っても情にしばられ芸者屋を飛び出せないでいる。

芸者を抱えおく芸能プロダクションのような商売を置屋〔おきや〕と呼びますが、私淑するコラムニスト山本夏彦によるとそれは上方の言い方で、関東では芸者屋と称したようです。
実際、映画の中でも山田五十鈴は自分の商売を「芸者屋」と言ってます。

あらすじ

柳橋の芸者屋「つたの家」に立花梨花(田中絹代)が住み込みの女中として訪れる。この家は女ばかり。
女将のつた奴(山田五十鈴)はまだ色香のある女性。娘の勝代(高峰秀子)は芸者屋商売には向いておらず、手に職をつけようと考えている。
つた奴の妹米子(中北千枝子)は亭主と別れ幼い娘の不二子と「つたの家」に居候。
抱えの芸者は染香(杉村春子)となな子(岡田茉莉子)。
女中は女将から「梨花〔りか〕さん」は呼びにくいので「おはるさん」と呼ばれるようになる。
女ばかりのこの家に、抱えの芸者だったナミエの伯父と名乗る男が、つたの家は売春強要、人権蹂躙だと乗り込んできた。
だが「つたの家」の内情は火の車。すでに「つたの家」はつた奴の姉、おとよ(賀原夏子)の借金の抵当に入っている。
窮したつた奴は料亭水野の女将(栗島すみ子)に相談する。

このナミエの伯父のトラブルが中心的な話ではありますが、その展開をみる映画ではない。あくまでも花柳界に生きるおんなたちの生態を描いた作品といえます。

ストーリーは彼女たちを動かすお膳立てと言ってもいい。
寝起きの気だるい山田五十鈴や、電話口で三味線の合いの手を確かめる杉村春子や、喧嘩ごしの高峰秀子などをみるための筋立て。

下町、花柳界、お金のこと

成瀬巳喜男の作品の中で、下町、花柳界、お金のことが個人的にツボの三大要素で、映画『流れる』はそれらすべてが含まれている。
それとちょっとしたユーモア。

木造の住宅が軒を並べる路地があり、口さがないご近所がいる。
季節は夏。路地には子どもたちが花火で遊び、浴衣を召したご婦人が通る。
家の玄関も窓も開けっぱなし。軒に風鈴が吊ってある。
猫が悠然と歩いている。
そういった下町の細かい描写が心地よい。

花柳界の芸者屋が舞台で豪華な女優の共演ですが、表舞台のお座敷の場面はありません。『流れる』は女中の視点で描かれています。当然女中はお座敷に行かない。見てないのだから描かれない。

むしろ花柳界の舞台裏が見られて面白い。賀原夏子演じるおとよ曰く「芸者とはよくいったものだ、あんたたちのやることはキッチリ表と裏があるんだから」。

お金のこと。つたの家は金が無い。借金を抱え、ツケの支払いも滞り気味、抱え芸者のピンハネも。
されど当人たちはいたって呑気。つた奴は「いちいち人のいうこと取り上げて芸者屋商売ができますか」「知らん顔しとけばいいのよ」と柳に風。

もっとも、いくらなんでもそれがまかり通る時代ではない。そこがこの女の家の人々には分からない。だから「流れる」のかもしれない。

細かいけれどセットも見どころ

美術は中古智。この時期の成瀬映画を支えている。たとえばこのトップ画像は芸者屋の二階で目覚めたばかりの山田五十鈴。彼女のうしろの窓は開放され向かいの家の二階が見えます。この向かいの家の二階では女性が掃除をしている姿が遠目に見えます。

そしてカメラは切り返して反対側も映しますが、そちら側の窓も開けっぱなしで遠くの家々が見えます。
窓を閉めてしまえば、そんなところまで作る必要はないし、窓の外の景色は書割でもよさそうなもんですが、そうしない。

美術セットといえば、この芸者屋の前の路地はオープンセットです。一方だけではなく、つたの家の左右両方の路地の突き当りまで作られている。
ロケーションでの撮影と見間違うほどの精巧さに、日本映画全盛期の底力がうかがえます。

『流れる』(1956)
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄 原作:幸田文 脚本:田中澄江、井手俊郎 撮影:玉井正夫 美術:中古智 音楽:斎藤一郎 衣裳考証:岩田専太郎
出演:山田五十鈴、田中絹代、高峰秀子、杉村春子、岡田茉莉子、栗島すみ子、中北千枝子、賀原夏子、宮口精二、仲谷昇、加東大介、中村伸郎


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