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「冷たい人」が考えている感情と共感

何も考えていない散文です。

つい先日、いつもの友人たちと例によって深夜駄弁りトークをしていたところ、「~~は人の事を"情報"として見てるよね」と言われた。
あとはよく「人間に興味がない」とか「人間じゃない」とかも言われる。恐らくこれは自身と他人の間に線引きをして混ざり合う事をよしとしない精神性を指しているものと思われる。外から見ててもわかるもんだね
確かに言われてみればそうかもしれない。人がどういう感情なのかを察することは出来るし、目の前で話しているなら人間関係のバランスもお互いの言いたい事も何となくわかる。
だが、それをいわゆる「自分ごと」として受け止める事はない。どこまで行っても関係のない他人事には変わりないからだ。人の感情はその人だけのものだし、僕にはシミュレートは出来ても把握する事は出来ない。
だから僕にとってそれらは全てひっくるめてただの外部情報であって、興味の対象でもある。
従って、厳密に言うのなら僕は「他人への興味」はめちゃくちゃある。自分以上に他人に興味を持っている人はいないんじゃないかなって思ってるくらい。でもそれは確かに「自身との違いを浮き彫りにするための比較対象」としての興味でもある。
友人は鋭い。

そして、この手の話をする時にいつも俎上に上がるのが「共感」という言葉だ。
端的に言うなら僕は「共感力が低い」というカテゴリに分類されるのは間違いない。お遊び的な診断をやると必ずと言っていい程「人の事はどうでもいいと考えている」と書かれている。ちなみにMBTiはENTP
だが、ここで立ち止まって考えてみたい。共感ってなんだ?

グーグルで検索してみるとトップに出てくるWebページでは下記の通りだ。

〘名〙 他人の考え、主張、感情を、自分もその通りだと感じること。また、その気持。同感。
[名](スル)他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。

この定義に則るならば、共感を行うにはまず他人の感情を規定する必要がある。
目の前の人が「嬉しい」と感じている時、自分も同じように「嬉しい」と感じていれば共感だ。わっかる~↑!、ってやつだ。
だが、まず目の前の人が「嬉しい」と感じている事はどうやってわかるのだろうか。
嬉しそうな顔をしているから?嬉しいと言っているから?
仮にそうだとして、それは果たして自分が感じているものと同じなのか?
顔で笑って心で泣いて、という語句がごく一般的に使用されているにもかかわらず、こと共感と言う感情を得るための素材としての他人の感情は至極単純に捉えられる事が多い。
そして、共感と言うものはやたらと肯定される。だから多少強引でも共感する、という時点で感情を十把一絡げに扱う事は割と許されているような気がしている。

そもそも僕は根底として、「他人と感情で分かり合う事などできない」と考えている。
別にこれは孤独な人間関係に絶望して悲観的になっているとかではなくて、どんなに仲の良い、考えている事が手に取るようにわかる(と思っている)関係性でもそれが本当に正しいかはわからないよね、という意味だ。
僕自身、現状友人にはかなり恵まれている。自分の考え方に賛同してくれるタイプの似た友人もいれば、全く反対の価値観でも話を聞いて自分の価値観を説明してくれる友人もいる。馬鹿話もいくらでも出来るし、その逆も然り。
それでも、やはり僕は人と人が真に共感する事はないと考えている。
この話を聞いて、「そんなん当たり前だろ」と思う人と「この人は悲しい人だな」と思う人が恐らく半々……いや、後者の方が世間的には遥かに多いのだろうか。

しかし考えてもみてほしい。お互い全く別の身体を持ち、別の脳みそを持ち、異なる環境で生まれて異なる人生を歩んできて、今対面で向かい合って話をしている訳だ。この状況で二人の間に共通している事の方が遥かに少ないのではないだろうか?
この状態で相手が「嬉しい」と言った時に果たしてそれは自分が感じている感情と同じかどうかを測る術などないというのは乱暴だろうか?
十中八九同じものなどほぼないし測る術もないと僕は思っている。
自分の感情などそもそも整然と名前が付いて分類できるほど単純なものでもなく、人に伝える時には大雑把に分けられたカードの中で一番尤もらしいものを自分の感情の名前として選択して表に出しているというだけの話だ。

僕はこの考え方がベースにあるので、自分の感情を言葉にすることがあまりない。
「~~のように感じているから(強いて言うなら)嬉しい」とか「~~のように考えたから(強いて言うなら)悲しい」とか精々がそのくらいだ。
言霊という程大仰なものでもないが、人は日頃使う言葉、とりわけ自身の脳内で使う言葉に思考が引っ張られると僕は考えている。
そもそも僕にとって言葉は不完全な伝達手段でしかないので、自分の感じる感情を自分の内側で処理する時に言葉は原則として不要だ。
もう少し具体例で話してみよう。
例えば一人で夜に外を歩いていて、ものがなしいような、でもそれでいてちょっとすっきりしていて、軽い気分ではあるんだけど空を見上げると少し寂しさを感じない訳でもない、と言う何とも言い表せない感情があったとして、それはどう落とし込んでも言葉にした時点で結局単純記号化されたものになってしまう。
そもそもそれを無理に伝えようとしない限り言葉にする必要はないのだから、感じたそのままを「感じているんだな」と放置するのが一番情報のロスは少ない。
しかしそれを例えば誰かに共有するために「今ちょっと寂しくてさ」と言葉にしたら、自分の中の感情はその時点で「寂しい感情」とラベルを貼られ、同じラベルを貼られた違う感情と同じ扱いになってしまう。
これを繰り返すと、そもそもとして自身の微細な感情に気が付きにくくなる事になるのではないだろうか。
嬉しい、楽しい、悲しい、寂しい、腹立たしい、自分の脳内がそんな名前が付いた画一的な感情ばかりになってしまったらと思うとあんまり気軽にレッテルを貼りたくないな、と思ってしまうのだ。

だいぶ回り道をしたが、こういう思考をベースにしているのでそもそも人に対して一言で感情というものをシェアせず、あくまで論理を基に話を進めるのが僕のスタンスだ。
でも「面白い」はいくらでも言う。対象に対して興味深いというだけで何も規定していないからだ。
論理は同じ文化圏に生きている人同士なら演繹的推理が可能なので他人と共有する際にも齟齬がない。同じものを見ている、と言う確証があるのは感情論にはない視点だと思う。
だから感情の共有たる「共感」は僕には出来ないししようともしていない。安易に共感するという言葉を言わないのも、言葉というローラーで自分や他人の感情の機微を更地にしかねないからだ。

以上は僕の単なる自論ではあるが、これはもしかしたら「論理的思考(NT)型」の人たちには多かれ少なかれ当てはまるところもあったのではないだろうか。
逆に全く「共感」できなかった人は、周りにいる「何考えてるのかわからない理屈っぽい冷たい人」はもしかしたらこう考えているのかもしれない。
論理的な人間は別に感情が無い訳ではなくて、それを表に出す必要性を感じていないだけ、というパターンが多い気がしている。もしかしたら本当に感情が無い可能性もあるが

異なる価値観と価値観を突き合わせて話すと言う事はその人だけでなく自身の理解を深めるチャンスでもある。
機会があったら身近な人と色々と話してみてはいかがだろうか。
俺もこういう話無限にしていたい

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