フラスコのメランコリア
鬱の時の自分が、鬱が治った時の自分に宿題を出していました。
【宿題】
”鬱がいつ治るかわからない。
でももし治ったら、今の気持ちを分析して。
この苦痛をできるだけ鮮明に記録しておくから。”
最近は少し元気です。
なので宿題を提出します。
元気になってきた今となっては少しだるいのですが、宿題だから仕方ない笑
なりたくないけどまたどうせ彼になるんだし。
宿題の意図
宿題の意図は、
「落ち込んだ自分と元気な自分が同意した現象が、自分たちにとっての真実」
であることをたしかめること。
それにより性質の違う2人の自分を統合することでした。
図にすると、こんな感じになります。
2つを統合することで、「落ち込んだ自分」と「元気な自分」の共通言語ができ、リポビタンDでいうところの「ふぁいとー、いっぱーつ」のように、奈落の崖から中間地点(通常状態)に引き上げてもらうことで回復が早まるのではないかという仮説です。
元気なときの思い込みもやっかい
落ち込んだときばかりでなく、「元気なときの自分」の思い込みもやっかいです。
根拠なき万能感、共感能力の低下、思いやりの欠如がこの時の自分にはあります。
一昨年、仕事を辞めて人生で初めて全くのフリーになって有頂天になっていた三ヶ月くらいがその状態でした。そんなときは人間関係で大きな過ちを犯したり、急に不安に襲われて落ち込み、ひどい時には鬱になるというループになります。
なので「元気なときの自分」が調子に乗ってるなと思ったら、逆に中間地点まで引き下げる作用を働かせれば、そのあとに必ず来る「落ち込み」を回避できるのではないかと考えました。
すこしづつ提出
以上が、宿題提出の前提となる考え方でした。
これから休み休み、落ち込んだ時の自分に宿題を提出していきたいと思います。
現時点では、元気なときの自分と落ち込んだときの自分が共通して同意する真実は以下の2つです。
①鬱は脳の異常である
②この世は苦界である
①は科学的で、
②は仏教的です。
この2つで自分を統合することで、今後落ち込んだときも比較的早く立ち直れるだろうし、元気が行き過ぎたときも言動をある程度諌められると思いました。
長い人生、こんなの通用しないくらいの深い嘆きが来ると思います。
でも、起きてないうちからそんなこと考えても意味がないので、それはその時に処したいと思います。
今回学んだこと
今回の経験で、私は比較的落ち込みにくくご機嫌な性質だけど、落ちてしまうとかなり深刻なところまで落ちてしまうことがわかりました。
にもかかわらず、ご機嫌な時と同じかそれ以上に積極的に人とコミュニケーションを取ろうとし、でも頭はバグってるので失言ばかりしてしまい、主観的にも客観的にも気持ち悪い性格になり、人間関係が気まずくなって破綻→自我が崩壊して希死念慮MAX→ますます鬱になることも学びました。
次回からは、そういう状態になったら、やたらと人に連絡をとったり突飛なことをしないで、そっとしていようと思います。
あと今までは割と思いやりのある人間だと思っていたのですが、本質的には他人に対する想像力がなく、思いやりがないヤツなんだなってことも学びました。
でも心から人のために動くこともそこそこあり、その時はめっちゃ楽しいことも学びました。それは心の余裕の賜物なので、無理はもうしたくないと思います。
あとは元気なときでも落ち込んでるときでも希死念慮はわりとあること。
これは言葉を選んで書かないと色々とハレーションがありそうなのでいつかまとまったら書きます。
次回以降
次回以降を書く余力があれば、順番はわかりませんが、以下のトピックを横断的に編み込んで話していければと思います。
・朝が一番辛い
・運動と瞑想で症状が軽減
・希死念慮との戦い(首を掻っ切った話)
・鬱や自殺の経験を語ることがタブーな理由
・仏教から得た楽になるヒント①(行苦について)
・仏教から得た楽になるヒント②(ケニー・アッカーマンの悟り)
・仏教から得た楽になるヒント③(親鸞先生の教え)
・助けてくれた歌手(真島真利、カネコアヤノ)
最後に、重い鬱だった時の体や心の状態記録(てか日記みたいなもの)を2つあげて今回は終わりにします!
最後まで読んでいただきありがとうございました🌿
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