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わたしはブエノスアイレスにいた。

この音、なに?

と、横にいる夫がきいてきた。

彼のパソコンのモニターには

アルゼンチンのストリートフードを紹介する番組、

そのBGMで流れて来たバンドネオンの音色のことだった。

ふと、ブエノスアイレスを懐かしむ。

しかし、懐かしみながら、自分の怠慢に気づく。

あの街を歩いていたって、

いつもバンドネオンが鳴っているわけではないし、

タンゴを踊らなかったわたしには、

現地で何度、あの音色を聞く機会があっただろうか。

あ、さぼってんな、

思い出すことを、

懐かしむことを、

アルゼンチンらしいものに反応することで、

さぼってる。

ゾッとして、記憶のヒダを逆立てる。

すると、積年触らずにいた埃が舞い上がるように、

当時の気配が匂い立つ。

目が慣れてもずっと薄暗い地下鉄A線のホーム。

その地下鉄の、老朽化した車体の、

手動ドアのノブのかたさ、重さ、愛想のなさ。

それでも、古い木製の椅子、手すり、床、天井は、

手垢で磨かれた飴色の艶を放ち、

暗い灯りの中で濃密な色気を醸し、

時を忘れるような気配に魅せられて、

たまにわざと乗り過ごしていた。

車内で物売りが立てる口上にも耳が向く。

売り物は、ボールペン、ゴム紐、イヤホン、充電器、ガム、懐中電灯。

でも時折、

この安物を売るのと同じ手が、

マリヤ様の絵札を、座る乗客の手元に配布していく。

勝手に手元に押し付けられたのではあるが、

あまりに的確で迅速なので、

つい「配布」と呼んでしまう。

車両の端から端まで迅速に配り終えた売り子が

2分ほどして戻ってくる。

あちらが求める寄付を乗客が渡さなければ、

絵札はさっさと回収されていく。

どれほど混雑していても、

次の駅に到着するまでの寸暇で、

確実に、もらすことなく、

絵札は配布され、やがて、回収される様は、

なんだか魔術的ですらあった。

わたしは一度も安物を買わな買ったし、

寄付も払わなかったけれど、

実際に買う人や、寄付する人が案外多くて、

でも、その全ては無表情に、

安物も祈りも

全てが同じ価値で、淡々とさばかれいた。

降り立った駅の地下通路は

どこも公衆電話の受話器のような人いきれ。

暗いパサージュの奥には必ず一軒のタトゥーショップ。

片付けられる気配のない書籍が床に散らかる本屋。

女はほとんど並んでいないチョリパンの屋台。

焦げ付いたような黒い柱に、煤けても美しい看板を下げるカフェ。

清潔なわけない新聞紙に包まれたチュロス。

店も、店主も、時がとまっている洗濯屋。

絶えずガラス片が飛び散る交差点。

わたしの上半身より大きな冷凍のハチノス。

ドア屋に、オムツ屋、蛇口屋、ネジ屋、リボン屋…

問屋街の細かい専門店を目で追い数えるバスの車窓。

日本から逃げ出すように仕事を見つけて

無計画にたどり着いた街。

不安と後悔で千切れそうな心を無視して、

首を痛めるように見上げた街路樹の高さ。

その樹の横にある小型車くらいのゴミ箱を、丸ごと触手で掴んで持ち上げて、天から振り落とすように中身を回収するゴミ収集車と、その爆音。

真夏のように強い陽射しの下でサングラスをかけながら凍えていた8月の冬。

ここらで身体中からブエノスアイレスが立ち昇る。

細胞の一つ一つから果てしなく蘇る記憶。

わたしはブエノスアイレスにいた。

これが想い出すということか。

カフェオレについてくるビスケットの曖昧な甘さ、

石畳で砂利つく靴底の不快な感触、

埃っぽい牛乳パック、

バスを待つ時の薄っぺらい緊張感、

賑やかな市場の薄暗い気怠さ、

薬局のおばあさんの目つきの悪さ、

角の小さな八百屋さんの黒ずんでささくれた手指。

幾度も繰り返し見てきたカラフルな写真や、

幾度も繰り返し語って鮮明に覚えている思い出に押されて、

ギュッとヒダの奥に埋もれていた、

煮しめのような地味な瞬間が、

深々と蘇る。

うん、

やっと思い出した。

わたしは確かにブエノスアイレスにいた。

あれがわたしのブエノスアイレスだ。




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