見出し画像

101歳の祖母、90分のライブ

2023年の秋、
離れた場所に住む、母方の祖母に久しぶりに会いに行った。

高校生や大学生のころは、なぜだか親戚との距離感が分からなくなって、
よそよそしい態度でしか関われなかった時期がある。

ただ、大学を卒業してからは、電話口で、わりと気楽に会話できるようになっていた。

実際に会うのは数年ぶり。

コロナがひと段落したとはいえ、祖母が遠出する機会はあまり無いと思われ
久しぶりに会いに行く自分が元気づけよう、なんて調子のいいことを考えていた。

いざ久々に会うと――――とっても元気!元気!
耳はとおくなっていて、近くで大きな声で話さないと聞き取れない。
ただ、祖母の話す声は、はっきりしていて聞き取りやすい。

昔の記憶も鮮明。

なんの話の流れだったか、祖母が20才前後の頃の話がはじまった。

さいきん、祖父母は、自分と同じ年のころ、なにに喜び、なにに悲しんだのか、という疑問がふと浮かんだので、ジャストな話。

家業の農作業のほかに、養蚕をして糸をとり、
それを紡いで、さらに機織りをしたこと。
それを電車で数十分の街の染工場に持って行ったこと。
街に出たときは、染工場の人が外食に連れて行ってくれたこと。
農作業のかたわら、そろばんで経理の仕事に就いたこと。
静岡で短期の住み込み工場の仕事で、数人を束ねたリーダーとして現地に赴いたこと。
きちんと寝ていたんだろうか、というくらいの仕事量。

戦前戦中の、とても濃密な日々。
近所の家から、「うちの娘が〇〇をやりたがっているから、一緒にやってくれんかね」とお願いされて、自分も始めてみた
というパターンがいつくかあることに気づいた。
祖母のアグレッシブな日々は、自ら手繰り寄せた、というよりは、
周囲の人からのお願いに応えることによって、開かれていったのだ。

それが結果として、祖母にとって良い生活のスパイスになったのではないか。

思い出ばなしの中の、若かりし頃の祖母の手はいつもせわしなく動いていた
社会科の歴史で習う、大文字の歴史ではなく、
どこにでもありそうだけど、でもやっぱり祖母だけが経験したであろう、出来事の数々。

今の時代から思うと不便なことも多かっただろうけれど、
祖母はその瞬間瞬間、心と手をたくさん動かしていた。

90分休まず、語りきって、最後に言った。
「こういう思い出があるから、今までやってこれた。最高」

さすがに話しつかれたのか、叔父に車いすを押してもらって、昼寝に行った。
別れ際のその時、祖母の手を握った。
たくさんの手仕事をしてきた101歳の祖母の手は、これでもか、というくらい熱かった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?