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糞フェミでも恋がしたい (その25)

私の名は能條まどか。糞フェミだ。

糞フェミの朝は早い、起きたら歯を磨いて、顔を洗って、まだ眠いけど、目覚めの紅茶を飲んで、というかその紅茶はスリランカのディンブラと決めていて、ブレンドではなくストレートしか飲まない、目にも艶やかなルビー色から放たれる爽やかな香りに、気分が沸き立つ、スターバックスではこうはいかないね、気に入ったクッキーを齧りながら、iPadを抱え、ベッドにころがりながら、まずネットニュースを周回して、フェミに関する新しい情報をチェック、整理する、そうはいっても、ちゃんとやる気なんかないから、だいたいは新しいファッションの動向や、流行ブランドの最新アイテムのチェックや、通販の申し込みで、ほとんど終わってしまう、でもいいのだ、女が女として幸せに暮らすことを重視しないなんて、馬鹿げている、ひとつひとつ、身近に愛するものを置いて、それを慈しみながら日々を送るのは、女にとって最高の贅沢だと思う、女というのは、情愛のタマネギのようなもので、情愛の皮をどんどん剥いて行くと、最後には何もなくなってしまうくらい、情愛の塊だ、情愛そのもので出来ているといってもいい、私は、女のそういうところが好きだし、自分がそういう生き物で良かったなあと思う。

本当はきっと、綺羅君を部屋の中心に置いて、なんか仏壇みたいな祭壇みたいなものの上に祀って、毎日礼拝して、尊崇して、尊崇した後、男性器をしゃぶったりして、しゃぶったあとにぶち込んでもらったりして、そのあと綺麗にして、お世話をして、慈しみまくって、情愛を捧げまくって暮らしたいのだが、それではあまりに一方的過ぎて、綺羅君もツラいだろうから、綺羅君の意思や自由を尊重するとなると、私も譲歩せざるをえないわけで、つまり、世の中は自分のエゴだけでは上手くいかないのだ、自分のエゴと、他人のエゴが、ぶつかりあって、ごっつんこするところに、人生の妙味があると、昔、誰かに言われた気がする、誰だったか、完全に忘れたが。

結局、自分がちやほやされる幸せは、どこまでいっても自信と釣り合わないというか、安心感がないというか、明日消えてなくなってしまうかもしれないという不安と隣り合わせで、だってそもそもどんな美人だって、可愛くたって、十年二十年経ったらもう確実に衰えて、その魅力は消えて行くわけだし、十代のうちはいいけど、年齢を重ねて、いつ消えてなくなるか、はらはらしながら日々を送るというのも、どうかなあと思うし、それよりもやっぱり、自分がちやほやするほうがいいというか、何かを、誰かを、たぶんそれは大多数の女にとって、子供だったりするんだろうけど、もう、無償の、無尽蔵の、無節操の愛を注いで、ちやほやして、世話を焼きまくり、面倒をみまくり、可愛がりまくる、女にとって、これ以上の幸せは、これ以上の安心は、この世のどこにもないんじゃないかという気がする。

そんなことをぼんやり考えながら、ファンデーションして、服を選んで、それはもちろんお気に入りの服で、服を選びながら、口紅はどれにしようかなどと迷ったりして、つけまと、アイライナーで、きりっとしたら、ちょっとキラキラをまぶして、まあそんな感じで、ワイルドフォックスのニットに袖を通して、ディースクエアードのデニムを履けば、まあ、完成、カーラ・デルヴィーニュが好きなので、それっぽい服を着たいのだが、似合わないこと似合わないこと、現実は厳しい、でも、いいのだ、それがいかなるものであろうとも、肯定的に個性を認めることが、すべてのスタートなのだ。

あとは、お婆ちゃんからもらったバッグを、あ、人生の妙味がどうこう言ってたのは、お婆ちゃんだった、思い出したわ、もらったバッグに、財布だの、スマホだの、iPadだのぶっ込んで、ダッシュで地下鉄の駅まで、階段を下りながら、すみれちゃんに、メッセージを送ったり、送られたり、機嫌が良くなったり、悪くなったり、つまらないと思ったら、写真展を見に行ってしまったり、イベントに流れたり、渋谷をぶらぶらしたり、フェミと議論したり、傷を舐め合ったり、まあ、たいして面白いこともないのは、世の中の他の人と同じで、ドラマチックなんて、自分からどんどん突っ走っていかなくちゃ、出会えるわけもないのよね、と、これは昔、すみれちゃんに言われた気がする、人生がドラマチックである必要はないけど、常になにかに挑んでいく心は必要よね、と、これは、私がみんなに言いたい、家に帰って、お風呂に入りながら、いつも思うことだから。

つづき→ https://note.mu/feministicbitch/n/n1af26681bbfc

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