能條まどか
能條まどかによる実体験に基づいた糞フェミ恋愛小説「糞フェミでも恋がしたい」の連載まとめ
ウイルスってなんだろうと思うんです、なんかこう、自然界って、いろんな生き物がいて、みんなそれぞれひたすらに増えようと頑張って、他の生き物とぶつかったら、それを殺して押しのけて増えようと頑張って、とにかくとにかく頑張って、時々増えすぎて自滅したりして、減ったりして、でまたやり直したりして、とにもかくにも繁殖して、増えて、増えて、増えまくるじゃないですか、で、ウイルスってなんなんですが、あいつらは増えたいんですか、増えてどうしようというんですか、世の中がウイルスでいっぱいになるの
みんな思い上がってるんじゃないかと、なんか、声高に権利を主張するじゃないですか、世の中は自分の思い通りになるべきだと思ってる、思ってるだけじゃなくて、公言してる、言いまくってる、叫んでる、金切り声を上げてる、そこに、なんの根拠があるんでしょうか、なんの権利があってそんなに偉そうなんでしょうか、人間だからでしょうか、日本人だからでしょうか、まさかバカだからなんじゃないか、そう考えると、ちょっと哀れになりますけども、でも、弱者だからって主張するんですよね、たとえばそういう人は、自
怖いなあって思うんです。あやしげなウイルスのせいで、このごろなかなか外に出られないじゃないですか、たとえば女の一人暮らしでマンション住まいとか、ごはんどうしようとか、今から料理するのめんどくさいなあとか、思いますよね、そうすると、宅配で頼んだりしますよね、なんかピザとかね、それで、持ってくるのが、おっさんとかだったらぜんぜん気にしないんですよ、向こうも気にしない、だって私の存在って、単なるその他大勢のブスに過ぎないから、向こうも、あ、ブスだな、って思っておしまい、こっちも、あ
狂ったようなことを言いたいんです、どうせ本当に気が狂っているのだから、もっともっと狂ったようなことを言って、ああこの人は気が狂っているのだなあと、認めてもらいたいんです、侮蔑されながら、嘲笑されながら、その実、ほんのちょっと脅威に感じてほしいんです、怖れてほしいんです、この私を、無力で、無能で、無才で、ただ無闇と嘘を吐くだけがとりえのような哀れな私を、怖れてほしいんです。
女の価値って、なんで決まるんだろうと考えていたんです、ぼんやり、考えていたんです、で、思ったんです、男の人に性器をぶち込まれた時のよがり声で決まるんじゃないかって、男の人に性器をぶち込まれた時に、どんな反応をするか、どんな声を出して、喜びを、快楽を、情愛を伝えるか、表現するか、爆発させるか、それはもう、女として生まれたものの、一世一代の晴舞台です、見せ場です、だって、男性器をぶち込まれているのに、無表情で、なんの反応もしないなんて、そんな女に、生きる価値はありません、愛される
身体障害者のことを書きます。それがたとえどんなものであったとして、生まれつきの障害って、物理的な側面、理屈から言えば、電化製品の初期不良と同じだと思うんです。その原因がDNAだか、偶然だか、それは知りませんが、生まれつきの身体障害というのは、人間の初期不良、人体の初期不良です。出来事としてみれば、ただそれだけのことです。でも、もっとも大きな違い、電化製品の初期不良ともっとも違う、困った点を言えば、不良品であったとしても、交換できないということです。人体は、赤ちゃんは、初期不良
正気ってなんだろうと考えているんです、正気って言うけど、正気ってなんだろう、正気の対立概念として狂気があるんだったら、狂気ってなんだろう、正気と狂気が対立するんだったら、正気と狂気の差って、どんなところにあるんだろう、正気と狂気の境目ってどこにあるんだろう、そんなふうに思うんです、そんなふうに思ったんです、ハーフティンバー風の建物が素敵な、自由が丘の可愛らしいお店で、ティラーズ・オブ・ハロゲイトの紅茶を飲みながら、紅茶を飲んで、12月の空から降る冷たい雨を眺めながら、そんなふ
私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミにも糞フェミの人生があるのだ、人生があって、苦しみがあって、悦びがあるのだ、もちろん、それは糞フェミでなくても同じだ、つまりは要するに、糞フェミであっても糞フェミでなくても、人生は人生、自然の摂理にしたがって、雄は雄として、雌は雌として、与えられた時間を、完走するしかないということだ、命というのは、そういうものだということだ、理屈ではない、息をしたり、触ったり、感じたり、身体のすべてが教えてくれる、このあたたかな血の流れに従えという
私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも幸せになれる、なれるのだ、それはもはや疑いようもない事実なのだ、それは私がいま証明しつつある真実なのだ、私の身体と、心と、うちなるすべての私が、肯定する、まったくもって、自然の摂理さだめる仕組みに従う、つまりは、わずかも間違いようのないほどに、輝き、光を放つ、まばゆいばかりの、真理なのだ。 いま、私と綺羅君は、全身で、全霊で、全裸で、その真理に足を踏み入れる、すべてのエネルギーを燃やして、欲望をぶつけあう、キスで、粘膜で、肉で
私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも処女卒したいのだ、自分が愛して愛して愛しまくっている雄の、猛って、膨れ上がって、熱り立った、太い逞しい男性器を、欲望のままに肉穴にぶち込まれて、初めての膜を破られたいのだ、穴の奥底まで蹂躙されたいのだ、何もかも奪われて、心の底から屈服したいのだ、服従したいのだ、隷属したいのだ、そして、有無を言わさず射精され、子供を、遺伝子の結晶を、孕みたいのだ、孕まされたいのだ、この、私の子宮の中に、雌が雌として生きるということは、そういうこと
私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも恋がしたかったのだ、そして、恋のチャンスは、立場や性別や社会的諸々に関係なく、誰にも巡ってくることを知ったのだ、それは唐突にやってきて、素っ気なく去ろうとするのだ、だから、必死でつかまえなくてはダメなのだ、恥も見栄も外聞も、なにもかも投げ捨てて、必死でつかまえなければ、すがりつかなければ、去ってしまうのだ、だからわたしはなにもかも捨てて、必死で、見るも無惨に、見るも正直に、見るも素直に、自分自身の芯の部分だけになって、素っ裸にな
私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも自由になりたいのだ、なりたいというより、なるべきだ、いや、本当はすべての人が自由になるべきなのだ、しかしなれない、皮肉なことに、私を含めて糞フェミは、それを体現している存在だ、自由になりたくてもなれないのだ、それは、価値観の狭間に押し込められ潰されてしまったがために、逃げ場を失ってしまったがために、従順ないい子であることを己の中で義務づけてしまったがために、自由は、手の届かないところに行ってしまったのだ、哀しいかな、自分でそれに
私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミでも男の匂いが好きだ、というか、男と女が距離を縮め、どんどんと近づいて行き、最終的にどうなるかといえば、素っ裸で抱き合って、キスだのフェラだのに夢中になり、穴にぶち込み、体液を注入し、お互いの肉体のなにもかもを貪るのだ、そのとき、もっとも露になるのが体臭で、つまり匂いで、男と女はどれだけ気持ちが近づこうが、最後の最後でお互いの体臭に安堵しなければ、耽溺しなければ、欲情しなければ、添い遂げることはできないのだ、だから、男と出会って、ま
私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミだって好きな男の子供が生みたいのだ、というか、女にとって好きな男の子供が産みたい以上の欲求などない、それは、男にとって好きな女に子供を産ませたい以上の欲求などないのと同じだ、だって、自分が惚れた男、もう、好きで好きでたまらない男、その男の子供を産むのだ、うれしくないわけがない、それも、女の子ですらうれしいのに、もし男の子だったら、好きで好きでたまらない男のミニチュアが手に入るのだ、自分のものになるのだ、どれだけ可愛がっても許される形
一週間ほどまえ、私がひとり、カフェでお茶をしていますと、向こうに座った20代女子大生らしき女どもの話し声が聞こえてきました、なにやら映画を観てきたようす、まあそれはよいのですが、興味がわいたので、耳をそばだてて聞いていると、ミソジニーだの、フェミだの、なにやら穏やかではない言葉が飛び交っています、女が夜中に遊びに行くのがどうとか、例の件に関しても言いたい放題に斬りまくっています、ふひひひひ、おもしれえ、と思って聞いていますと、そいつらまるで、自分がフェミ界の帝王であるが如く、
私の名は能條まどか。糞フェミだ。 糞フェミにも母親はいる、糞めんどくさくて、糞嫌味で、人当たりは温厚で物腰柔らかなくせに、したたかで、芯が強くて、負けずぎらいで、意地っ張りで、でも意地っ張りであることを誰にも見せない狡猾さと、それを支える努力と鍛錬を日々欠かさない、どうしようもないほど世知に長けた、妖怪のような母親だ。 「あら、まどかちゃんめずらしいのね、日曜日なのに家にいるの。」 「うっせーよ試験なんだよ。」 「またそんな、学業なんて徒労よ徒労。懲りない子ねえ。」 「だ