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Kindleで発売中の拙著「女たちは列に並んだ アンナも列に並んだ」について

帝政期ロシアで愛の詩を書き、素晴らしいパフォーマンスと共にそれらを朗唱して一世を風靡した美貌の詩人アンナ・アフマートワは、ロシア革命後、一切の詩の発表を禁じられ、政治犯として無実の罪で投獄された一人息子への差し入れのために、猛暑の夏も厳寒の冬も名も知らぬ女たちの長蛇の列に一日中並ぶことを余儀なくされた。女たちの夫や息子たちも皆、不運にも密告され、罪状なきまま深夜に逮捕されたのだ。アンナの夫は政治犯として既に銃殺され、どこに埋葬されたのかも定かではない。父親と同様、息子にも死の影がちらつく中で、アンナは娘時代の記憶や過去の華やかな回想に浸る。獄中の息子を思って、断腸の思いで詩集「レクイエム」を書きあげた。だが、無論、ソビエトで彼女の詩が発表されることはない。少なくともスターリン体制の時代には。彼女は誓った。スターリンより長く生きよう! だが、彼女は詩を紙に書いておくことも出来なかった。亡命もせず、国内で密かに創作活動を続けている詩人や作家、芸術家の住居は絶えず家宅捜査をされたからだ。アンナの親友マンデリシュタームの家が家宅捜査をされ、反スターリン的な詩が発見された。彼は直ちに逮捕され、シベリアに護送されてゆく最中に命を落とした。アンナは考えを巡らせた。この悪夢の時代について、どうやって後世に伝えよう。詩は決して紙に書かれることはない。けれども、すべては記憶されなければならないのだ。それは語り継がれなければならない。二度と政治の悲劇が起こらぬために。一人の女、すべての女の苦悩を永遠に人類の脳裏に焼き付けるために。


以下、「女たちは列に並んだ アンナも列に並んだ」より抜粋。

 それからすでに八カ月が過ぎ、アンナはこの一人息子の頭文字の日に、差し入れを手に、同じ境遇の女たちの長い列にどれほどの時間を並んだことだろう。老婆や妊婦たちが数珠で繋がれたように次々と路傍に倒れてゆく七月の過酷な猛暑にも、朦朧とする意識のなかで辛うじて立っていた。大空がみるみる黒雲に覆われ、滝の粒の豪雨が降り注ぎ、全身が靴の中までずぶ濡れになったまま何時間も佇んでいた時もあった。陰鬱な深い霧がネヴァ川にかかり、色のない太陽が世の終わりを告げるべくどんどん低くなってゆく日々を得体の知れない不安に怯えながらも、顔色ひとつ変えずに立ち尽くしていたのだった。
 アンナは恐ろしい六月を思い出す。それは白夜の季節であり、早朝から深夜まで何もかもが明るみに照らし出され、蒼穹は心をそっと休息させてくれるだけの仄暗ささえも投げかけてはくれなかった。蝕のような闇が訪れることがあっても、それは深夜の二時過ぎの神秘的な日没の後の束の間の時間であった。
アンナはほとんど一睡もしないまま、普段の季節なら恐らくまだ夜も明けぬうちから、ひんやりとしたベッドを抜け出した。少女時代から神経症的なところがあって、心地よい眠りとはあまり縁がなかった。寄宿舎で夢遊病になって貴族女学校を退学したこともある。不眠はいつからか彼女の生の一部であり、芸術家たちとの夜の交流を謳歌していた頃も常に彼女の道連れであった。だから、彼女はよく眠ろうが眠れまいがほとんど意に介することはなかった。
アンナは、僅かな食糧の中から、食器棚の引き出しが閉まらなくなるほど集めてあった差し入れ用のビスケットをボール箱に詰めると、化粧をすることも、身を飾ることもなく、有り合わせの服を着て、自分のためには何の用意もせず、静まり返った別館から河岸通りに出た。そこから急に歩を早め、ひたすらネヴァ川の方角へと向かった。陽光はフォンタンカ川の川面にもきらきらと揺れ、樹々の緑もすでに白昼の光を浴びたかのように透けて、輝いている。だが、どの通りを抜けても道を往く者の姿もなく、車も滅多に走ってはいない。蔓草や人面の彫刻で飾られた石の建物の、縦長の二重窓の奥は光を遮断するための赤や濃い色のカーテンで覆われている。どうやら夜明けまでにはまだしばらくありそうだ。
 それでも、アンナがリチェーイヌィ橋を渡り切ってようやく十字獄に辿り着いた頃には、すでに大勢の仲間たちの長い列が出来ていた。早朝の、ひんやりした、生臭い湿気を孕んだ河岸通りの風が頬を打つ。
上部を二重の鉄条網に覆われた、泥で汚れた埃っぽい赤レンガの分厚い壁が監獄を娑婆と隔てながら、ネヴァ川に沿ってどこまでも続いている。その壁の横に、壁の長さよりもさらに長い女たちの列が出来ているのであった。この日はГ(ゲー)の頭文字を持つ者のための差し入れの日である。Гのつく名字だけで、これほど大勢の人民の敵が逮捕されているのだろうか。街からはもうГの名字の男はすっかり姿を消してしまって、すべては十字獄に拘禁されているのではないかと思われるほどである。
アンナは列のはるか後方に並んでいたので、列の先頭のほうでは、一体どれほどの時間をかけて差し入れが愛する者たちのために託されているのか、まったく分からなかった。いや、まだ夜明け前なので、窓口は閉ざされたままでいるに違いない。列は微動だにしていなかった。アンナは赤レンガの壁の向こうに、鉄格子の嵌まった窓が何層にも並ぶ棟を、白々とした空のもとに、吸い込まれるように眺めた。
 壁の向こうには巨大な十字型をした棟が二棟建っており、それらは輝く空の色とは対照的に陰鬱な影に沈む、薄汚れた赤レンガ造りの建物にほかならなかった。
「ああ、レフは今頃きっと、こっち側の棟のネヴァ川に臨む鉄格子の窓の下にいるわ。あの子はこの長い列のことを気配から気がついているに違いない。あの子は白夜をどのように過ごしているのかしら? 覆う物もない鉄格子の窓からほとんど一晩中光が射し込んでくる牢獄でよく眠れた? そうして、白夜は一晩中どのようにレフを見つめていたことだろう? 少しは不憫に思って、優しい希望をあの子の胸に吹きこんでくれたかしら? いいえ、そんな夢のようなことがあるはずもない。白夜はおまえが背負っている十字架と死について何か不吉なことを語ったに違いない……」
 アンナは一瞬立ったまま夢を見た。見知らぬ女たちの話し声がどこからともなく聞こえてきたのである。だが、周りを見回しても喋っている者の姿などどこにも見当たらないのだった。
「上の息子はシベリアに送られましたの。今日は下の息子のために並んでいるんです」
「夫は十五年のラーゲリ流刑ですわ」
「毎晩、シベリアの夢を見ます」
「わたしは、ここに喜んで並ぶわ。自分の家にいるみたいだもの。ここに来るだけで、息子のすぐ近くにいられるのよ」
「ああ、ご存知かしら? 窓口で息子がすでに銃殺されてしまったことを知らされて、差し入れ品も突き返された老婆のことを? 老婆は一頻り傷ついた野獣のように、喚き、呻き、叫び、とうとう息絶えてしまったわ」
列がかすかに動いたことにより、アンナは、それが夢ではなく、実際にどこかから漏れ聞こえてきた女たちの声であることに気がついた。だが、いったいどこから聞こえてきたのだろう。それらはどこか現実離れしていて、むしろ夢の中の、誰かのもののようでもあって誰のものでもない声に似ていた。聴覚を通して聞こえてきたというよりは、心から心へ直接伝達されたもののようであった。
その時、アンナは気がついた。同じ頭文字の名前を持つ者たちは、少なくともアンナが列に並ぶようになってから三カ月は共に並んでいたはずである。一人二人は知った顔に出くわしても不思議はない。ところが、アンナは一人の顔も覚えていないどころか識別することすら出来ないのである。どんな顔の特徴も記憶していないし、お互いに見知った者同士が交わす挨拶すらしたことがない。
その理由はほどなく分かった。女たちの顔にはいかなる表情も浮かんでいなかったのである。それどころか、人の顔を他人のそれと区別するための最小限の個性すら備わっていなかった。それらは、もはや人の顔であることを放棄しているようですらあった。誰もが、同じ蒼白の、眼も鼻も口もないマネキンの頭部そっくりな布の仮面を被っているようであり、その下にあらゆる哀しみを、憤りを、孤独を、やるせなさを、つまりは言葉にもならないほどの多様な悲嘆の感情を封じ込めてしまっているのであった。仮面の顔はいかなる悲劇を目の当たりにしようが、胸を裂かれるごとき悲痛な叫びを耳にしようが、表情ひとつ変えることはない。涙を流すことすらないだろう。
女たちは微動だにしていない。その髪すらも動かない。プラトークと呼ばれる黒い布にぴったりと髪を覆われているからだ。また、その身体を包む、着古した、継ぎ接ぎだらけの衣服も一様であり、突風が起これば、どの服も風を含み、はためき、まるで女たちが動いているかのように見える瞬間もある。無論、それは錯覚である。
これらは一見最も慎ましい、消極的な、諦観に満ちた魂の抵抗にほかならなかった。差し入れの列に並ぶ者が、夫や息子の無罪を主張して、窓口や見張りの兵士たちの前で反抗することは許されていなかった。かすかな反感でも知られることになれば、それが獄中にいる者たちに不利に働くのは目に見えている。女たちは沈黙と仮面のごとき無表情によって愛する者たちを護っているのであった。
にもかかわらず、アンナは確かに女たちの言葉少なげな独白を聴いたのであった。もちろん、それがどの唇から漏れ出た言葉であったのかは永遠に分かりはしないだろう。仮面の口はどれも堅く閉ざされたままで、ふたたび言葉を紡ぎはしなかったからである。そうして、この長い、沈黙の列の中で言葉を発することがどれほど危険で勇気の要ることであるかも、アンナにはよく分かっていた。だから、耳にしたすべての言葉を金糸で縫うごとく胸に刻みつけた。あたかも、たった今生み出されたばかりの黙示録を体内の秘密の場所にしまっておくように。
こうした黙示録が紡がれることのないほとんどの時間を女たちは茫然自失の中に過ごしていた。時々はっと我に返ると、いったい何時から、どうして、こんな列に並んでいるのか、しばしば前後の記憶が欠落していて、愕然としてしまうことすらあった。アンナも差し入れの品と番号札のみを持って、他の女たちと等しく表情のない仮面の一つとなったまま、詩を朗詠するどころか、日常の言葉すら交わすことのない沈黙と意識の眠りの中に何時間も佇んでいたのであった。それは群集の中にありながら、声を発することすら忘れてしまいそうな究極の孤独であり、同時に、ここに並ぶすべての人々とそれを共有しているという暗黙のうちの結束にほかならなかった。彼女は名も顔も知らぬこの女たちのことを決して忘れることはないだろう。
恐らくどの女たちのなかにも、息子や夫を想う時の、居ても立ってもいられない不安や胸の痛みや死の谷底に吸い込まれてゆくような狂気に苛まれている瞬間と、それらが麻酔にかかったみたいに消えてゆく眠りの瞬間とが交互に訪れているに違いなかった。
時折、アンナは赤レンガの壁に沿ったネヴァ川の低い流れに眼を遣った。陰影もなく、深みもなく、表層ばかりが太陽を中心に放射状に輝いている空の下で、ネヴァ川の水面はどろりとした銀青の、厚みのある波のうねりを塑造しており、魚の色にも似たその小波をめがけて、何羽ものカモメがすれすれに掠めてきては、素早く身を翻し、旋回し、けたたましい啼き声を木霊させては、ふたたび上空へと飛翔してゆくのであった。
「ああ、少女時代は、古代の海洋民族ケルソネスびとみたいに、大空を翔るカモメたちと張り合わんばかりに黒海を泳ぎ回ったものだわ。ツァールスコエ・セローでは木登り上手の陽気なお転婆娘で、みなの人気者だった。もしも、あの時に、意地悪な妖精にでも、これからの人生に起こる恐ろしいことをすべて見せられていたとしたら、ああ、今頃わたしは……」
アンナは最初は悲しげに、次第に懐かしさで胸をいっぱいにして、澄みきった紺碧の海の生温かい感触を想い出していた。彼女は少女時代の夏をしばしば生まれ故郷の黒海の海岸で過した。そこは、あまりにも無数に入り江があるために、ゆるやかな海岸線などどこにもなく、砂浜と海と半島とが迷路のように入り組んでいるのであった。ところどころ険しい岩がそそり立っているかと思えば、緑や南国の花々が香る風光明媚な半島もあった。
入り江の砂浜には、午後の海水浴を楽しみにきた若い女性の姿がちらほら見受けられた。アンナも十歳年上の姉インナに連れられて入り江の一つにやってきた。色白で美しい姉はお洒落で、空色の絹のドレスの優美な裾を微風にふわふわと靡かせていたが、下着には窮屈なコルセットと胴着をつけ、ペチコートを二枚も穿いていた。そのうちの一枚には糊付けがしてあった。驚いたことには、インナぐらいの年頃の娘やもっと年端のいかない娘たちまでもが、アンナの眼には奇妙に映る、妙に洗練されてはいるものの窮屈さを強いられる貴族風な散歩服に身を包んでいるのであった。それが浜辺の流行だったからである。アンナは薄い下着の上に、黄色いワンピースを着ていただけであった。
「あれじゃ、泳げないわ!」
 アンナは姉を見上げて言った。あの恰好ではせいぜい浅瀬の海を嗜みにやってきたようにしか見えなかった。
「アーニャこそ、素足で、コルセットも胴着もつけていないなんて。そんな恰好の子、どこにもいないわ」
姉は呆れ顔で言いながら、慣れた仕草で頭に特別の小さな白い縁なし帽を被った。それから、小さなゴムの靴を履くと、さっそく浅瀬に足を踏み入れた。
「さあ、アーニャもいらっしゃいよ。ほら、白い縁なし帽とゴムの靴も持ってきてあげたのよ」
インナは妹に、自分のものと同じ白い縁なし帽と小さなゴムの靴をきれいに揃えて差し出したが、アンナはどちらも受取ろうとはしなかった。両手を背中に回して、ぎゅっと指を握ったまま、激しく首を横に振った。
「そんなもの要らない!」
「アーニャは海に入らないの? 気持いいわよ」
 インナは優雅に身を屈めると、陽光がゆらゆらと戯れているために、黄金色や銀色やサファイア色や黒曜石の色にきらめく砂粒までもが透けて見える浅瀬に、両の掌を大きな匙の形になるようにくっつけて潜り込ませると、そこに入るだけの海水を掬って、それを自分の足首や腕や、首筋やドレスの上からパシャパシャとかけるのだった。そうして感嘆の声を上げる。
「ああ、いい気持! 潮の香る風に運ばれて彼方の雲まで連れてゆかれそうだわ!」
ほどなく彼女は浅瀬を後にすると綺麗なドレスが濡れてしまったのを気にしながら海岸に戻ってきた。彼女だけではなかった。若い娘たちはみな同じやりかたで、一頻り海水のひんやりしたような生温かいような感触を楽しむと、すぐに海岸に戻ってきてしまうのだった。
「あたし、泳いでくる!」
 アンナはほとんど衝動的に黄色いワンピースを脱ぎ棄てると、薄い下着一枚だけになった。姉たちのお上品な嗜みが彼女を苛立たせたのか、それとも海を愛する最後のケルソネスびとを自認する誇りからなのか。それから、頭のてっぺんまで砂だらけになって、砂浜に穴を掘ると、そこに黄色いワンピースを埋めて、ふたたび上から砂をかけた。浮浪者がお気に入りのワンピースを持っていってしまうのを子供らしく恐れたのである。
 下着一枚になったアンナはすっかり身軽になった。素足のまま浅瀬に足を踏み入れると、そのまま派手に水飛沫を飛ばしながら駆けだした。
「アーニャ! アーニャったら、どこへ行くの? ねえ、一人で勝手に遠くへ行ってはいけないわ! お願いだから、戻ってきて!」
姉の哀願も空しく、その声はみるみる背後に遠ざかっていった。
「アーニャ! 絶対に明るいうちに戻ってきて! どうかママを心配させないで!」
アンナは後を振り返ることもなく、ひたすら沖の方角を見据えていた。浅瀬はどんどん深くなってゆき、もう走る必要もなかった。アンナの身体は魚のように水に浮き、誰にも教わったこともないというのに、四肢が見事に海水に馴染み、潮の流れも波の揺れもすべてを味方につけて、どこまでも、疲れを知らずに泳いでいった。
時々、人魚の腰掛けにも似た小さな形の良い岩を見つけると、彼女は岩によじ登って、陽に焼かれてすっかり熱くなったその窪みに、本物の人魚を気取ってちょこんと坐ってみるのだった。無心になって真夏の目眩く大空をふり仰ぐと、彼女の頭上を数羽のカモメが奇妙な楕円形を描きながら旋回している。
その時、皮膚が突っ張るような妙な違和感を覚えた。潮をたっぷり吸った下着がみるみるうちに乾燥して、板のように固くなっていたのである。黒髪も、流れに弄ばれ、さまざまな方向に靡いたまま、くしゃくしゃになって固まっている。アンナはふたたび海が恋しくなった。彼方に眼を遣ると、奇岩にも似た、分厚い雲の塊をいくつも浮かべたナイルブルーの明るい空が水平線と接している。その劇的な風景の中に吸い込まれてみたかった。少女は、人魚の岩から、美しい弧を描きつつ海の紺碧に飛びこむのだった。髪や下着を固まらせていた潮はみるみる海水に溶け、彼女はふたたび心地よい浮遊感を愉しんだ。太陽はまだ高く、蒼穹に燦然と輝いていたし、彼女の目指す沖は一露里の彼方にある。
「あの赤い屋根のある灯台まで泳ぐわ」
アンナは目標を定めると、脇目も振らずに一心不乱に泳ぎ続けた。海洋民族の血を引く、相変わらず疲れを知らない肉体を海中にぐいぐいと潜らせてゆくと、急に低くなった視界に、白くすらりと佇む遠くの灯台の赤い円錐の屋根が、波と交互にちらちらと揺れて見える。だから、頭上を前よりももっとたくさんのカモメが飛び翔っていることに彼女はすぐには気がつかなかった。
彼女は灯台のある小島をぐるりと廻ったら、日の暮れないうちに、姉たちのいる入り江の海岸に戻る積もりであった。自らの泳ぎの腕前を少しばかり過信していたし、スコールでも来ない限り、方向を見失うこともないだろうと思っていた。だが、あまりにも夢中になっていたせいか、時の経つのも忘れ、気がついた時には高かった太陽もさすがに傾いて見えた。それどころか、周辺の海面は低い雲でも垂れ込めてきたかのように、次第に灰色の影に覆われつつあった。それが、雲などではなく、群れをなし、激しく旋回しているカモメたちであるということにアンナが気がつくのにはそれほど時間はかからなかった。彼らの声のかしましさときたら、たとえこちらが水中に深く潜っていようとも、とりとめのない夢想に耽っていようとも、耳につかないはずがないのである。
アンナはぞくっと身震いをした。あらためて周囲を見回し、鳥たちの数に圧倒された。優しい、時として甘い声で啼く鳥たちであるはずだ。人間の血に飢えている類の鳥でもない。ところが、今や、いつ襲いかかってきてもおかしくないほどの緊迫感すら漂わせているのである。時折、群れから離れて、アンナの髪や肩や腕を白や灰色の翼の先で掠めてゆくのもいれば、耳許で、甲高く啼き続けているのもいる。だが、アンナが姉たちの待つ入り江の方へ戻ろうとすると、どういうわけか、カモメの群れは一丸となって、阻止しようとするのである。
「どうして邪魔するの? あたしを、入り江に帰らせて!」
 妨害されるような心当たりはなかった。それでも、彼女がふたたび入り江のほうに向かって泳ぎ出すやいなや、たちまち、そちらの方向にカモメたちが集まって、びっしりと厚い幕を作ってしまうのだった。こうなると、赤屋根の灯台のある島をぐるりと回ってから引き返そうなどといった果敢な計画も、最早どうでもよくなってくる。カモメたちはいったい何の目的で彼女が陸に戻ることを阻むのだろう。入り江の海岸から遥かに離れて、心細いやら、カモメたちの尋常でない振舞いにすっかり恐れをなし、アンナはひたすら姉たちのところに、母たちのいる家に帰りたいと願うばかりになっていた。
「ねえ、道を開けてよ! いつまでもこんなことしていたら暗くなってしまうわ!」
 アンナは今にも泣き出しそうな声で哀願した。奇妙なことには、アンナが何か叫ぶと、カモメたちのほうもいっそう騒がしくなってゆくのであった。まるで彼女の言葉を理解し、そうして、何か反対しているのではないかとさえ思えるのである。啼き声の調子によくよく耳を傾けてみると、異口同音に忠告してくれているようでもあった。その時アンナは、一瞬正気を失っていたのだろうか。それとも幻覚を聴いたのだろうか。彼女の脳裡で、今まで未知であったいくつかの言葉が、突然像を結んだのであった。
「入り江に戻っては駄目よ!」
「あなたには恐ろしい運命が待っているわ」
「死んでしまったほうがマシさ」
「これから、どんな恐ろしいことが起こるか見てしまうぐらいだったらね」
 アンナの胸を冷たい戦慄が走った。
「恐ろしいこと? ねえ、何が起こるの?」
 もっとも、すべてを聞かないうちに、アンナは余りにも唐突に、白夜の幻想、悲しい白日夢から醒めてしまった。そもそも仮面の列のなかで茫然と立ち尽くしているうちに、少女時代の想い出が脳裏を過り、そのまま悪夢の入り口に迷い込んでしまったものらしい。アンナを目覚めさせたのは、差し入れの窓口のほうから聞えてきた金切声にも近い、哀れな一人の母親の声だった。

本編は、こちらから。


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