つながりについて

自然界にプラグはあるのか?

私たちは、つながりを感じたり、またはつながりが断たれることを感じながら生きている。

現在、世界では、今まで当たり前にあったような多くの触れ合いが難しくなり、たくさんのつながりが断たれていることを私たちは感じている。

しかしながら、人間を抜いて考えたときに、つながりとはなんだろうか。
この世界では全てのものが関係性を持っていて、他と関わらずに完全に独立しているものは原子の一つたりとも存在していないようだ。

ある意味、全てのものが、どこかでつながっていると言えるのかも知れない。

私たちは、人や動物、ものと出会いつながり、そして別れることを意識のなかで、または行動で繰り返している。そして死と言う別れ、愛する人との別れ、自己と世界との別れ。

私たちが”つながっている”と感じているということには必ず終わりが来る。しかし果たして、それは本当に終わりなのか。

普段から、私たちは意識の中で、何かをつなげたり、また離したりしている。
それはつなぐと電流が流れ、抜くと、電流が断たれるプラグ(コンセント)のようだ。

しかし自然界にはプラグというものはない。
全てのものがそもそも関係性を持ち、作用しあって存在している。

それでは、つながりとは?断絶とは?

つながりとは感じるもの、人の意識の中のものであると言えると思う。

そしてつながりと、離れること、断たれることは、相対する概念、コインの表と裏のようなもの、つまり関係性を表している。
関係があるということ。
互いに離れている、独立しているから、つながることができる。つながることからいつか別れが来る。

自然の中でも、群れや家族を持つ動物のなかには、つながり、離別にたいする意識、感情はありそうだ。

それでも、意識の中でこれだけ忙しくプラグを挿したり抜いたり、電源をオンにしたりオフにしたりしているのは人間だけのようだ。

つまり、意識上でも行動でも、意識的に自ら何かとつながったり、離れたりしている。

例えば、喧嘩などは、つながりがあるから起こると思う。
そもそもつながっていなければ衝突もしないだろう。喧嘩などで離別したと思っても実際はつながりが絶たれたというわけではない。

つながっているものが離れることには、辛さ、寂しさを伴うのだろう。

意識の中で、つながったり離れたりするというのは人間の能力で、他者との間だけでなく自分の中でもそれは起こっている。

心と身体もそもそも一つのものかもしれないが、私たちはよく心と体を別のものように感じている。

心と身体のつながりなどと言うときに、意識の中で既に心と身体が分離しているという背景がある。

フェルデンクライス博士は、人間の行動を構成する主観的な要素として、感覚、感情、思考、運動の4つを代表的なものとしてあげている。

これら4つは、独立したものでなく、相互に影響しあっているが、これらが別のものとして存在し、表現されているのは、人間というものの機能であるようだ。

身体と心、部分と部分、部分と全体、自己と他者

いろいろなものが別かたれることで、私たちはそのそれぞれを”識別”して認識、そして理解しようとできる様になったのではないだろうか。

しかしながら、この意識の作用によって、身体と心、自己と他者、自己と世界のつながりが絶たれたことを感じて、私たちは孤独感、疎外感を抱えて生きていることになっているのかもしれない。
それは人の業なのかもしれない。

だから常につながりを求めているのかもしれない。

私たちは意識によって世界を分け、識別し、理解しようとし、そのほんの一部を知ることができるが、それによって同時に世界の、物事のありのままの姿、全体性が失われることにもなり得る。
主観的な意識によって世界を切り刻んでいるのかもしれない。
言葉などはその最たるものだろう。

意識の働きによって、世界や自己を認識し、それを知ろうと探求できる様になった代わりに、ありのままに事物を見ることが難しくなったということが言えるのかもしれない。
しかし、このような意識の萌芽がなければ、世界や自己を観察し、知ろうとすることもなかったのだろう。

まとめ

つながり、そしてそのつながりが途絶えることは、人間の意識のなかで起こっていること。

このつながりが途絶える事が人間の大きな苦しみとなっている。

人間は常に意識で様々なものとつながり、離別することで苦しみを感じている。つながりとそれが途絶えることはコインの表と裏の様な、物事の”関係性”の二つの表れ方である。

つながりがあるから断絶がある。
互いに独立しているからつながることができる。

これはよく言われる、分化と統合の関係と似ている様に思う。

分化と統合

Differentiation and Integration

つながり、別れることは自身のなかでも起こっており、物事を”識別”すること、物事の境界、形を認識し、自己や世界に興味を持って、知ろうとすることになっていくのかもしれない。

さて、既に持ってしまっているこの自己の主観的な意識をどの様に扱うか、ということが私たちの大きな課題の一つである。

このことはまた話したいと思う。

AraTetsu


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