second_test 02

TMW3サーバを抜けたアオハはプライベートサーバに移動する。地球の公園を模した、それほど広くない空間がレンダリングされているだけのエリアだが、アオハはここが気に入っていた。他の人間がいないので静かで、そしてなにより──公園の中央にある大きな欅の木の木陰に、巨大な猫が寝そべっていた。チーターほどのサイズだが、その姿はれっきとしたイエネコで、いわゆるベンガルと呼ばれる品種だ。シルバーの毛並みにグレーの模様がついている。
アオハは巨大な猫に近づくと、顔をむんずと掴んだ。
「ディーリーーーーーー」
自分のものよりふた周りほど大きな猫の顔を撫で回す。シェオル空間での猫の触り心地を実装したエンジニアは天才だと思う。
しばらくされるがままになっていた猫はめんどくさそうに瞼を開いた。
「なんだ、戻ってきてたのか。てっきりTMW3の住民になったのかと思ってたぞ」
「そんなわけないじゃーん。シェオルのいち市民として、そしてISSAの見習い職員として真面目に研究と義務をこなし……」
「ウソつけ。三ヶ月間ずっとゲームしてたくせに」
「う、うそじゃねーし!二ヶ月前にドールの申請しにアテナのところに行ったし!」
「じゃあそれ以来、少なくとも二ヶ月はゲームサーバにこもってたわけじゃねーか。三ヶ月も二ヶ月も大差ねーよ」
「……」

何も言い返さないアオハを見て、ディーリーと呼ばれた猫はのっそりと起き上がると前足をぐっと出して全身を伸ばした。その仕草はさながら猫そのものであるが、ディーリーもまたシェオルに住むスペクターであり、もちろん人間である。無類の猫好きであるディーリーにとって、巨大なベンガル猫は彼のお気に入りのアバターだった。
彼が、所謂ホモ・サピエンス、つまり生物的ヒトであるベーシックを模した姿を取ることは見たことがない。猫好きであるディーリーは、同時にベーシック嫌いでもあった。したがって、ISSAの任務で物質世界に行くときがあっても彼は決してベーシック型のドールを作らない。大抵は、オリジナルデザインの四足歩行ロボットのドールを使用していた。それ故にベーシックのISSA職員たちからは「ちょっと近寄りがたい変な奴」扱いされていることに、本人は気づいていない。
「で、何しに来たんだよ」
ディーリーは伸びを終えて座り直すと、黄色の目をアオハに向けた。木陰を作っている欅の木の葉と同じ新緑色の髪が、仮想空間に吹く風にさらさらと揺れている。
アオハのアバターはアニメ調のベーシック型だった。デザインしたのは彼らの名付け親であり、電子遺伝子的にも親族であった人物。アオハはそのアバターと名前を与えられて以来、どこに行くにも──TPOに応じて多少のアレンジはするものの──そのデザインを使用している。アオハのような物質的肉体を持たないヒトであるスペクターが、物質世界に干渉するための道具であるドールを作る際にも、彼はそのデザインを踏襲して作っていた。
「次のテストの日程が決まったから、報告しに」
「そりゃいいな」
「でしょ」
えへへ、と無邪気に笑うアオハをディーリーは横目で眺める。共通の電子遺伝子的親を持つ二人は兄弟とも呼べる存在であった。ディーリーのほうがだいぶ早くスペクターとしてシェオルに存在しているとはいえ、共通の電子遺伝子を持つ者同士、気が合ってつるむようになるのは必然と言ってもよかった。
ディーリーもまた、ISSAの職員として活動している。彼の専門は天文学であり、現在はISSA本部サーバで、無数の衛星天体望遠鏡から送られてくるデータを検分している最中であった。
ISSAの職員に正式採用されると、シェオルでの精神コピー権限が一つ付与される。また、研究や実験の功績に応じてコピー権限は増加する。ディーリーは現在、三つの精神コピー権限を持っている。このプライベート環境に存在するベンガル猫は彼の三つの精神コピーの内の一つだった。
ちなみに残る一つの「彼」は今、SRゲームに興じている。
「ぼくもコピー権限がもらえたらTMWの住民になるんだぁ」
「動機が不純すぎる……」
「ディーリーだってずっとゲームに住んでるじゃん。なんだっけ、『Deep Space-7』とかいうやつ」
「スペース・オペラは過去であり未来だ。あらゆる可能性とロマンが詰まってんだよ。野蛮な戦争ゲームと一緒にすんじゃねぇ」
「えー。Deep Space-7だってレーザー銃とかあるし、いっつも異星人同士で戦争してんじゃん」
「……」
今度はディーリーが黙る番だった。二人のスペクターの間をランダムにシミュレートされたそよ風が流れていく。

「で、テストはどこでやるんだ?」
ディーリーは無言の時間を打ち消すように話題を変えた。
「月だよ。ティコ第一基地!」
「お前、ベーシック相手にドールの動作テストしたがってたもんな」
「そうそう!ティコ基地にはベーシックが多いんだよね?ぼくの研究分野がベーシック型ドールの改良につながるはずなんだ。主にベーシックとドールのコミュニケーション障害について……」
饒舌に自分の研究分野について語るアオハをディーリーは特に表情も変えずに相変わらず横目で眺めている。彼からしてみればベーシックとスペクター間のコミュニケーションについて問題に思ったことはなかったので説明は聞き流していたが、「こいつも大きくなったなぁ」とか考えていた。
「そういや、ニクスは?」
ニクスは二人と同じ遺伝子的親を持つ、もうひとりのスペクターだった。三人でこの公園を模したプライベート空間を共有しており、たいてい誰かしらが居るのが日常である。
「一体はISSAの仕事で地球に行くって言ってたな」
「ええー!?いいなー」
「地球でやる仕事なんてほとんどがくだらないお役所仕事だろ。バカ真面目なアイツにピッタリだな。もう一体はなんとかっていう友達のとこに行くって言ってた気がする……」
「ディーリー、人の名前忘れるの得意すぎるでしょ」
「関わりない人間の名前なんか覚えていられるかよ。メモリの無駄」
「うーん、正論」

アオハは巨大なベンガル猫の背中に顔をうずめながらもごもごと喋る。ちょっとの間シェオルを離れることになると思うので、その前にモフモフを堪能しておこうという魂胆だった。月基地にも少数の動物はいるが、愛玩用ではないし、触れる機会もないだろう。ディーリーは黙ってされるがままになっている。いつもの風景だった。
「じゃあ、そろそろアテナのところに行こうかな」
アオハはそう言って立ち上がる。猫の毛を多量に吸い込んで満足したらしい。
「おう、気をつけろよ。ベーシック共は繊細だから……」
「わかってるって。ぼくのドールに搭載したオリジナル機能でベーシックと仲良くなってみせる!」
「……」
ディーリーはこれ以上なにも言うことはないと判断したのか、再び地面に横になると体を丸めた。
ディーリーのアバターが無言でしっぽを一振りするのを見てアオハも黙って手を振ると、プライベートサーバを後にした。

仮想世界シェオルには複数の都市サーバが存在する。実在する都市を模したものから完全に架空のものまで、その数は二千を超える。
その中でも最も古く、重要度が高いと言われているサーバがファースト・セントラル。通称、アクロポリスと呼ばれるエリアである。
アクロポリスの重要度が高いと言われているのは、このサーバにISSAの本部があるからである。職員は基本的に各々好きな場所で作業をしているが、一般の都市サーバでは負荷が高すぎる処理を行ったり、ISSA職員しかアクセスできないデータを参照する場合にはアクロポリスを訪れる必要があった。そして、ISSAの最高権限を持つアテナに面会する場合にも。

また正式な職員ではないアオハだが、アクロポリスへのアクセス権はもらっている。中央広場に転送されたアオハは、プライベートサーバでのラフなミリタリーファッションから白衣のようなISSAの制服へと見た目を変えていた。このサーバにアクセスすると自動的にアバターがこの服装になるように設定してある。ISSAに職員登録した日に設定させられたものだ。この制服は物質世界へ行くときのドールの標準装備でもある。宇宙空間でも活動できるように作られた制服は、襟と袖口の部分にシルバーの縁取り、左胸にISSAのロゴが記されているだけのシンプルなものだ。ドールは宇宙空間での作業用に作られる事が多く、制服は視認性を高くする効果があるのだとか。

アオハは一度宇宙空間に行ったことがある。面白かったが、同時に退屈なテストだったな、とアテナへ会いに行く道すがら当時を振り返る。
ISSAの職員に採用されるには実地テストを行う必要がある。テストの内容は様々だが、言ってしまえば雑用だった。巨大なスペース・デブリを回収するとか、月基地の月面に出ている部分の清掃、運がよければ木星や土星の調査ステーションに資材配達に行くこともあるが、そういったミッションは稀だった。
アオハはある意味では幸運で、ある意味では不運だった。前回のテストは小惑星に住んでいるスペクターに資材を運ぶという任務で、宇宙空間に単独で出ることができたという点では幸運だったが、完了までに二十一年を要した点が不幸だった。おかげで最初のテストを申請した同期たちから大きく遅れて、ようやく二回目のテストを受ける権利を得たのだ。
小惑星には変わった人たちが住んでいる。
天文学に注力し、ベーシックとしての死後スペクターとなってからも天文学を愛するあまり小惑星に住んでいる者。ただ単に一人で静かなところで研究したいからと、小惑星を住処に選んだ者。低重力下での実験のために多数の機材を持ち込み、研究している者。彼らの共通点は、皆ISSAに所属しているということくらいだ。ドールを申請するにはISSA職員でなくてはならない。そして、ISSA職員であり続けるには何らかの、人類にとって有益な研究をする必要があった。ISSA職員になるということは同時に何らかの専門分野の研究者であるということを意味している。
そうして変わり者の中でも変わり者が、小惑星を住処にしていた。そんな人間が七人。アオハは小惑星帯を二十一年かけて宇宙貨物船で一周し、住民たちに必要資材を配達し、不要になった機材を回収したりする任務をこなしたのだった。

ISSAの本部にたどり着くと、入り口でIDを提示する。IDはシェオルで共通の、文字通り個人を証明するものだ。指紋のスキャンパネルを模したUIに手をかざすと、二十ミリ秒後には入館システムがアオハの権限を参照し、入り口の扉を開けた。

エントランスに入ると、受付AIに来館理由を入力することになっている。感じの良いベーシックの姿をした受付AIは、アオハからアテナへの面会を要求されるとニッコリと笑みを浮かべて「奥へお進みください」と言った。
「ありがと」
アオハは受付AIにお礼を言うと、エントランスからまっすぐ伸びている廊下を進む。以前、AIにお礼を言ってるところ見られてディーリーにからかわれたっけ、と考えていた。AIはあくまでAIだ。それらに意識はない。それほどの処理能力を持っていないのだ。スペクターとAIが明確に違う点だが、コンピュータの専門家ではないベーシックにその違いを伝えるのは難しい。

広くて長い廊下を進むとだんだん人影が増えてくる。描画軽減処理のために、注視しないと人影はぼんやりとした、半透明で幽霊のようなものばかりだ。アオハは他の職員に特に用もないのでそのまま進む。彼らからも自分は幽霊のような人影に見えているはずだ。

他のサーバもアクロポリス同様、この処理を導入すればいいのに、と常々アオハは思っている。しかし、研究者しかいないISSA本部ならともかく一般のベーシックもアクセスしてくる他サーバで描画軽減処理を入れたらクレームが来ること必至なのだ。なのだが、スペクターとして生まれて生来のコンピュータ専門家であり研究者であるアオハにはそのことまで考えが至らない。一般のサーバで一番処理が重いのがアバターの描画なのだ。同時アクセス数が増えると、アテナの声で処理負荷軽減のためにフレームレートを下げるとのアナウンスが流れる。その度にアオハは、一般サーバにも描画軽減処理を導入したらいいのに、と思っている。
今度ディーリーに会ったら聞いてみよう。そんなことを考えているうちに、アテナへのアクセス専用扉の前にたどり着いた。一本道なので迷うこともない。
扉の前でセキュリティシステムに再びIDの提示を求められたので、入り口同様右手のひらをスキャナーにかざす。今度は一ミリ秒も待たずに応答があった。扉が開く。
中は狭く、無機質な壁がレンダリングされているだけだった。これは都市サーバ間を移動するUIと同じものだった。エレベーターのような空間に入ると、扉が勝手に閉じる。

「転送中」の文字が扉の前に浮かんでいるのを、アオハはぼーっと眺めていた。アテナの本体がある人工衛星に自分の精神が転送されているのだ。転送中は思考能力が目に見えて低下するので、することがない。光速通信で一度に送ることのできるデータ量は限られている。スペクターそのものは結構なデータ量のため、分割して送信することになるが、そうすると複雑な思考という処理が一時的にできなくなるのだ。
約三十秒後に、再び扉が開いた。思考力が戻ってくる。扉の先には広大な古代の街と神殿が見えた。
アオハは扉を出ると、神殿に向かってあるき出す。

アテナは名前の通り神話の女神を模した姿をしている。そして、それにアクセスするためのサーバの景観は歴史研究家と芸術家達によって復元されたパルテノン神殿だった。小高い丘の上に建つ神殿に向かって数分歩く必要があるのは、アテナからの「この間に主張をまとめよ」という配慮であることは全スペクターが知っている。

アテナが処理しているのはISSAの研究データだけではない。シェオルのセキュリティからインフラの保守、大量の事務処理と、職員からの個人的な相談やメンタルケアなども行っている。そうしてやってくる多数の人々と対話するためにアテナは日々、膨大な処理能力の一部を割いている。
それはひとえにシェオルが独裁によってではなく、あくまで民主主義の精神に基づいて運営されていることを主張するためのものだった。市民の声に耳を傾け、市民のために仮想都市シェオルは運営されている。ちなみにISSA職員以外の人間や、精神ごと転送することができないベーシック用に、音声通信のみ可能な仮想端末がシェオルの至るところに存在する。市民はここから生活においての問題点や改善要望をアテナに送り、アテナはそれを日々取り入れて都市の構築と更新をおこなっている。
もちろん、そうしてアテナの元にやってくる人々のすべてが理知的なわけではない。時たま取り乱した人々も訪れては、アテナの処理負荷を上げて支離滅裂に喚き立てるだけ喚いて去っていく者もいた。そういう人に対して頭を冷やす時間を与えるのが、この景観の目的であった。この効果はそこそこあったらしく、アテナに理不尽なクレームや意図が不明の問い合わせが激減したと報告書に書いてあった。

アオハは今回アテナに呼び出された側なので、特に頭を冷やす必要もなくぶらぶらと丘を歩く。道以外に何もない。ここの景観はいつ来ても晴れていて、雲ひとつない上に無風だ。殺風景だと言ってISSAの職員の一部が嘆いていたが、アテナは装飾が無駄な処理能力を必要とするといって削除してしまった。一般的なスペクターのプライベートスペースよりも、空間描画に必要な処理能力は少ないかもしれない。
というわけで殺風景な中に異彩を放つ豪奢な神殿にたどり着き、中を覗くと広間の中央にあるソファに女神が座っていた。

アテナのアバターはベーシックの女性型なので、大半が性別を持たないスペクターから見ると少し風変わりに見える。
「おじゃましまっす」
アオハが声を掛けると、女神は眠そうな顔を上げた。この女神は、なぜだかいつも気怠そうにしている。
「ああ、おつかれさまです」
ソファから立ち上がると、豊満な肢体を見せびらかせるように伸びをした。猫みたいだな、とそれを見て思う。
「あなたの申請したドールは無事耐久試験に合格しました。次は実地になります」
「うん」
「これが詳細です」
アテナが軽く右腕を振ると、次の瞬間には紙の束が挟まれたクリップボードを手にしていた。
手渡されたそれを、アオハはパラパラとめくってスキャンする。自然言語でテストの作業内容が書いてあった。日程の欄には「可能な限り早く」とある。
「やった!ベーシックの研究の補佐?」
「ええ、あなたの希望どおりに。内容は低重力下の生物学実験ですが、月面に出る作業があるからと、スペクターの補助申請が来てたので通しました。ついでにドールの表情シミュレーション機能のアップデートが確認できるはずです。うまく行けばベーシックとドールでのコミュニケーションの改善が期待できます。テスト結果によっては今後他のドールへ該当のアップデートを組み込むことになるでしょう」
「たのしみだなー」
「それと」
自分の作ったアップデートプログラムが他のドールにも搭載されるかもしれない。嬉しさのあまりひょこひょこ頭を揺らすアオハのアバターの顔の前に、アテナが人差し指を差し出して黙らせる。
「くれぐれもベーシックが危険にさらされないように常に気にかけてください」
「わかってまーす」
「まあ第一基地の研究棟に危険物はないはずですが、先日第二基地でインシデント発生の報告が上がったので。事故に繋がりそうな異変が無いか、よく確認してほしいのです。これは全員にお伝えしています」
「うん」
アオハは勢いよくうなずく。物質世界に赴く際の基本事項だ。
スペクターは、自分たちがデータで構成された、バックアップからの復元が容易な知性体であるがゆえに非可逆の変化を非常に恐れる傾向にある。これはスペクターの基幹システムに組み込まれている、本能とも呼べるものであった。
「それから」
アテナは何かを言いかけて、それから口を噤んだ。
「いえ、これはいいでしょう」
「他にも何か?」
「あなたさえ良ければ、今すぐにドールに転送できます」
「もちろん!そのつもりで来てるからね」
アオハは張り切って答える。
「ありがとうございます。では、本部に戻ったらE62A7の端末に接続してください。ドールの製造と意識転送を行います」
「了解!」

アオハは神殿を出ると、もと来た道を下る。足取りは軽かった。すべてが上手くいっているように思えた。そうして自分が浮かれていることを自覚すると、平静化スクリプトを取り出して自己に向けて実行した。浮かれすぎてテストで何かミスをしたら元も子もない。何事もほどほどがちょうどよいのだ。

再びエレベーターのような部屋に戻り、ぼーっとする三十秒を過ごすと、いつの間にかISSA本部に戻っていた。アテナへのアクセス扉にはひっきりなしに人々が訪れている。アオハがアクセスしている間も、アテナは平行して何人もの話し相手をしていたのだ。今も半透明の姿のアバターがアクセス扉に吸い込まれては出てくる、というのを繰り返している。

アオハは本来の目的を思い出すと、アテナに指定されたエリアに向かった。Eフロアは地下十五階にある。
今度は本部内を移動する用のエレベーターに乗り、Eフロアまで降りる。エレベーターを降りるとそこには無数の、番号札がついた扉が並んでいた。シェオルで暮らす電子的な意識体であるスペクターを、実体であるドールに転送するための転送ルームだ。それぞれの部屋がそれぞれ別のドールにつながっている。
スペクターが唯一物質世界に干渉することができるドールの扱いは、大げさとも言えるほど慎重なものだった。それはドールが非常に高価なものであると同時に、単純に危険だからである。
ドールはそれぞれがスペクターのオーダーメイドだ。基礎的なテンプレートはあるものの、外観から機能、素材に感触まで独自に設計できる。その中で、物質世界で原料が調達可能かつ、宇宙空間での耐久テストに合格できたものだけが実際に運用可能になる。そうして作られたドールは多少の個性はあるものの八割はベーシック型、つまり人型をしている。ドールが人型なのは、必ずしもシェオルでのアバターの姿を模しているからというだけではない。もちろんスペクターたちは外観をアイデンティティの一部として大事にしていたが、シェオルでの姿とそっくり同じドールが作れるわけではない。ドールの大きさと重さは限界値が決まっており、それは決して大きくない。高さは最大で百五十センチメートル、重量は三百キログラムが限度とされており、設計図を元にシミュレートした結果、基準を超える場合はアテナの許可が降りない。その場合は設計図を作り直すことになる。
そうして作られたドールは宇宙空間で作業できることが基準になっているため、非常に頑丈にできている。加えて人型には五本の指を持ったマニピュレーターが二つ、標準で付いている。ちなみにオプションで指と腕の数は変更することができるが、重量制限があるためにあまり腕をたくさん生やそうとするスペクターはいない。
アオハは今回、月の重力下で活動するためのテンプレートを用いてドールを作成した。現場は月なので多少重くても問題ない。重量限界まで耐久性を上げ、しかしそのために多少高さを削ることになった。アバターに準じた、アニメ調の大きな瞳と、肩上で無造作に切り落としたような新緑色の髪。この程度のカスタマイズは一般的で、非常に簡単だった。服装は、ISSAの本部で身につけていたものとほぼ同じデザインの制服が支給される。

アオハは長い廊下を歩いて、ようやく「E62A7」と書かれたドアを見つけた。ドアにIDを提示すると無音で開く。
中は大きめのリクライニングチェアがあるだけの狭い部屋だ。
椅子に座ると、シェオルの標準インターフェースである薄い緑色の半透明な画面が表示され、同時にコンソールが開く。ドールの設計の最終チェックと製造時間の確認がここでできるようになっていた。ざっとコンソールに出力されているデータを眺め、申請した通りであることを確認すると転送許可コマンドを送信した。ドールへの転送は二度目だ。そして、これが終われば正式にISSA職員になることができる。今後もここへ来る機会が増えるだろう。
たのしみだなーと、未来の自分に想像を働かせながらアバターの目を閉じる。瞼の裏に、さっき開いていたものと同じコンソールが表示されていた。シェオルのサーバがアオハのスペクターとしての個を認識し、ドールに転送を行うための準備処理のログが流れていくのを黙って眺める。
一瞬の間があって、ようやく「転送開始」の文字が現れた。

「転送完了」

目を開ける。真っ暗だった。
パニックになる前に平静化スクリプトを取り出し、実行する。ドールに転送されたことは明らかだった。インターフェースがシェオルと若干異なるのだ。薄いブルーの仮想ウィンドウを呼び出し、コンソール画面を開く。ドールの稼働に必要なGUIを呼び出し、視界の隅に常に表示されるようにしておく。光学的視界は狭まるが直感的に得られる情報量は増えるので、アオハはドールを使うときにこうするようにしていた。
バッテリー、百パーセント。稼働状態、正常。
仮想ウィンドウは見えている。ドールの管理アプリケーションを参照しても正常に動作していることがわかる。もちろん、瞼も開いている。だが相変わらず、視界には何も見えなかった。そうして、立ち上がろうとしてようやく、自分が暗くて狭い空間に閉じ込められていることが判明した。立ち上がることはおろか、肘から先をわずかに動かせるくらいの空間しかない。ドールのマニピュレーター、つまり手で触って感触を確かめる。柔らかい。衝撃吸収素材のようなもので出来ているが、ここが何なのか分からない。
通常、ドールへの転送直後はドールアセンブリで目覚めるはずだった。ドールアセンブリは製造用のナノロボットプリンタがおいてあるだけの部屋だ。ドールの製造はナノロボットが行う。そしてもちろん明るい。少なくとも、こんな棺桶のような場所ではない。
「あれ?アテナ?」
声に出して管理者に呼びかけてみる。応答はない。音も周りの緩衝材のようなものに吸収され、全く響かなかった。
次に無線通信を試みる。しかし、これもまた周りの素材に阻まれて電波が届かない。ドールには不可視光線も検知できる機能が付いている。しかしそれを起動させてみても、電波が遮断されていることがわかるだけだった。
何か手がかりは無いものかと、限られた範囲でしか動かない両腕を動かしてみると、ドールの腰のあたりに短いケーブルがあるのが分かった。指先の感覚を頼りにたぐってみると、長さは三十センチほどで、緩衝材の外につながっている。先端は鋭利なもので切り落とされたようになっていた。ケーブルを握って切断面に親指を当てる。そこからナノロボットを流し込む。
ドールの内蔵バッテリーからわずかに電流を流すと通電した。何かに通じているらしい。
しばらくあれこれ試していると、それが一般的に地球で使われてるインターネットの通信ケーブルの断面であることがわかった。ためしに音声データを変換してケーブルに流してみる。
「ハロー?」
「意識の存在を検知しました。おはようございます、アオハ」
聞き慣れたアテナの合成音声で返答があった。ドールの起動時に流れるお約束のような応答メッセージだ。ドールが正常に起動しているかどうか確認するため、通常はドールアセンブリから出る前にチェックが行われる。それが、今回はこの棺桶のようなものの中から音声通信することだったらしい。
「ここどこ?」
「貨物ドローンの輸送コンテナです。時間がないので詳細はドキュメントディレクトリにある最新ファイルを参照してください」
「なんで?」
「衝撃に備えてください」
がたん、と振動があった。コンテナごと移動しているというのはなんとなくわかる。問題はどこに向かっているかだ。本来なら月にあるティコ第一基地にいくはずで、だから第一基地にあるドールアセンブリで目覚めると思っていたのだが、こんな移動方法は聞いたことがない。
次にまた衝撃があったと思った瞬間、ドールのカメラアイに使用している強化ガラスにヒビが入った。とっさに瞼を閉じる。強化ガラスが割れたのは分かった。ドールのGUIに損傷アラートが現れ、鳴り始める。
二回目の衝撃でようやくこのコンテナ、というよりコンテナを積んでいるらしい貨物ドローンがすごい勢いで加速しているのが理解できた。加速の衝撃で、ドールの骨格に使っているチタン合金がミシミシと歪んでいくのがわかった。損傷アラートが加速度的に閉じた視界を埋め尽くしていく。
まだ思考ができるのは、腹部にあるコアブロックが無事だからだ。コアブロックスペクターのデータがすべて保存されているハードウェアで、ベーシックで言う脳に値する。コアブロックはドール本体以上に頑丈にできていて、ちょっとやそっとでは壊れることがない。
三度目の加速。ついに両足のチタン合金の骨が折れた。ドールに付いている加速度センサがそもそも衝撃でこわれてしまい、めちゃくちゃな数字を表している。アオハはドールをなんとかするのを諦め、アテナがいっていたコアブロック内のドキュメントディレクトリを開く。
そこには複数のファイルが入っていた。自然言語で書かれたドキュメント。急いでスキャンすると、テストミッションの変更に関するお知らせと、それに伴うドールの変更箇所の説明が書いてあるのが分かった。
「アテナ、これ読んだけど……え、ぼく地球にいくの?」
「はい。急な変更をお詫びいたします」
アテナの口調はいつもどおりだ。
ようやく急激な加速度から開放されて、アオハはドールの修復に取り掛かる。内蔵されているナノロボットがドール内部を巡って、本来の設計図どおりに修復していく。ナノロボットは設計図がなければ機能しない。
「それとドールの機能変更……」
「はい。地球の重力下で最適な構成に変更させていただきました」
「うん、それはいいんだけど」
なぜ地球にいくことになったのかはドキュメントに書いてなかった。ただテスト内容の項目が「ベーシックの安全確保と妨害電波の停止」になっているだけだ。
「このテスト内容なに?」
「その前にもう一つお詫びを」
「なにについて?」
「あなたのドールの製造中に設計に変更を加えたため、起動するまで通常より時間を要したことに対してです」
そう言われてようやく時計を見ることに思い至った。シェオルで転送開始されたときのログと見比べると六時間が経過していた。通常、ドールの製造は三時間ほどで完了する。
「げ、ホントだ」
「あなたの時間を消費してしまいました。これはシェオルに帰還後、パーソナルサーバで使えるプロセッサとメモリの能力向上をすることでお詫びとします」
「マジで?全然おっけー」
「ありがとうございます。それで、テストの内容なのですが」
アテナは一旦言葉を切った。膨大な処理能力を持つはずのアテナが一瞬、何を言うべきか迷っているように思えた。
「十二時間前、ISSAからドール一体とUSSFの特殊部隊六名を、とある砂漠地帯へ派遣しました」
「なんで?」
「国際法違反の疑いがあるとの通報があったからです」
「どんな?」
「調査中です」
「よくわかんないのに特殊部隊を派遣したの?」
「ご存知の通り、ISSAの施設外でドールを動かすにはUSSFの監視が必要ですので」
「あー、なるほどね。それで?ぼくにも監視がつくのかな」
「そのことなのですが、八時間前から彼らと連絡がつきません。当初のミッションの予定時間は三十分でした。あなたにお願いするのは、現地に赴いて状況を確認することです」
「ふうん。ぼく一人で?」
「はい」
「マジで言ってる?」
「マジで言っています」
「これってISSAの職員に正式採用されるためのテストだよね?」
「まあ……そうですね」
アテナが言葉を濁した。合成音声が絶妙に小さくなっていく声色を再現しているあたり、細かいなと思う。
「つまり、人型偵察カメラになれってことね」
「できれば問題の解決もお願いしたく」
「ドール一体でできることって限られていると思うけど」
「あなたのドールを使い捨てにするつもりはありません。ただ、USSFに問題の報告をしたところ、現地の安全が確認できるまでこれ以上この問題に人員を割かない、と協力を断られてしまいまして」
「ぼくがベーシックなら、たしかにそうするかもね」
改めてドキュメントをじっくりを読み返す。音信不通になったチームは、現地警察と民間人が数名、行方不明になっている件の調査に向かったと書いてある。
「どさくさに紛れて地球上で単独、ドールを使用する許可を獲得しました。ミッション内容はシンプルです。わたしが地上の様子を観測できるようにしていただきたいのです」
「それで『妨害電波の停止』と」
「はい。それで現地の状況をUSSFと連携でき、結果的に協力を仰ぐことができます」
「……マジで言ってる?」
「マジで言ってます」
アテナは根気よく──もとよりアテナに根気など存在しないが──アオハの言葉を繰り返す。数ミリ秒考えて、すでに地球に向けて移動中なのだから自分には拒否権がないということに気がついた。ならば仕方ない。生来の楽天的性格に従って状況を分析する限り、なるようになれ、という結論にしかならなかった。
「まあいっか」
「ご理解いただきありがとうございます」
「でもさ、他にも地球で活動するスペクターはいるよね?」
「あなたをシェオルサーバに隣接するステーションで組み立てて発射するのが最も迅速かつ安全に目的地に着くと予測しました。それに、他に適切な人材がいなかったので……。ついでにステーションからドールを輸送する実験と、輸送ドローンのテストも兼ねています」
「まさかこのために作ったわけじゃないよね?」
「それだけは明言しておきますが、その輸送ドローンは三ヶ月前から準備していたものです。たまたまテスト飛行が今日だっただけです」
「なるほどね。ぼくは納得することにしよう」
アオハは自分に言い聞かせる。
「あれ、これって衛星通信も妨害されてるんだよね?ならアテナのバックアップがないってこと?」
「そのとおりです。可能な限り早く通信の回復をお願いします」
「うーん、厳しい……。だって、現地の様子が全く分からないわけでしょ?」
「そのための調査です」
「……はい」
そこまで言われてしまったら何も言い返せないな、と思った。もとより、自分より遥かに処理能力の高いアテナに舌戦を挑むつもりもない。しかし、ただで引き下がるのもなんだかもったいない気がした。
「もしぼくが失敗しても、テストはクリアにしてくれる?」
「そうしましょう。タイムリミットを八時間に設定します。それまでに地上との通信が回復しなければ……その間に次の手を考えておきます」
「了解」
「もうすぐ減速します。衝撃に備えてください」
「またアレかあ」
アオハは「げんなり」の感情タグを発したが、受け取る相手はいなかった。
「精神データのバックアップを受け取ります」
「はいよ」
差分をアテナに向けて送信する。これで地上でドールが修復不能になった場合でも、輸送ドローン内での会話内容は記憶に残る。

少しの時間をおいて、凄まじい減速Gが襲いかかってきた。背骨がぐにゃりと押しつぶされて、またも損傷アラートが鳴り出す。
「アテナ?これ、地上に付く前に壊れない?」
「わたしのシミュレーションによると、減速時のドールの損傷率は三十四%です」
「結構壊れるな……」
「なお、そのドローンは大気圏突入後に自己分解するようになっています。ドールはわたしが設定しておいた目標地点に投下されるので、着地に備えてください」
「いまなんて言った!?」
「それでは、幸運を」
最後の言葉はノイズ混じりだった。通信が途絶えると同時にコンテナ内が小刻みに振動を始めたことで、ようやく大気圏に突入しているのだということを理解した。ドールを修復しつつ通信ケーブルからナノロボットを引き離す。今のうちにと、ドールの修理に集中することにする。アテナが何か不穏なことを言っていたが、きっと聞き間違いだろうと思うことにした。はっきり通信ログに会話記録が残っていることは気にしないようにする。

少しずつ損傷アラートが減っていくのを見ながら、そういえば支援物資とはなんのことなのだろうと考えていた。ドキュメントにも書いていなければ、なんの説明もなかった。そうして、どうせ物資もさっきの衝撃で壊れているだろうなと思い、ドールの基幹システム内にある、ナノロボット用の設計図一覧を取り出す。ナノロボットは設計図がなければ機能しない。そこには、いくつかの見知らぬ道具の設計図が保存されていた。自分で保存した記憶はないので、きっとアテナがドールの設計時に混入させたものだろう。
アテナに振り回されている。そんな感想がふと浮かんだ。理不尽だ、という感情タグを自分が発しているのを認識する。
そうして、シェオルと違って思い通りにならないところが物質世界だったな、と思い出していた。なるようにしかならないし、全知の女神は理不尽なのだ。

ドールの修復が八十七%まで終わったところで突然、真っ暗だった周囲がわずかに明るくなった。
投下されたと分かったのは、修理の終わった加速度センサに変化があったからだった。それに明かり──満点の星明かりが見える。起動直後に視界をナイトビジョンモードにしたまま変更するのを忘れていたので、空がまばゆいほどに輝いて見えた。星空を切り取るように、漆黒の全翼機が移動していくのが見えた。あれが自分のドールを運んでいたドローンだろう。すでに自己分解プログラムが発動しており、尾翼からサラサラと夜空に溶けていくのが見えた。
はっと我に返って高度計を確認する。地上まであと千メートルを切っていた。あわてて上空を向いていたドールを反転させると地面が見えた。障害物はなにもない。延々と砂漠が広がっている。GPSは妨害電波のせいで既に役に立たない。アテナが勝手にドールに保存した落下予想地点と目標地点の書いてある地図だけが頼りだが、目標地点の方を見ても暗くて何も見えなかった。微かな妨害電波の痕跡だけが視界に描画されている。目標地点まで約二キロ。あとは歩いていくしか無い。

さてどうやって着地すべきかと悩んでいるうちに地面が目の前に迫っていた。ドール内に「自由落下からの安全な着地方法」のドキュメントがないか検索しているうちに、アオハは頭から地面に突っ込んだ。
今度は頚椎が完全に折れた。再び損傷アラートがGUIを埋め尽くす。
「あー、やっちまったなぁ」
スピーカーモードにした独り言を聞く者はいなかった。ナノロボットがドールを修復するときに出る熱を、砂漠の夜の風が冷やしていく。



つづきます。

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