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【3.11】小学生だった私-1

2011年3月11日と同じ卯年になった今年
あれから12年が経ちました。

当時の私は、小学校1年生。
生まれも育ちも石巻。
内陸の方に住んでいました。

あの日は金曜日で、歯医者に行く予定でした。
学校が終わり、母の車でそのまま向かうはずでした。

午後2:30頃
帰りの会が終わって、
「一緒に帰ろー!」
という友達に今日は歯医者に行くんだと伝えたのかは分からないが、昇降口を出た私
母親の車を見つけ友達とバイバイをした。
それが午後2:40くらいだったのかな

母親の車に乗り、ドアを閉めた直後
私はシートベルトもしていない後部座席で揺れを感じました。

車に乗っていたせいか揺れがゆっくりで最初は何が起きているのか分からず、
柔らかい椅子の上でぽんぽん跳ねていました。

母が急いでカーナビでニュース番組を付け、
緊急地震速報を見ました。
その時にああこれは地震なのかと思いました。

揺れている中辛うじて座れた私は、窓から背を向けて帰った友の安否を確認しようと視線を向けると、
当時の私の小学校の校庭には砂利道と校庭の境目を示す"ブロック塀"がありました。
まだ幼い彼らは怖がり、その塀にしがみつき、
崩れる可能性があるなんて思いもしなかったでしょう
幸いにも崩れずに済みましたが、この震災の約1年後、撤去されました。

後日知ったことは、同級生は帰り道、目の前で大きな木が倒れ、危なく下敷きになるところだったとのこと


揺れが収まり、急いで家に帰りました。
家に着いたのが午後3時
暗くもないのに電気を付けようとした私は
ボタンを押しても付かない電気に
ああ、こんなに酷い地震なのか
と6歳ながらに思い、
まだ水が出ることに安堵しました。
その2日後くらいには水も止まってしまい、
給水所や給水車を往復する日々が始まりました。

当時の家には吹き抜けがあって、2階と繋がっている部分に、引くタイプの室内窓がありました。
それが1階に落ちていて、床がボコボコになっていて驚いたのは、その傷を見るたびに思い出します。

父親も無事に自宅に帰って来たのが午後4時
いくらか遅れていたら会社ごと津波に飲まれたかもしれません。

この世界でどのくらいの出来事が起きたのかも分からず、冷たいパンを頬張った午後6時
テレビも見れず、お風呂も入れず、ロウソクをじっと見つめて暇を潰していました。
両親がソワソワしている中、
一人っ子の私は何も出来ず、
ただただ時間が過ぎるのを待ちました。
この日かは分かりませんが、歯医者に行く夢を見たのはここだけの話


震災当日は何が起きたのかも分からず、酷い地震だったんだなとしか思いませんでした。
まだ6歳で勉強が楽しいと思えたあの頃
忘れないようにここに書き記しておきます。

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